第3章 ボランティア組織『あおぞら』
1.
週明けて火曜日、4月14日の朝。隼人は、学部棟B201教室に入っていった。今日の1コマ目は学芸員資格のための講義。よって、ゼミの仲間がほとんど教室にいるわけなのだが、教室に入った瞬間から、どうも雰囲気がおかしい。
皆がこちらをちらちら見てひそひそ話をしているし、真紀は目をキラキラさせてるし、美紀はウルウルでプルプル……はいつものことか。
そんなみんなの輪から、松木が抜け出してきた。
「おはよう、隼人君」
わざわざ君付けまでして、いったいなんなのかと聞いてみると、隼人に関して良からぬ噂を聞いたので、ちと尋ねたいことがあるのだと言う。
何だよ、と返した隼人に、真顔になった松木が顔を近づけて聞いてきた。
「ミス・キャンパスと付き合ってるって、本当か?」
「ミス・キャンパス?」
思わずオウム返しをする。俺にいつそんな派手な交友関係が築かれたんだ、と最近の行動を思い返すが、ボランティア関連以外には思いつかない。いや待てよ、もしかして。
と、そこへ、横合いから告発者あり。しかもなぜか楽しげにしか見えない追及が始まった。
「しらばっくれても無駄やで、隼人君? これを見てもまだ、そんなとぼけた顔ができるの?」
真紀が隼人に見せつけてきたのは、フルカラー刷りのパンフレットらしきもの。パンフレットの表紙には『浅間大学 入学案内書』の文字。そして、その下には、大学図書館の前で右方向を見やる理佐の姿が写っていた。
まるで氷の女神の彫刻のような涼しげな横顔だが、薄い紅色の頬とバラのつぼみのような赤い唇が、被写体が彫刻ではないことを物語っている。オフホワイトのワンピースにベージュのカーディガンを着た、『フェミニン』とかいう感じの、そんないでたちだ。
「付き合ってないぜ別に」
理佐に付いている肩書に驚きつつも、隼人は、なんだそのことかという表情になった。
「落し物を、先週の金曜日に学食で返しただけじゃん。その程度で付き合ったとか、中学生じゃないんだから」
「じゃあ、まったく縁もゆかりもない人なのか?」
松木はとたんに興味を失ったご様子。
「縁やゆかりがないわけじゃないな。ボランティアの登録に行ったら、この子がいたし」
ここで思いついて、この際面倒な周知をこの場で行うことにした。案の定、周囲は一気にざわめく。
「なんだよボランティアって」
「なんでまた今頃」
「その子目当てじゃねーの」
「介護関係のボランティアで、その資材とか在庫を夜間に整理したり、お年寄りの介護を手伝ったりするボランティアだよ。バイト関係の人で誘ってくれる人がいてさ。単位がもらえるだろ確か。それから、その女の子目当てじゃねーよ。行ったらいたんだって」
嘘にならない範囲で詳細を説明する。支部長が自分と同じ塾で以前バイトしていた『関係』だし、単位がもらえることも教えてくれた。理佐目当てじゃないことも確かだ。
この説明で周囲はある程度納得してくれたようだが、告発者のほうはそうはいかなかった。真紀が再び立ち上がる。
「隼人君、キミ、忙しいんちゃうの?」
「ああ、しばらく週1だよ。事情を話したら、それでいいって言ってくれたから」
隼人の更なる説明にまたも周囲はざわめいたが、しかし先ほどとは違っていくらかくだけた雰囲気となった。
「そんなんで単位もらえるのかよ」
「大丈夫か、そこ? つか、俺が紹介してほしいよ」
「お前まだ単位足りねーのかよ」
そんなざわめきの中、担当教官が教室に入ってきて、追及の場はお開きとなった。
2.
