第六話 犬より始めよ
「それで今後のことなのだけれど?」
気を取り直して夏野が全員を見回して声をかけていた。その声に全員の視線が夏野に集まる。
ハサ次郎への転生の件は俺が円香へ口添えして、夏野より先に映見と桜へ『俺の言った』経緯を伝えていた。
それを聞いた映見と桜は泣きそうな顔で俺を見つめていた。
本当にゴメンナサイ。実際に起きないように気をつけます。クロに戻ったらですが。
そんな二人を眺めてから、真実を伝えそびれた夏野は歯痒い顔をしていたが、それについて言及することはなかった。
そして円香の言葉に繋げて、クロだった俺の声が円香達に聞こえなかったのと同じように。
今度はハサ次郎に思い入れがあり、直前のクロとしての認識が強い自分と鈴菜に聞こえなくなったのだろうと説明していた。
ハサ次郎への思い入れ。夏野はともかく、この変態にあんのか?
俺は未だにフローリングで恍惚な表情で気を失っている鈴菜を見下ろす。
まぁ、コイツもハサ次郎に斬られている一人だしな。一応、思い入れがあるんだろう。
……と言うより、この位置なら落下したらヤレるよな? まぁ、変態の血なんて御免だからしないけどさ。
「――あ、あの、夏野さん?」
「……なにかしら、円香?」
夏野の言葉に意を決したような表情で言葉をかける円香。
突然の声かけにもかかわらず、自然な口調で答える夏野。元より視線は円香の方へ向けようとしていた。
そんな優しい微笑みを浮かべる夏野に円香はお願いをするのだった。
「わ、私……しばらく、夏野さんの家に泊めてもらっても、いい、かな?」
『――え?』
予想していなかった妹の言葉に驚きの声を上げていた俺。だけど夏野は。
「ええ。それをお願いしようとしていたところなのよ?」
「……夏野さん……」
それが自分の願いだと言うかのように、満足げな笑みを円香に与えて肯定していた。
その言葉に安堵の表情を浮かべる円香。
そして、何も言わずに清々しい笑みを送り合う二人なのだった。
――って、なんで二人だけで納得してんだよ!
昼間なのに夕日に染まった土手っぽい雰囲気を醸し出してんなよ!
何、不敵な笑みを作りながら、自分達は不敵なんだって言いたそうな顔をしてんだよ!
いるだろ、お前達には越えられない高い壁のような敵が!
控え目に、遠まわしに、抽象的に言って『胸の大きさとカレー』と言う壁がな!
「――ッ!」
……思いっきり二人に睨まれましたね。一人でも身震いするのに二人同時とか、死神の鎌を首に突きつけられているようですね。まぁ、今は体が似たようなものなのですが。
うん。今回ばかりはハサ次郎に転生しておいて助かったかもな。クロだったら絶対に粗相していたもん。
「――って、ど、どうしたの、クロ!」
そんな俺の耳に桜の驚いた声が聞こえる。慌ててクロの方へ振り向くと。
クロがヨタヨタと歩いて何処かへ行こうとしてた。身体が不自由だからヨタヨタしているのかも知れないが、クロにしてみれば焦っていたのだろう。
ジタバタと前へ進んでいたクロが突然停止する。刹那、クロの後ろ足の間から床へ勢いよく放水が開始されたのだった。
放水し続けて床に水たまりを作っているクロは、ソーッと後ろの俺達へ顔を向けると申し訳なさそうな、悲しそうな、泣きそうな表情をしていた。
うん。今回ばかりはハサ次郎に転生しておいて助かったかもな……クロが粗相したもん。
――本当にごめんなさいごめんなさい俺がクロじゃなくて助かったとか言ってごめんなさい転生しちゃってごめんなさいごめんなさい!
