第6話 播磨国風土記に記された場所
そういえば、ゴールデンウィークの初日が運動会だ。さっき各学年の体育教師たちが大会種目のことを話し合っていたのを職員室で見たばかりだった。
「部活動対抗リレーがあるんです」
「本気リレーと、バラエティリレーがあります。エントリーは希望なんですけど、剣道部は毎年バラエティリレーに参加します」
そうか、と答える南雲に、男子バスケ部が付け足した。
「本気リレーは陸上部とサッカー部、野球部の対決で、俺らはおまけです」
その言葉を聞いて、唯一の陸上部が笑った。
「じゃ、俺そろそろ行くわな」
桜井はその場で数度ジャンプすると、小さく短い足音を残して坂道を猛然と駆け上がって行った。「早い」。思わず呟いた南雲を、男子バスケ部が笑う。
「先生、大丈夫か」
「ほな、俺らも行くか」
男子バスケ部は上級生がそれぞれ下級生に声をかけていく。体操服を着た1年生らしい男子たちが緊張した面持ちで返事をする。その中には何人か名前のわかる生徒がいた。南雲が名前を呼び、「がんばれよ」と声をかけると、はにかんだように小さく頷いていた。
「行くぞっ」
部長らしい男子が声を上げると、2列になった男子バスケ部は坂道を走り出す。驚いたのは、皆で大声で歌を歌っている事だ。どうやら部歌らしい。なんとも時代がかった単語が何度か出てきて部の歴史の古さを思わせる。
「先生、ほな私らも行きますよ」
もう残っているのは彼ら3人だけのようだ。雨宮は嬉しそうに南雲を見ているが、日村は心配そうに、
「いや、俺もやるよ」
南雲は苦笑して日村に尋ねる。
「山のてっぺんまで登って降りてくるのか?」
南雲の言葉に日村が頷いた。
「陸上部は3往復、男子バスケ部は2往復、僕たちは登って降りたらそのまま体育館に向かいます」
了解。片手を上げて返事をする南雲に、月島がくすりと皮肉気に笑った。
「着いて来れへんかったら、最終的には体育館に行くんやから。そちらで待ってもろとってもええんですけど」
挑戦的な目を向けているが、無視されるよりは断然ましだ。南雲は愛想よくにこりと笑った。
「いやぁ。頑張るよ」
南雲のその言葉を聞いて日村は軽く頷くと、「行くぞ」と声をかけて走り出す。その日村の後ろを月島、雨宮が続いた。
南雲は一番後ろを走りながら、再び驚く。剣道部も歌を歌いながら走るのだが、その歌がブルーハーツの『トレイントレイン』なのだ。
……なぜ、この歌……
聞いてみたいのだが、答えるためには生徒の歌を止めなければいけない。そうなれば、せっかく自分に向いた生徒たちの興味を阻害しそうだ。南雲は後で聞く事に決めて、自分も一緒になって大声で歌いだした。
ちらり、と。
雨宮と月島が視線を後ろに向ける。からかうような、おもしろがるような、うさんくさそうな視線だった。南雲はその視線に気付かぬ振りで大声で歌い続けた。
歌い続けて。
すぐに後悔する。
歌を歌いながら坂道を一定のペースで走る事のしんどさに。
生徒たちはなれているのか、一定のところでブレスを入れるが、その呼吸のコツがわかるまで、南雲はかなりしんどい思いで山道を登っていた。
道自体は頂上までアスファルトが張られているため、大して足には負担がかからない。ただ、呼吸が苦しかった。
何度かくの字に曲がる道を上に上がって行く。すぐ側で見上げている分には高さがそれほどあるとは思わなかったが、やはりそれなりの距離がある。頂上に向かうほど、道を挟んで生える木々は高く、鬱蒼としていく。時々、その木々の間に生徒がうずくまっていてぎょっとする。薄い水色のTシャツには胸の部分に『陸上部』とプリントされていた。
木々に隠れるように座っている生徒と目が合うと、おもしろそうに目を細めて立てた指を口唇に当てて「しぃ」と言っていた。どうやら陸上部部長から隠れているらしい。
「おらぁ! 田端っ。吉住! 走らんかぁっ」
案の定、頂上の方から駆け下りてきた桜井が、目敏く部員を見つけて怒鳴る。猟犬に追われる牧羊のように、木の中に隠れていた男子生徒たちが笑いながら飛び出し、走り出す。
桜井はもう何度もこんなことを繰り返していた。彼の走行距離はとっくに山道3往復を越えているに違いない。
南雲は部員を追いかけていく桜井の背中を見ながら微笑むと、再び剣道部員たちとともに頂上に向かって走る。
