第2話 剣道場は、不可解な場所にある

 時計は七時三十分を指していた。

 ここから、ようやく剣道場に移動しての稽古になる。

 剣道部員は日村を先頭に、隣の剣道場に移動している。南雲もゆっくりとその後に続いた。


 剣道場は、卓球場とは壁を隔てて隣にある。

 この剣道場は不思議な場所と言えば不思議な場所にある。

 この道場に入るためには、卓球場にまず入らなくてはならない。剣道場に直接入る扉がこの体育館には無いのだ。

 卓球場の中に壁で仕切られた剣道場がある形になる。

 剣道場の出入り口にはちゃんと上靴入れも用意されており、引き戸の上部にはいかつい墨跡で『剣道場』と書かれていた。


 南雲は最初にこの剣道場を見た時、剣道場か卓球場のどちらかが後付でつくられたのだと思った。ようするに、ひとつのフロアに、強引に二つ室内を作った形に見えるからだ。

 だが、開校当時よりこの形で建てられたのだという。

 なんの意味があるのかはわからないが、おかげで、初めて剣道場に行く生徒や教師は必ず迷うのだという。

 ふと気づくと、剣道部員たちはすでに道場の中に入っていた。南雲は慌てて、剣道部員たちにならって、一礼をして剣道場に入る。


 ひやり、と。

 まだ、誰もいない道場の冷たい空気が南雲の頬を撫でていく。外は4月らしい穏やかな温かさだが、剣道場には澄んだ冷気がまだ残っていた。

 剣道部員たちは道場の西側の上座に掛けられている掛け軸に向かって正座をし、日村にならって頭を下げているところだった。


 その3つの背中を見るにつれ、南雲は思う。

 つい1週間前までは小学校の臨時教員をしていたせいか、たかだか13・4歳の子どもさえ大きく見える。

 特に、日村の隣に座る月島など身長が170近くあるせいか、時々戸惑うような感じで彼を見てしまう。

 大学を卒業して2年。接してきた児童とは、自分が屈まないと目が合わなかったが、対等の位置から見返す瞳にまだ慣れない。


「先生」

 その声に南雲は顔を向けた。ぼんやりしている間に、目の前に日村が来ていた。いつの間にかその手には木刀を持っている。

 まだ顎のあたりに幼さが滲んではいるが、広い肩幅や薄いがしっかりとした背の辺りに、成長期が見て取れる。顔の比率の割に大きな目とくっきりとした眉に意志の剛さがうかがえた。


「朝の稽古の内容はどうしましょうか」

 彼はこの地域では珍しく、綺麗な標準語を使う。聞けば、父親が関東出身らしい。

「いつもどおりでやってくれ」

 南雲は答える。

 剣道などしたこともないので、稽古の指示などとてもじゃないができない。南雲は毎朝同じ答えを返しているのだが、この部長は南雲を軽んじるでもなく、真面目にうなずいて、2人の部員の元に走っていく。


「どうせいつもどおりやろ」

 駆け寄る日村に、月島がちらりと南雲を一瞥してそう言った。剣道未経験者の南雲を、彼はどこかバカにしているらしい。

 南雲が彼に目を向けると、だがすぐに視線をそらす。大きな体の割には意外に肝は細い。当初、彼がこの部の部長かと思いきや、そうではない理由はそのあたりにあるようだ。栗色の髪や、色素の薄い鳶色の瞳と長身は、女子には大変人気があるらしい。今朝も、寝癖がついている日村とは対照的に、随分としっかりと髪をブローしてきた気配があり、南雲から見ればなんともほほえましい。


「そう思うんやったら、はよ木刀持ちぃな」

 そんな月島に声をぶつけるのは、雨宮だ。

 剣道部唯一の女子である彼女は、とにかく気が強い。男二人を尻に敷き、完全に女王様の風情だ。今も南雲の目の前でつんと顎を上げ、睥睨するように男子二人を見ている。

 一つに束ねた長い黒髪や、屋内競技独特の白い肌など、ひとつひとつを取り上げれば随分とかわいらしいのに、その言動と態度がその容姿を霞ませている。


「振りおろし50回、始めるぞ」

 木刀を二人が手に取ったのを確認すると、日村が明瞭な発音でそう言った。

 同級生同士のせいか、特に改まった返事が二人から返ってくるわけでもない。日村も期待はしていないようだ。


 三人は円陣を組むと、日村の掛け声に合わせて素振りを始めた。

「一っ」

「めんっ」

「二っ」

「めんっ」

 三人の大声は道場を震わせ、南雲の体を響かせる。

 初めてこの大声を聞いた時、心底驚いた。たった三人とは思えない声量だ。南雲自身は中学高校とバレーボールの競技経験者だ。声を出すのは、チーム同士連携をする時や気合を発するときだが、それでもこんなに大声を出したことは無い。


 この一週間。おっかなびっくり剣道部の顧問を務めてみたが、この競技に興味を抱き始めた自分に気づくときがある。

 ぴぴっ。

 生徒たちの発声の合間に、微かな電子音が響いた。ちらり、と腕時計に目を走らせる。七時四五分。そろそろ職員室に移動する時間だ。


「日村」

 南雲が声をかけると、三人は動きを止めた。日村の大きな目が自分に向けられるのを確認し、南雲は軽く手を上げる。

「職員室に行くから。あとはいつも通りな」

「わかりました」

 日村は律儀に答えたが、他の二人の生徒は特に興味もないらしい。木刀を構えたまま、日村の発声を待っている。


 南雲は道場に一礼をして退席すると、卓球場に出た。リズミカルに卓を跳ねるボールの音を聞きながら、南雲は卓球場を素通りし、金網の入ったガラス扉を抜けて一階の出入り口まで歩いていく。

「南雲先生」

 声を掛けられて顔を上げると、2階フロアから続く螺旋階段を下りてくる小柄な姿が見えた。


 

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