2コマ目のゼミも終わり、お昼時となった。足早に教室を出ていく隼人に、美紀が声をかける。
「あの、隼人君……今日もこの後、例の?」
「ああ、うん、そう」と曖昧に答える。
「だったら、下の学食で一緒にお昼食べへん?」
「ごめん、約束があるから」
「……!」
一瞬で悲しげな表情に変わる美紀に申し訳なさを感じつつ、また今度な、とフォローともいえない言葉をかけると、隼人は階段を降りていった。約束というのも、嘘じゃない。 1コマ目の終わりがけに、支部長からメールがあったのだ。
『三人娘がお昼おごるから、一緒にどう? って聞いてほしいって』
そういえば、アドレスも何も交換してなかったことを彼は思いだし返信した。『オッケーって伝えてください』と。
そしてまた折り返しのメールで指定された場所に彼は、ちょっとウキウキしながら向かっている。生協の第2食堂、通称『ニショク』だ。いつも行く学食、通称『イッショク』より高級感のある(といっても所詮学生向け食堂なのだが)内外装の、コジャレた感満載の場所である。
中に入って見回すと、三人娘とやらはすぐに見つかった。優菜が4人がけのテーブルから立ち上がって手を振っている。その顔は満面の笑みで飾られていて、ちょっと怖い。
「ごめんな、急に呼び出しちゃって。今から、お前のごはん取ってくるから」
「え? いいよ自分で選ぶから」
戸惑う隼人を手で制し、優菜は足取りも軽やかに食券売場――この辺が所詮学食なのだ――へと向かった。まあいいか、と違和感を抑え込んで隼人は席に座り、右の理佐に尋ねる。
「なんでまた急におごってくれる、なんてことになったんだ?」
隼人のある意味当然の質問に、理佐がなぜか口ごもっていると、彼の左から、先日は『アクア』と名乗っていた女の子が代弁してくれた。やや癖のある黒髪をベリーショートでボーイッシュにまとめた、優菜とは別の意味で元気そうなかわいい子だ。
「隼人君がバイトいっぱいやってて大変だって支部長さんから聞いたからさ、毎回ってわけにはいかないけど、お近づきになった記念にお昼でもおごろうかな、って優菜がね」
そんなことを話していると、優菜がトレイを捧げ持って帰ってきた。
「待たせたな、隼人。さ、たーんと食らいやが……ゲフゲフ、お食べなさい」
と隼人の目の前にトレイを置いてくれた。
「いま、何か言おうとしなかったか?」
隼人は怪訝な顔をしたが、眼前の料理から発せられる、えもいわれぬ良い香りに、疑念はすぐに押し流された。
それは、『ニショク特製 ゴールデンリッチカレー』であった。別の器によそってあるルーはもちろん手作りで、具もライスも厳選素材というふれこみ。しかもトッピングを2種類まで無料で追加できる。眼の前のライス皿にはとんかつとエビフライが乗せてあり、いかにも男子向けのチョイスがしてあるのが嬉しい。
ちなみに松木の『いつもの』がこれで、トッピングなど邪道とのたまった松木を男子総掛かりで小突いたのは1年次の思い出である。
「うぉぉ! ありがとう、みんな! いただきます!」
「お、おう」
隼人の輝く表情にビビったのだろうか、優菜が答えるのも待たず、ルーを全てライスとトッピングにぶっかけて、隼人は食べ始めた。
「いや、隼人君? それは食べる量を少しずつかけていくものじゃ――」
理佐が半ばあきれているのも意に介さず、隼人は食べる。食べる。食べる。
「ん? どうかしたのか?」
みんなの視線が自分に集中している。そのことに気づいた隼人が顔を上げたときには、すでに半分を食した後だった。
「い、いや。隼人、それ……辛くないか?」と優奈が怪訝そうに尋ねてくる。
「うん、すごく辛いなこれ。初めて食べたけど」
こんな辛いの、あいつよく食えるもんだな、などと半ばは独り言にして、また目いっぱい頬張る。
(ちょっと、どーなっての、あれ?)
(おっかしいなぁ、たっぷり混ぜてやったのに)
「どうした? ああ、食べてみたいのか。いいよ、食べかけでよければ」
ひそひそ話を始めた2人を見咎めた隼人はそれを好意的に判断し、2人に向かってライス皿を押し出した。
「! い、いや、それは……」
「るいはちょっともらうね。ほら、優菜も。(断るのも変だよ。ちょっとだけなら大丈夫だって)」
優菜はるいに何やらささやかれ一緒に一匙、カレーを口に入れた次の瞬間。
ガタッ。
2人して無言で立ち上がり、早足で出口めがけて立ち去ってしまった。
「どうしたんだ、あいつら?」
「あ、あはははは……お、お花を摘みに行ったんじゃないかな」
理佐に尋ねるも、なぜか苦笑いされてしまった。
「ふーん、仲いいんだな。ああ、君も食べる?」
「ごめん。わたし、辛すぎるのは苦手なの」
真顔で断る理佐であった。
「ああ、そういえば――」
と隼人が聞きかけたその時、理佐の携帯が鳴った。着信画面を見て、彼女の顔が曇る。ちょっとごめんねと言い残すと席を立ち、人がいない窓際へ歩いていってしまった。話し声は聞き取れないが、なにやら揉めているようだ。
隼人がカレーの残りを平らげながら待つこと数分、理佐ではなく、2人が戻ってきた。なんだか顔が赤い。お帰りと声をかけたが、隼人はにらまれてしまった。
「お前さ、ひょっとして、何食べてもおいしい人?」
「ん? ああ。なんで?」
(なんであたし特製ハバネロソース食べて平気なんだよ!)