定期的に呼吸を繰り返していると、次第に肺がひりつくように痛んだ。こんなに走るのは本当に久しぶりだ。腕を振っていると肩に鈍い痛みが走る。意識して力を抜き、膝から下を振り出すように前に前に運んだ。
途中。
山の中腹辺りに石柱が並んでいるのが見えた。
ちらりと視線を向けると、石灯篭と掃き清められた小さめの境内が見える。
神社だろうか。
拝殿前に下げられている提灯には下がり藤の印が見えた。
いや、藤、なのだろうか。
上部に丸い大きな点を持つ太く長い湾曲した線に、無数の黒い点が散っているように見える。藤のように見えるが、別の何かにも見えた。
変わった紋だな。
「先生」
声をかけられ、気付くと、先頭を走っていた日村が南雲の隣にいた。
「もうすぐ頂上です」
歌の合間にそう言うと、再び先頭に戻っていく。なかなか気遣いのできる部長さんだ。南雲は「ありがとう」と言葉を添えて、部員たちの後ろを走る。
日村の言うとおりだった。
目の前の道を曲がり、再び頂上に足を向けると、すぐに開けた空き地が見えてきた。
先に到着していた男子バスケ部が、南雲の姿を見て笑っている。
「お疲れっす」
「先生やるやん!」
男子バスケ部部員は山を下りながら、南雲の脇を抜ける時に手を伸ばす。南雲はその手に順番にタッチしていった。
数十歩で登りきると、顔に一気に風が吹き付けてきた。遮る物がないからだろう。風は悠然と気まぐれに吹き付けてきた。
目の前には、町内の景色が一望できる。
驚いたことに遠くに見えるのは瀬戸内海だ。高い建物がないせいか、それともこの山自体がそれなりに高いのか。山からの風景はかなり遠くまで見えた。
「先生、ちょっと休憩しよか」
頂上に着き、膝に手を置いて腰を曲げて息をしていると、雨宮が笑いながら話しかけてきた。
「いつもはどうしてるの?」
南雲は顔だけ起こして彼女に尋ねる。雨宮は日村と月島を見る。
「いつもは休憩して下に降ります」
日村は答える。その息はたいして上がっていない。その一方、月島はかなり疲れているように見えた。南雲と同じぐらいの疲労度で座り込んでいた。その姿を見て、雨宮が気の強そうな眉を跳ね上げる。
「真面目に毎回走ってへんから、そんなんになるねん」
「うるっさいな」
月島が言い返したことで、雨宮の怒りに火を注いだらしい。この一週間で聞きなれた言い争いが始まった。日村は悟りを得た僧侶のような目で二人を無言で見つめている。
そんな三人の姿を見て笑っていた南雲は、視界の隅に鉄錆びた看板を見つけた。
よっこらしょ、と呟いて腰を起こすと、その看板を見る。
看板は、一番見晴らしのいい場所に立てられていた。
立てっぱなしになっている、というのが正しいのかもしれない。白いペンキは剥げ、全体的に赤錆びている。
『町の中心地に位置する単山で、その記述は『播磨国風土記』にまでさかのぼる。応神天皇が御幸された折に、その臣下とこの山に登り四方の地を眺めたところから、「立見山」と名づけられた。
当時この地にいた民は、山に住む大ムカデの悪行に苦しめられていたが、応神天皇は臣下に命じてこの大ムカデを退治し、民は大いに感謝した。応神天皇は褒美としてその臣下に太刀を授けたという』
「君たち、この話知ってんの?」
まだ喧嘩の終結を見ない剣道部員に顔を向け、南雲は尋ねる。
「どの話ですか?」
いい加減飽き飽きしていた日村がこれ幸いに南雲に駆け寄ってきた。隣に立ち、同じように看板を見上げる。わずかに眼を細める所を見ると、彼は目が悪いのだろうか。
「祖父に聞けば知っているかもしれませんが……」
日村は首を傾げて、知りません、と応える。日村に続いて近づいてきた月島は、
「俺は他地区からの入学なので知りません」
とぶっきらぼうに答える。同じように雨宮も頷いた。そうか、と南雲も気づく。公立と違い、近隣地区の子たちが通ってきているとは限らないのだ。
「社会科の先生やから、こんな歴史っぽいのに興味あるん?」
雨宮はつまらなそうに剥げた看板を眺めて尋ねた。
「歴史っぽいというか、これが歴史なんだけどな」
南雲は苦笑して部員に視線を一巡させたが、この話に特に興味を持った生徒はいないらしい。ぱん、とひとつ柏手を打つと、「さて」と日村に話しかけた。
「俺はもう体力復活したけど。体育館に戻るか?」
剣道部部長は大きく頷くと、部員を促して山道を再び下りはじめた。
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