第五話 三つ子の魂犬まで

 俺達は突然の一吠えに、一斉にクロの方へと振り向く。

 すると、クロはぼんやりと俺達を眺めるように目を開いていた。


 そのおかげかは知らないが、窓の外で飛んでいた鮪喰は、全員の記憶からも飛び出して、お空の彼方かなたに飛んでいったようだ。

 できれば鮪喰と一緒に銀河の果てまで飛んでいってほしいですね。そして戻ってくんな!

 それと同時に、夏野が言いかけていた言葉も飛んでいってくれたみたいで、ジッと無言でクロを見つめていた。

 ケガの功名と言うやつなのだろう。夏野の顔にも、真実を言いかけていた時のような悲愴感ひそうかんは残っていなかった。

 俺は安堵を覚えてクロの方へと視線を移すのだった。


>8 >8 >8 >8 >8


「ク、クロ……よかった、目が覚めたのね?」

「クロ……本当に、無事でよかった……」

「和に――ク、クロ、良かったよ……」


 目が覚めたのを確認した夏野と桜が、クロを見つめて安堵の表情で声をかけていた。

 そして円香も同じような表情で声をかけようとして、言い間違えてから声をかける。

 うん。今のクロはクロだからな。和兄はハサ次郎の俺だ。例えクロであろうとも和兄の座は譲らん!

 

「かず……クロ……」


 続いて映見もおずおずと声をかけていた。映見にアパレル産業への進出は向いていないと思うぞ?


「お犬さん……」


 鈴菜は普通だね。元からそう呼んでいたからな。全員と同じように安堵を浮かべて声をかけていた。

 ――って、お前はトリなんだからボケろよ! 何の為に最後になってんだよ。変態なんだから言わなくても空気読めよ! 俺に本を読ませろよ!

 そんなんだったら、ゲルゼノム様がお前を討伐とうばつするぞ! ……いや、結局のところゲルゼノム様って誰なの? 


 せっかくのお膳立てを無視するドMに文句を言う俺の眼前で、クロは前足を立たせてゆっくり起きあがっていた。そして。

 そのままフラフラと本の方へ吸い寄せられると、目の前に座り左前足で本の表紙を器用に開いていた。

 え? なに? なにやってんの?

 俺だけではなく全員が、どうこう言う訳でもなく、驚いてクロの動向どうこうを、瞳孔どうこうを開いて眺めていた。

 だけど、そんな俺達など構いもせずにクロは本に同行どうこうするように、作者の描く世界へと旅立っていたのだった。


『おお、クロが本読んでる! なぁんだ、クロって元々本を読む犬だったんじゃない――』

「――そんな訳ないよっ!」


 興奮ぎみに俺が口走っていた言葉を、あたかも鮪喰でぶった切るように円香が否定していた。

 ラケットケースがなんか躍動やくどうしかけていたけど、見なかったことにしておこう。

 映見と桜は苦笑いを浮かべて俺を見ている。

 映見に通訳されて夏野と鈴菜も呆れた表情で俺を見ていた。えっ、なんで?

 本読むよね? 犬だって普通のことだよね? あまり見たことないけどさ。


「……と言うより、病み上がりで目を開けた途端とたんに本を読むこと自体、誰もしないと思うけどね?」


 桜が「あはは」と乾いた笑いを奏でながら答えていた。そんな訳ないじゃん。読むよね、普通。

 と言うより、むしろ病み上がりだからこそ読むよね? 読素を補充しないといけないんだしさ。


『なんでだよ! 薬はご飯の前に飲んだら効果ないだろ!』

「……ご飯食べようよ、和人くん……って、ごめんなさいごめんなさい私が偉そうに命令してごめんなさい空気吸ってごめんなさい生まれてきてごめんなさい……」


 だから桜に抗議をしてみたんだけど、映見が苦笑いを浮かべて訳のわからんことを言っていた。

 ごめんなさい。訳のわからんことを言っていたのは俺です。だから悲しそうな顔すんな。万年筆取り出すな。首筋に当てんなー!


「映見だめぇー! ――あっ!」

「――はぁぅんっ! ……あ、りが、とうご、ざい、ます……」


 隣にいた桜と円香の必死の制止で、生死の境目に到達するのを踏みとどまっていた映見。

 だけど咄嗟に取り上げようとした万年筆の先に、何故か鈴菜が恍惚こうこつとした表情で飛び込んできていた。やっぱりお前はお前だな!

 そして見事に突き刺さった万年筆の痛みに酔いしれながら、お礼を言ってその場に倒れる変態。


「ああ、別にいつもの発作だから気にしないでいいわよ?」

「は、はぁ……」

「……ところで、ご飯食べたいの和兄? わかった、今すぐカ――」

『お腹いっぱいなので今はいいです……』


 狼狽ろうばいする映見と桜に、気にしないでいいと伝える普段通りの夏野さん。

 そして、夏野のその言葉に唖然あぜんと返す桜。

 うん。俺も同意見だ。お茶みも終わったんだし、今のところ役目もないだろうしな。

 それまで我慢をしていた。いや、あんまりしていなかった気もするが。とにかく無理をしていたんだし、寝ていても問題ない。うん、一生寝ていても問題ないぞ。


 同じく普段通りの円香は、映見がご飯と言っていたのを思い出して、嬉しそうに俺に声をかけて立ち上がろうとしていた。

 だから、俺は咄嗟とっさ丁重ていちょうに断るのだった。

 うん。今のやり取り見ていて本当にお腹いっぱいになったんだ。ある一部の変態のせいで胸焼け起こすくらいにな!