優菜が何か小声でぶつぶつ言っているのを聞きとがめた隼人だったが、『別に』と重ねてにらまれる。俺が一体何をしたんだと問うより早く、るいが理佐を見つけて声を潜めてつぶやいた。
「また利次かぁ、ほんと大概にしてほしいよね」
「トシツグ?」
隼人が怪訝顔で尋ねると、るいは自席に座ってハンバーグセットに手を付けながら、カレシだよ、とさらに声を低めて教えてくれた。
「かなりのヤキモチ焼きでね、理佐がほかの男子と一緒にいると、すぐ電話してきたり、詰め寄ってきたりして威嚇してくるんだよ」
「ていうか、どこから監視してるんだ? 食堂内にはいないよな?」
カルボナーラにフォークを絡めながらの優菜の言葉に、隼人も周りを見回すが、それらしい男は見当たらない。
「へぇ、そりゃまた難儀だね」
「なにとぼけたこと言ってるの。隼人君、マークされちゃってるんだよ?」
そう言われてもねぇ、とどこまでもとぼける隼人だが、実際どうしようもないわけで。
「まあ、理佐もヤキモチ焼きだから、お似合いと言えばお似合いなんだけどな」
「……それ、血を見ないか?」
ちょっと心配顔になった隼人に、るいがにやにやし始めた。
「気になる?」
「別に。他人の彼女に興味はねぇよ」
隼人がそっけなく言うと、優菜とるいが今度はやや引き気味になった。
「すごい自信だな、おい」
「もしかして、モテモテ兄やん?」
別に、とさらにそっけなくなった隼人が2人にからかわれていると、ようやく理佐が戻ってきて、席に着くなり大きなため息をついた。女子2人から慰労の言葉が理佐にかけられた後、そのまま少し気まずげな空気が流れる。このままではいけないと思ったのか、理佐から会話を切り出してきた。
「さっきさ、隼人君、私に何か聞こうとしてなかった?」
「うん? ああ、えーと、そういえば、まともに自己紹介してないなって。あ、神谷隼人です」
3人の女の子はクスクス笑いながらかしこまって、隼人にそれぞれ名乗ってくれたうえ、アドレスの交換にも応じてくれた。3人とも3年生、つまり隼人の同学年だった。専攻は理佐が英文学、優菜とるいが経済学とのこと。
「るいたちはゼミも一緒なんだよ。隼人君は?」
「日本史学」
「またマニアックね」と理佐がうなる。
「英文学の人に言われたくないなぁ」
隼人が受けてたち、にらみ合う2人。それを見たるいと優菜が笑う。
「マニア同士って、本当にかみ合わないもんなんだね」
「その点、あたしらは実学ですから」
「擬似科学は黙っててもらおうか」
隼人の揶揄に経済学部生2人がぐぬぬ、となったところで、また理佐の携帯が鳴った。
「もしもし、――もう、利次君! いい加減にしてよ……」
今にも泣き出しそうな理佐を見て、隼人はすっと席を立った。
「んじゃ、消えるわ。ごちそうさま」
「あ、ああ。またな」
優菜が手をあげた。るいも少し遅れてにこやかに手を振る。
「今からバイト?」
ううん、ヤボ用、と隼人は優菜に答えて手を上げ、出口に向かう。見上げた理佐が『ごめんね』と唇だけ動かすのを見て微笑むと、ニショクを出た。
3.