俺は映見の
そう、クロの視界が俺にリンクしているように、俺の感覚もクロにリンクしていたと言うことなのだろう。
転生してからの長い期間、俺の感覚がクロの感覚として存在していたのだ。
まだ完全に自分の感覚を取り戻せていないであろうクロにとっては、俺の感覚が優先されているのかも知れない。
俺達はただ、クロの怯えた目を見つめながらクロの放水を眺めていた。俺は元から動けないんですが。
怒ったりすることはないのだろうけど。うん、俺がしたらきっとメチャクチャ怒られると思います。
あまりに突然だったこと。そして何より対処の仕方がわからなかったのだと思う。
人間の小さな子供ですら優しく接しても泣き出すのだと思う。それが言葉の通じないクロになら尚更のことだろう。
きっとアフロならば、こんな時に役立つ対処を知っているのだろうが、残念ながらアフロのアの字もこの部屋には存在しない。いや、アフロがあっても意味ないけどさ。
そんな感じで俺達はクロへの対応に戸惑っていたのだった。その時。
「――おやおや? 粗相をそのままにしとくなんざ、メイドのあたしに対する挑戦かい、ハサミ女?」
誰もが困った雰囲気に包まれていた室内に、目の前のクロの現状など微塵にも動じない声色で大胆に言い切る声が響いた。
「勝手に部屋に入ってきておいて、随分なご挨拶じゃない? この、メイド女」
声の主に普段通りの口調で返す夏野さん。
現れたのは臙脂色と白のエプロンドレスに身を包んだ姫萩紅葉のメイド。ソルジャーメイド
「まぁ、このままではお嬢様が通れないんでね……勝手に掃除させてもらうよ?」
佐茅は不敵な笑みを溢して言い放つと、手に持っていた穢殺刃を水平に掲げる。
刹那、箒は神々しい光を放ちながら変形を始めるのだった。
箒の部分が引っ込み、中からモップが出現する。
そしてモップと柄の境目あたりに何やら容器のような物体が突出した……いや、どう見ても遠心分離器だよね。なんか中で、もの凄く回転しているのが見えるし。
よく見るとモップの毛の部分も何やら唸っている。高速振動でもしているのだろうか。
――って、だから箒にそんな機能はいらねぇんだよ!
「さぁ、穢殺刃、掃除の時間だよ!」
「――って、ちょっと待ちなさいよ!」
高速振動の咆哮を奏でる穢殺刃を振り上げて、眼前のクロを見据える佐茅。その瞳にはただ任務遂行の四文字しか感じない。
思わず声を張り上げる夏野は瞬時に立ち上がりクロへと駆け寄るのだが、佐茅の両腕は侵入者など気にせずに、無慈悲にも振り下ろされる。
「――えっ?」
『――えっ?』
だけど振り下ろしたモップの先が突然クロの手前で膨らみ、クロの全身をすっぽりと包み込む。
そして眩い光を放ちながら微かに湯気を放っていた。な、なにしてんの?
高速振動を伴い、湯気に煙る穢殺刃。
やがて高速振動が弱まり、ゆっくりとモップの先が開き始める。
目の前の光景に驚きを隠せないでいた俺達だったが、クロの安否が一番重要なのだと我に返り、クロの姿を見ようとしていた。
ところが目の前の光景に、誰もが信じられないものを見たような表情をする。
そう、目の前のクロはスッキリしていた。うん。放水のことじゃなくて、スッキリしていた。
まるで、シャンプーをしてもらったような。トリマーにカットしてもらったような。マッサージをしてもらったような。
毛艶も優れ、覇気も感じられ、凛々しい顔つきで俺達を見つめるクロ。
立つ四肢にも弱さなど感じない。しっかりと力強く立っている。
粗相など最初からしていなかったと言わんばかりにドヤ顔で俺達を見つめるクロ。いや、していましたよね? しっかりと。
そして、変化が見られたのはクロだけではない。
粗相をして放水されていたはずの、床の水たまりが最初からなかったと思うくらいに綺麗になくなっていた。はい?
そう、モップで拭き取った形跡すら残っていない。完全に跡形もなく消え去っていたのだ。え??
それこそクロが立っているから場所として認識できるけど、立ち去ってしまえば場所がわからなくなるほどに周りの床と一体化している。まぁ、床には違わないので当然なんですが。
つまり、数秒前のできごとが切り取られたような。時間が止まったような感覚に陥っていたのだろう。いや、なんなの?
「さっ、お嬢様?」
「……ありがとうございます。佐茅さん」
驚いて固まっていた俺達など気にせず、目の前のクロを抱きかかえるとスッと場所を開けて後ろに立つ主人へと声をかけた佐茅。
佐茅の視線の先に無骨な車椅子で登場した彼女の主人。
夏野宅の隣人であり。秋山忍、秋月マキシに並ぶ若手女流作家の姫萩紅葉。
直線に切り揃えられた前髪と湖面のような涼しげな瞳。高級な肌触りのいい藍色の和服に身を包んだ彼女。
……クロの頃に何度か肌触りがいいのは、生地『だけではないこと』を知っている俺。事故だよ、事故。不可抗力だから!