17時。隼人は、支部に出勤した。サポートスタッフのメンバーに挨拶と自己紹介後、横田に連れられて、施設内各所の案内をしてもらう。まず2階の控え室とその奥にある男女のロッカーとシャワー室を見せてもらい、食堂へ。厨房のおばちゃんたちに挨拶をしたあと、隼人と横田は3階にある会議スペースの奥、支部長室に向かった。
横田が支部長室の扉をノックして開けると、支部長が机に向かってなにやら書き物をしていた。こちらを見て微笑み、机正面の応接セットに座るよう促す。
「おはよう、隼人君。これからよろしくね」
「あ、はい。よろしくお願いします。やっぱり出勤時の挨拶は、おはようございますなんですね」
隼人がちょっと照れくさそうに言うと、対面に座った支部長は、そうねと笑い、書類を彼の前に差し出した。
説明を一通り受けたあと、書類に記入し、持ってくるよう言われていた判子を押す。その後、シフト表に自分の予定を書き込んで、隼人は正式にボランティアの一員となった。
「じゃあ、隼人君のコールサインを決めなきゃね」横田が何かの用紙を取り出して確認を始めた。
「支部長がAだからアルファで、僕がB、つまりブラボー。隼人君は7番目だから……G、ゴルフだね」
耳にはめるタイプの小さな通信機も貸与されて、隼人と横田は支部長室を辞した。
それから4階の仮眠室を軽く説明された後、隼人たちは1階へと降りた。
「そして1階が、倉庫と、表のボランティアさん達の使うスペース、そして駐車場だね。言い忘れたけど、2階にも倉庫があるんだ。そこの資材を下に運んだり、逆に下に置いておけない資材とかを2階に運んだりするのが、僕らの普段の仕事。残念ながらエレベーターがないから女性スタッフには結構きつくてね」
「じゃあ、さっそくやりますか」
隼人は腕まくりをして、既に始まっていた荷物運びに加わった。
1時間後、隼人はほかのスタッフたちと、食堂で休憩していた。4月中旬とはいえ、結構な肉体労働で汗をかいたため、ただのお茶でもおいしい。
「さすが男の子。力持ちで結構結構」
と、永田という名の女性スタッフが隼人を褒めてくれた。ほかの女性スタッフも異口同音に褒めてくれる。
「スピードも持久力も違うよね。最後のほう、隼人君と横田さんで上下往復してたもんね」
横田が、無口になった隼人を気遣う表情を見せた。隼人はちょっと赤面して答える。
「いや、久しぶりに褒められたんで……」
「もう、隼人君ったら、かわいい!」
今度は長谷川という女性にからかわれて、隼人はますます照れて頭を掻く。実際、塾のバイト以外でこんなに褒めらたことがない。照れ隠しに隼人は話題を変えようと、この間から疑問に思っていたことを聞いてみることにした。
「あの、そういえば、ここの会長さんって、変わった人ですよね?」
「え?! 会長に会ったの? いつ? どこで?」
いきなり食いついてきたのは、長谷川だった。先ほどとは人が変わったように眼を光らせ、隼人の胸倉を掴まんばかりの勢いだ。隼人はたじろぎながらも釈明する。
「いや、会ったわけじゃなくて、ここの公式サイトで写真を見ただけっすよ」
とたんに長谷川の勢いがしぼむ。その時ほかのスタッフを見やった隼人は彼らがなんともいえない奇妙な表情をして押し黙っているのに気付いた。
もしかして、触れてはいけない事に触れてしまったのか? 出勤1日目にして、俺、やっちゃった? 悩みだした隼人を助けてくれたのは、横田のあっけらかんとした返事だった。
「もしかして、あの髪の毛の色のこと? そうだよねぇ、あれ見たら」
「そう、そうです!」
隼人は地獄に仏を見た思いで、急いで相槌を打つ。先日の昼休みに、今更ながら自分が加入する組織のことを下調べしようと、大学図書館でパソコンを使って検索してみたのだ。
当然のことながら、オモテの、当たり障りのないことしか書いてない説明を流し読みし、『会長あいさつ』をクリックして出てきた画面を見たとき、隼人は軽く5秒ほど画面を凝視したまま固まってしまったのだ。
そこには、20台半ばと思しき1人の女性のバストアップ写真が掲載されていた。やや垂れ目がちな大きな瞳に高い鼻、口も大きすぎず小さすぎず、そんなパーツが適正な位置で、ややふっくらとした顔に収まっている。美人だといっていいだろう。だがしかし。
「なぜにオレンジ?」
隼人は思わず声に出してしまい、隣でパソコンを使っていた学生にこちらを見られてしまった。会長の頭部を飾る髪の色は、赤みの勝ったオレンジ。黒いベレー帽まで頭に戴いて、ますます怪しさ爆発だ。
ついでに言うと、細く形のいい眉も、そのオレンジ。瞳はさすがにカラーコンタクトがなかったのか黒いままなのだが、
(サイケだなぁ……)
今度は注意して胸の内につぶやいて、ほかの画面を呼び出した隼人であった――
「まあ、あたしらも会ったことないけどさ、あの髪はちょっとね」
女性スタッフの1人が発言するのを、別のスタッフが受ける。
「あのへアカラー、どこで売ってるのって感じだよね」
「皆さん、会ったことないんですか?」
隼人が驚いて周りを見回すと、横田がかぶりを振った。
「無いね、僕が知る範囲では。支部長たちはあるみたいだけど。まあ、敵に捕まらないよう隠れてるって話だし」
長谷川がぽつりと漏らす。
「……なんで、出てきてくれないんだろ、会長」
「いやだから」と隼人が言いかけて、また気づく。周りの、なんともいえない雰囲気に。
4.
休憩を終わって、今度は清掃。2階の控え室から順番に、掃除機と雑巾で掃除していく。どうも久しぶりにサポートスタッフが全員集まったらしく、この人数ならと横田が提案したのだ。
「といっても、いつもは1人か2人欠けてるだけなんだけどね」とは永田の弁。
「そうなんですか。あ、永田さん、元栓締めました?」
隼人の声がタイルに反響する。
隼人と永田は女性用シャワー室でシャワーの1つを修理していた。そういえば、一番奥の出が悪かったっけ、と彼女が思い出して、隼人を引き連れてやって来たのだ。シャワーヘッドが高い位置にあって、隼人君なら手が届きそうだから、と。
「これを外して、と……」
「わ、さすが高身長!」
隼人がヘッドを外して、中に詰まりがないか確認していたとき。シャワー室の扉が開いて次の瞬間、息を呑む音が聞こえた。振り向くと、そこには――
「な、な、な――」
理佐がいた。
手にしているタオルで下腹部を隠し、手ブラで胸をさっと遮ったが一瞬遅く、隼人にとっては実に眼福な瞬間だった。そしてそのまま、2人して固まる。沈黙を破ったのは、永田の一言だった。
「あ、ごめん。張り紙忘れた」
「なんであなたがここにいるの!」
我に返った理佐が叫ぶ!
「ごめん!」
と隼人も一言叫んで、出口へ駆け出す。ロッカー室を飛び出して控室に戻ると、長谷川がニヨニヨしていた。
「初日からトバすねぇ」
返す言葉も浮かばず、隼人は椅子にへたり込んだ。
15分後。永田と2人並んで土下座する隼人に、理佐が言った。
「隼人君、お願いがあるんだけど」
「なんでしょう」
「忘れて」
「はい」
永田の張り紙張り忘れにより情状酌量されたようで、許しが出たらしい。隼人は立ち上がると、控室を後にしようと扉へ向かう。それにしても……
(いい形してたな……色もきれいだったし……腰回りはもう少しむっちりしてたほうがいいんだけど……ああでもバランスが崩れるか……)
「は や と く ん?」
既にして猫なで声であることに気づきダッシュで逃げねばならないところを、うかつにも振り向いてしまった隼人。彼はそこに鬼を見た。デッキブラシを上下逆さに、まるで槍のように構えている理佐という名の鬼を。
「忘れろって言ったのに、なに記憶を反芻してるのよ! このエロ猿!」
とまで隼人に言葉を叩きつけて、理佐はすうっと息を吸い、引導を渡しに来た。
「言いわけがあったら聞いてあげるわ」
眼が座ってる。だめだこりゃ。
覚悟した隼人は笑顔で率直な感想を伝える。
「怒った顔も綺麗だね、理佐ちゃん」
そしてぱっと右手で喉元を、左手で鳩尾を守る。突きなら、ここさえ守っておけば致命傷にはならないはず――
衝撃は、脳天に来た。理佐は手練の早業でデッキブラシを逆手に持ち替えて、くるりと回転させ、ブラシの部分、つまりあの木の塊で隼人の頭を打ちすえたのだ。
理佐の首元で踊る赤いペンダントの煌きを最後に、隼人は意識を失った。それ死んじゃう死んじゃう、と心の中でうめきながら。
5.