「さっ、お嬢様?」
「……ありがとうございます。佐茅さん……それと、お疲れさまです。和人……さん?」
佐茅はクロを抱きかかえたまま、紅葉の膝の上にクロを乗せた。
そんな佐茅に礼を言ってから、クロへと視線を移して声をかけた紅葉だったが、何かに気づいたらしくキョトンとした表情を浮かべてクロを目の高さまで持ち上げていた。
はい。そこそこ付き合いが長くなったので、多少は紅葉さんの表情が読めるようになっただけで、普通の人には変わらぬ無表情な紅葉さんです。あと、あんまり俺も変化がわかりません。
クロを持ち上げたまま、湖面のような静かな瞳でジッと観察する紅葉。
持ち上げられたクロは、つぶらな瞳で見つめ返しながら、尻尾をブンブンと振っていた。こいつ、オスだ。まぁ、実際にそうなんですが。
「……? ……? ……。……ん? ……和人さんが、目を、覚ましません」
『いや、彼はクロだから! 黒いけど九郎さんとは違うから! と言うか、目を覚ましているから!』
少しだけ見つめていた紅葉だったが、何を思ったのか。
変わらぬ表情のまま、持ち上げているクロをクロクロ……クルクルと反転を繰り返しながら眺めている。
そして目線より高くあげて下から覗き込む紅葉。だけど何かに気づいてパッと下ろしていた。
下ろした紅葉は視線を泳がしながら、恥ずかしそうに少しだけ頬を染めていた。
はい。そこそこ付き合い以下略。
まぁ、身体はクロですけど紅葉さんは俺のこと知っていますからね。そう言うことなんだと思う。
と言うよりも、そこ見なくても別によかったんじゃないのか? 何を知ろうとしていたんでしょうね。
知らなくても作家人生には困らないと思います。
そんな紅葉だったのだが、クロを膝の上に戻すと佐茅を見ながら悲しそうに呟いていた。
それはまるで兄である九郎さんが『カラスの身体』でやるべきことを叶え、眠りについてしまった時のように。とても悲しくも惜しい人を失った時のような悲しみの表情で――。
『人を勝手に殺さないでいただけませんかね? 春海くん』
『……いたのは知ってんだからサッサと声かけろよ? と言うより、俺達は元から死んでいるんだけどな?』
突然、俺の頭上あたりを旋回しているカラスの声が脳内に響いてきた。
まぁ、佐茅が登場した時から頭上を旋回していたんだけど、面倒なんで無視していた訳だがな。
紅葉の兄である、シスコン罠カラス。またの名を、姫萩九郎。
自分の叶えるべき願いを叶え、安らかな往生の言葉を残し、眠りに就いていた。
と、思ったら生き返っていた。うん。今はどうでもいいや。
『だけど、九郎さんには聞こえているんだよな? クロじゃなくても……無視するから聞こえてないと思ったじゃねぇか!』
『……まぁ、聞こえていますけど……たぶん、その犬を媒体に聞こえてくるだけだと思いますね? 今までと聞こえ方が違っていましたから』
『そうなの?』
『そうですよ? だから声の出所を探索していたんですよ。――ですが、ハサ次郎になった今がチャンス!』
『――って、おい、待て!』
『待てと言われて待つバカがいますか! 紅葉に近づく害虫を駆除するのが私の務め! いざ、積年の恨み――ひっ!』
俺の問いかけに、俺の側へと降り立った九郎さんが答える。
一瞬、身動きの取れない俺にクチバシで攻撃をしようとしていたが、夏野さんの睨みで仰け反っていた。
ここぞと言わんばかりの攻撃かも知れないけどさ。
いまいちハサミの身体に慣れていないから、迎え撃てないのが釈然としないんだが。
夏野さん愛用のハサ次郎に、夏野さんの目の前で攻撃しかけて夏野さんが黙っている訳ないよね?