21時10分過ぎ。美紀は風呂から上がると、缶ビールを冷蔵庫から取り出した。そそぎ口を開けてそのまま一口飲むと、疲れた体にアルコールが滲みる。バイトも忙しかったが、何より今日は心が疲れた。
(隼人君、どこ行ったんやろ)
昼、隼人を見つけられずじまいだった。いつもの学食にはいなかった。真紀がメールを打って確認しようとするのを制したのは自分だ。
(だって、今日は隼人君のヤボ用の日やもん)
彼がこの火曜日の午後だけは、どんなに連絡を取ろうとしても、絶対に出てくれない。だからこそ、『先に約束があるから』という、彼の言葉が気になる。言葉だけでなく、あの時の彼の表情が。あれは――
浮かれてた。
めったにないことだ。特にここ5カ月くらい、彼は何かに必死だった。
バイトをいっぱい増やした。飲み会にもあまり来なくなった。どうも食事の回数を減らしていた時期もあったようだ。
知りたい。
でも、教えてくれないのだ、絶対に。
ヤボ用だよ。そう言われて、ゼミ仲間全員が聞き出せなかった。
もしかして、あのボランティアと関係があるんやろか。
美紀はそこまで考えて、あの顔を思い出す。あの、ミス・キャンパスという華やかな経歴に彩られた美貌を。
でも、ボランティアを始めたのはつい最近みたいやし。
そこまでいって、美紀の思考は振出しに戻る。
ヤボ用。
ミス・キャンパス。
ボランティア。
ぐるぐる回る、出口のない迷宮を彷徨う。疲れるのは当たり前だ。そもそも勝算の低い戦いであることが、美紀を苦しめている一番の要因なのだ。
(なんで、好きになったんやろ)
そもそもは、1年次のオリエンテーリングで同班になって、優しくしてもらったことがきっかけだった。はっきりと想いを伝えたことはない。伝えて、振られるのが怖い。
その点、真紀は違う。男性関係も積極的で、色気づいてからの勝率は4割弱、まあまあやな、と友人たちに吹聴して笑っている。
そんな真紀に相談したことがある。うち、どうしたらええんやろか。
「当たって砕けろ。他にいい男なんていくらでもいるんだから」
それができないで困っているというのに。
(ほんまに、ヤボ用って、なんなんやろ)
まだしばらく、美紀は迷宮を彷徨う羽目になりそうで、脱出アイテムは缶ビール1本では到底足りそうになかった。
同時刻。市の北側にある広大な市民公園に出現したオーガ4体は、エンデュミオール2人の迎撃を受けていた。
「うぅらうらうらうらうらうらぁ!」
おどろおどろしく叫び、氷槍を頭上に旋回させて、ブランシュが敵めがけて吶喊する。
突き、薙ぎ、叩く。今宵、ブランシュの攻撃は苛烈を極め、時々反撃を受けながらも次々と敵にダメージを与えていく。いったん立ち止まって周囲をねめ回したのち、再び先ほどの奇声を上げて突っかかっていくブランシュ。
「あっかんべーをして、魔法でも発動させそうな勢いね」
支部長があきれた様子でつぶやくと、ルージュから通信が入る。
「アルファ! 訳の分からないこと言ってないで、指示くださいよ!」
「ルージュはブランシュの右から回り込んで。公園出口に封をしつつ、その場で迎撃よ」
ルージュに指示して、支部長は暴れ狂う白いエンデュミオールを眺める。
5分後、残り2体となったところで、ブランシュが一旦距離をとった。そのまま氷槍を垂直に捧げ持ち、スキルを発動させる。それを見たオーガたちが、傷を負い追撃に遅れたルージュを置き捨て、ブランシュに殺到する。
スキル発動までの溜めの間は無防備。いかなオーガでもそれくらいは分かる。だが、横一列でやって来たことが、この醜い妖魔たちにとっての不運となった。
「雪となって散れ! ネージュ!」
スキル名を叫んだブランシュが、氷槍を横に払う。十文字の穂先はオーガたちの体を横薙ぎにし、斬られたオーガはそこから全身を白く細やかな雪に侵され、やがて崩れ去った。
さすがに肩で荒い息をしている仲間の元に、こちらも手負いのルージュが近寄り、お疲れと声をかける。サポートスタッフも駆け寄ってきて、出血している箇所の処置を始めた。
「荒れてたね、ブランシュ」
長谷川がルージュの腕に包帯を巻きながら話しかけると、ルージュはにやりと笑って答えた。
「いやいや、照れ隠し半分、でしょ」
長谷川の怪訝な顔に、ルージュは訳知り顔で説明する。
「そ、隼人に『怒った顔も綺麗だね』って言われて照れたと思われ」
「ルージュ?」
背後からの声にルージュと長谷川が振り向くと、ブランシュがまだ消していなかった氷槍を突きつけてきた。
「あなたも散りたいの?」
「照れ屋さんだなお前はよ。だいたい、キレイダ、なんて言われ慣れてるだろうに」
「そりゃそうだけど」
「あっさり肯定したわね」
長谷川がくすりと笑う。
「そういう奴ですよこいつは」
ルージュも笑う。
「さ、撤収よ。アクアが10時に来るそうだから、それまで痛みは我慢してね」
支部長の号令で、一同は撤収を始めた。
その頃、支部の控え室では、隼人がようやく気絶から目覚めていた。頭が痛い。
「当たり前っしょ。よくまあ、あの状況であんな歯の浮くセリフが言えるわね。おねいさん、感心したわ」
永田が豪快に笑い、背中をばんばん叩いてくる。揺れる頭に何か乗っていると手をやれば、冷却ジェルの特大だった。
「みんなはどこですか?」
施設内が静かなことに違和感を覚えた隼人の問いに、出動したと永田が答えた。
「もう戻ってくるんじゃないかな……ああ、撤収したようね」永田が自分の携帯を見て隼人に教えてくれた。スタッフの携帯には、敵の出現や対処の状況がリアルタイムで配信されるアプリが登録してある。
トイレに行くと言い立ち上がった隼人に、永田が声をかける。
「今度はトイレで待ち伏せ?」
「見つかったら、座り込んだ姿も麗しい、って言いましょうか」
「今度こそ頭カチ割られそうね」
永田はまた豪快に笑った。下の階から、車の停車音が聞こえてきた。
6.
「またいっぱい怪我してんな」
隼人の感想に、ルージュ、いや、変身を解除した優菜は反論する。
「しょうがないだろ。そういう仕事なんだし。大丈夫、るいが10時には来るって――」
「ああ、るいちゃんからさっき連絡が来て、30分くらい遅れるごめん、って」
るいからの伝言を永田から聞いて、優菜も理佐も椅子にへたりこんだ。大丈夫かと近づいてきた隼人が、優菜の腕を見て声を上げる。
「包帯ずれてきてるじゃん。直すからちょっと動くなよ」
というなり優菜の正面に座り、くるくると包帯を解き、また巻き始めた。
「え、あ、ちょっと!」
突然の行動にみんなが驚く中、するすると器用に包帯を巻きつけていく。すぐに見た目もきれいに巻き上がった腕の包帯を見て、優菜はお礼を言った。自分の頬の熱さを自覚しながら。
「サ、サンキュ。器用だな、お前」
「ん? ああ、慣れてるから」
そっけなく答えた隼人の視線が下へ移動する。
「ありゃ、こっちは血が滲んじゃってるな。換えるぞ」
「え?! ちょ、ちょと……」優菜があわて、ますます頬が赤らむ。
「ん? どうした?」
「いや、だから、その、太ももは、ちょっと……」
赤い顔の理由に気が付き、隼人もどぎまぎした顔で手を引っ込めた。
「はいはい、乙女の微妙な部分はあたしらでやるから、男どもは食堂でも行ってて。ありがとね、隼人君」
長谷川が隼人の肩をたたきねぎらう。隼人と横田は素直に出て行った。
「……で、理佐ちゃんはなんで仏頂面してるの?」
永田が真顔で理佐に問う。
「別に、仏頂面なんかしてません」
言葉と裏腹に、理佐はぷいと永田から顔を背けてしまった。
「察してやってくださいよ、永田さん」
優菜がしたり顔で永田に告げ、理佐を煽る。
「お前も隼人に包帯直してほしかったなら、そう言えばよかったのに。『わたしの脇の傷、ちょっと見てもらえないかしらん?』ってさ」
「……優菜、あなた、わたしに何をさせたいの?」
「べつにー」
茶化した返事をする優菜からも顔を背けて、理佐はますます仏頂面を決め込んだ。
「青春だねぇ」
「ですねぇ」
スタッフはみんな、くすくす笑っている。
7.