クロだった時は、夏野さん自ら率先して俺に攻撃していましたけど。
このシスコンカラス、紅葉が絡むと特に判断力鈍るからな……まぁ、判断力が鈍いのは普段からだけどさ。
「兄さん? ……和人さんと、話をしているのですか?」
九郎さんの言葉を聞いたのだろう。信じられないと言うような表情で九郎さんを見つめている紅葉。
九郎さんがいて、九郎さんには聞こえている俺の声。
仲介と言う形でクロだった頃には九郎さんを通してだけど、聞こえていたはずの俺の声。
どうやら、俺がハサ次郎に転生したことにより、リンクされたクロを仲介して九郎さんには聞こえているようだ。
だけど、更に先の紅葉にまでは声が届かない。そう言うことなのだろう。
事情を知っている夏野は九郎さんと紅葉のことを円香達に説明をする。
俺の声が聞こえている今。三人は素直に夏野の言うことを理解してくれていた。
そして夏野から、紅葉達に今の状況を説明していたのだった。
「そう、なのですか……わかりました」
紅葉は夏野に抑揚のない声でそう言うと、クロに視線を落として優しく撫でていたのだった。
だけど、これで夏野、鈴菜、紅葉。
クロだった頃に俺の言葉が通じていた三人には、俺の声が聞こえないことが判明した。
代わりに聞こえなかった円香、映見、桜の三人には俺の声が聞こえる。
九郎さんは『死んだ者同士』と言うことで、変わらずに聞こえている。聞こえなくてもいいのに。まぁ、紅葉の通訳くらいにはなるかな。
佐茅は聞こえていないようだけど、紅葉のメイドだからなのかも知れない。知らないけど。と言うよりも、夏野さんと同じで言葉が通じない人種だから聞こえても意味ないけどね。
最初に推測した『思い入れによる』俺の言葉の疎通。
俺は今回の紅葉を踏まえて、更に気づいたことがある。今、この場にいないが、たぶん。
マキシには俺の声は届かないのだろう。とは言え、最初から届いていなかったけどさ。
たぶん犬嫌いが関係しているのか、俺が秋山忍にこだわっていたからなんだと思うけど。
紅葉だって九郎さんを通して言葉が通じているだけだしな。
だから、夏野。いや――
秋山忍。秋月マキシ。姫萩紅葉。つまり作家と彼女達に関係する人達には俺の声が届かないのだと思う。
その理論からすれば、映見も作家『藤巻蛍』なのだから、そうなのだろうけど。
だけど映見は俺のクラスメートの『大澤映見』として聞こえているのだと思う。まぁ、作家としての時にどうなるかなんて想像できないけどさ。
これが『嫉妬』の試練。『色欲』が俺に与えた試練なのではないかと考えていた。
俺は読者だ。読書バカである。だけどクロになって以来、夏野を始めとする作家に会う機会が多かった。
夏野に言葉を。紅葉に九郎さんを通してだけど言葉を。
そして夏野を通して、映見やマキシ達にも深く接点を持っていた。
もちろん、俺は読者でしかないから読者として接していただけだ。
夏野達だって俺を読者として。あくまでも自分は作家側の人間として、俺に接していたと思う。
だから俺が接してきたこと。別にそれが間違っているとは思っていない。
少し悩んだこともあったけど。俺が何かを変えてしまうほど、夏野達は弱くもないし、確固たる自分を持っている作家達だって信じている。
だから読者である俺の言葉も聞いてくれていたのだろう。
だけど本は違うのだと思う。確かに、本は作家が生み出してきた作品達だけど。
本には本の。それぞれの意志が存在するんだと思う。だから作家は作品を『子供』と呼ぶんだろうしな。
つまりだ。作家である夏野達ではなく、子供である本達が俺の接点を許さない。
読者の領域を超えていることへの警告だったのではないか。
そう、円香や映見。そして桜と言葉を交わしていた人間だった春海和人。
ただ、秋山忍。秋月マキシ。姫萩紅葉。そして沢山の作家が生み出していた子供達を楽しみに待っていた。そして出会えたことを喜び、本の中だけに没頭していた、あの頃。
それが当たり前だった、あの頃へ戻ったのだと思う。
とは言え『嫉妬』が何を意味するのかは不明なままだ。
それでも、俺は乗り越えなければいけない。このままではダメなのだと思っていた。
読書バカの俺が、本当に読書バカを貫けるのか。
そう言う試練のような気がする。
元々、秋山忍の最高傑作である『色欲』の試練が生半可なものではないと思っていた俺。
だけど俺の『読書バカとしての生き方』を試されることになるとは思っていなかった。もちろん憶測でしかないけどな。
でも、俺の考えは正しいのだと思う。
説明を受けた紅葉は少しだけ寂しそうに、ハサ次郎である俺を見つめていた。
同じように寂しそうな表情で見つめる夏野。
そんな二人の作家を同じような表情で見つめる円香達。
少し重苦しい空気が、室内に包まれていたのだった。
犬とハサミは移りよう いろとき まに @minamibekoyori
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