23時過ぎ。ここは、支部にほど近い居酒屋。サポートスタッフは、2階のお座敷で隼人の歓迎会を開いてくれた。乾杯のあと、早速永田が隼人に声をかける。
「で、どう? 働いてみて」
「永田さん、早いよ。まだ今日来たばかりなのに」
と横田が苦笑するが、永田はファーストインプレッションってもんがあるでしょと譲らない。
「楽しいとか、面白いとかはまだないですけど、いい雰囲気ですね」
隼人がコメントすると、無難にまとめたことについて永田が豪快に笑い、さらに絡んでくる。
「では第2問! どの子狙いなの?」
「永田さん、第2問でそれですか」
横田がまた苦笑するが、止める気はないようだ。
「で? 隼人君?」と永田。
「別に。だって、みんな彼氏持ちじゃないですか」
隼人の答えは永田の意外な反応を呼んだ。
「おお、ここで明美ちゃんのターン!」
「きゃー」
永田の煽りに長谷川が身体をくねらせる。ちょっと棒読み気味だが。
「あははは、隼人君、年上もイケるんだ?」
横田がキラリと眼を光らせる。
「ええ、まあ。ていうか、あれ? 長谷川さん、いないんすか?」
「うん。なんで?」
「いや、美人だし、普通にいると思ってました」
「うわあ、ほんとに真顔で言うんだね、隼人君」
女性スタッフの1人が眼を見張り、別のスタッフも声を合わせる。
「そうよ、あの怒りの理佐ちゃんに向かって『綺麗だね』なんて普通言わないよね」
あれはもう逃げられないからと隼人が釈明するが、みんなは取り合わない。
「僕なら土下座するな」と横田。
「あたしなら泣いちゃうかも」と長谷川。
「どちらかだよねぇ」と残りの3人が声を揃える。
隼人も苦笑してビールを飲み、やっと来た刺身盛り合わせに手を伸ばす。
「そうか、理佐ちゃん狙いか。茨の道よのぉ」
永田はまだその話題を手放す気はないらしい。
「ああ、ラブラブなんだよね、彼氏と」
と横田が言うと、女性スタッフの1人が乗ってきた。
「ていうか、彼氏がかなり束縛好きみたいだし」
「えー、痛いのはちょっと」
眉間にしわが寄る長谷川に、永田がツッコむ。
「明美ちゃん、それ、束縛とちょっと違う」
盛り上がる女性スタッフたち。いつでもどこでも恋バナは、女性にとって、居酒屋の料理に勝るご馳走のようだ。
「だいたい、なによあのペンダント。あんなの贈るか?」
「明美さん、最近またあれ、流行ってるんですよ?」
と女性スタッフの1人が、やや酔いの回った眼で長谷川を見る。
「といっても、アンティークものじゃないとだめみたいですけれど」
「知ってるわよ、あれ、おフランク製だかでしょ?」
長谷川がややむきになって反論する。ちょっと酔ってきているようだ。
「ペンダント……」
隼人の記憶は、殴られる瞬間見た理佐の細い首元に飛ぶ。
「付き合ってすぐに、『君に似合うのをやっと見つけたんだ、向こうで』って渡されたって言ってたよ」
「キザだねぇ」
「というわけで、隼人君」
会話を聞きつつ食べ物を貪っていた隼人に、また永田からボールが飛んできた。
「がんばれ! おねいさんは応援してるぞ!」
「いや、だから、他人の彼女に興味はありませんてば」
「おお、また明美ちゃんのターン!」
「きゃー」
ははは、と横田が笑う。もうすでにかなり酔いが回っているようだ。
そのまま会話は、横田が酔いつぶれて寝てしまったこともあって、女性ならではの話題に終始し、2時間ほどでお開きとなった。隼人も過去のあれこれを聞かれたが、適度に話のネタになる程度の露出度で抑えた。
横田をタクシーに押し込んで、永田が彼の奥さんにメールをする。飲み会恒例のことらしく、だれも横田を気遣わないのが、隼人にはやや不憫に思える。
そしてタクシー組と徒歩組に分かれて解散となった。今日は原付で来ていないため、隼人は4人での徒歩組だ。それも1人減り2人減り、最後には長谷川と2人になった。街灯が点々と続く中を、黙々と歩く。
「楽しい?」
突然、長谷川が聞いてきた。
隼人が戸惑った声を上げると、長谷川は続けた。サポートなんかして、楽しい?
「まだ分からないです」
憮然と答える。自分に華やかな場が似合うとは到底思えないが、この4つ上の女性の質問は、なにか彼を不愉快にさせる成分を含んでいた。
「私はイヤ」
長谷川は傲然と言い放つ。こんな縁の下の力持ちなんて、私の趣味じゃない。そこから続く愚痴の数々を、隼人は聞き流した。
バイトの現場でも時々いる、不平屋様。現状を変える気もない、自分が変わる気もないくせに、なにかと不平を訴えて、自分はちゃんと憂いているんだとふんぞり返る。それに逐一反論するほど、隼人はお子様ではない。
好きにすればいい。俺が巻き込まれなければ。そう思っていた隼人を酔眼で見据えて、長谷川は宣言した。
「あたしは、エンデュミオールになりたいの」
変身して、ドカーンと妖魔をやっつけて、この日本の平和を守りたいの。
それだけのたまうと、長谷川はサヨナラを告げた。あとに残った隼人は、なんともいえない表情でしばらく見送った後、またとぼとぼと家路をたどった。
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