 だ、だから、別に円香のカレーが食べたくない訳じゃないんだ。

 病み上がりで食べたら、病み下がりになるとか、今なら即天昇しちゃうとか、実は俺を殺す気か!

 ……な、なぁんて、思っていないのだ。うん。ほ、ほんとうに。


「そっか……せっかく美味しいカレー作っていたのにさぁ……」


 俺の言葉に残念そうに口走って座り直す円香。いや、クロの看病に集中してあげて。


『……ん?』

「ど、どうしたの和人くん?」

「――何か、あったの?」


 そんな風に円香を見ていた俺だったが、何か身体に異変を感じ始めていた。

 違和感に疑問の声を上げた俺に、心配そうな表情で桜が声をかける。その言葉に心配そうな表情で夏野が聞き返していたのだった。

 なんだ、この感覚。何か力がみなぎるような。心の奥底から湧き出るような活力。

 まるで、本を読んで読素が充満してくるような感覚。

 ペラ……ペラ……ペラ……。

 リズミカルとはとても言えない速度でページがめくられる音。クロが確実に本を読んでページを進めている音。

 その音とともに読素が。いや、俺の眼前に活字が浮かび上がる。

 もちろん目の前に本のページが視界をさえぎる訳ではないけれど、文字だけが俺の視界の隅に映りこむのだ。

 ど、どう言うことなんだ。この文字、この文章。紛れもなく小説の文章だ。

 しかも、この文章は今まさにクロが読んでいる小説。

 秋山忍の『白い執事とアラブの王』の五ページ……十三行目だ。って、お前も新境地開拓かよ!

 ――って、十四行目。十五行目。十六行目と進んで映し出される俺の視界の文字。

 クロの捲るページの厚みで視界の文章がクロの読んでいる場所だとわかった。

 な、何? 何なの? どう言うこと?


『と言うか、クロ、読むの遅っ!』

「……いや、和兄が読むのが早いんだよ? あれくらいが普通だよ……まぁ、犬は読まないと思うけどさ」


 遅すぎる読速度に驚きの声を上げていたら、円香に呆れられていた。だから、犬だって本くらい読むよ。出会ったことないけど。


「……そう。そうなの……そうなのかも知れないわね?」

「夏野さん?」


 俺は円香に今起こっていたことを説明した。そんな円香から俺の会話を聞いた夏野は少し考えたあとに微笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。理解できない俺達を代表して円香が聞き返していた。


「たぶん、この行動はクロの意志ではなくて、同居……している春海和人の意志なのかも知れないわね?」

「和人くんの意志ですか?」

「ええ……」


 夏野が放った言葉を聞き返した映見に優しく微笑んで答える夏野。


『……いや、ちょっと待て。同居「している」って言ったな? それって、どう言うことだ?』


 俺は夏野の言った「している」の部分が引っかかっていた。していると言うのは、進行形だ。

 俺は今、ハサ次郎に転生。つまりハサ次郎に同居している状態だ。

 つまり、俺がハサ次郎に同居している以上、今のクロには俺は同居していないことになる。

 だから「していた」と、過去形で言わなければいけないのだと思うのだ。 

 夏野は作家だ。それも、その名をとどろかせるベストセラー作家の秋山忍である。

 そんな夏野がこんな初歩的な間違いをするはずはない。つまり、本当に「している」と言いたいのだろう。

 そして確かに俺の意志でクロが本を読んでいると言っていた。俺がここにいると理解していたはずなのに。

 別にハサ次郎に転生していることを疑っている訳ではない。だけど、クロにも俺の意志は存在すると言いたいのだろう。

 円香から伝えられた俺の疑問に答えるように、夏野は俺を眺めて口を開くのだった。


「そう、確かにクロへ……あなたの意志は、今でも同居しているのでしょうね?」

「……それって?」


 俺を見ていた夏野は視線をクロに移して答えていた。言葉を受けてクロを眺めていた視線を夏野に移して問いかける桜。

 その言葉を受けて微笑みを浮かべた夏野は言葉を繋げるのだった。


「ほら? 元々の転生も、別にクロ自体の意識と言うのは存在していたと思うのよ」

『……確かにそうだな』


 夏野の言葉に俺は肯定こうていの意を表す。

 俺が転生をした時。クロへと手を伸ばしていた瞬間。あいつは俺を見上げていた。

 もちろん現実なのか夢なのかはわからない。だけど。

 あいつが死んでいたとか幻の存在だったとは思えないのだった。

 それはクロにも最初から自分の意志があり、犬生を歩んでいたと言うこと。

 俺が間借りをしていただけのこと。


「そこに春海和人の存在が転生してきた。だから同居していた……だけど、それは春海和人の肉体が失われたから……っ!」

「……」


 苦しそうに、吐き出すように呟いていた夏野。その苦しみの表情に全員が同じような表情を浮かべていた。

 そうだ。俺の人間だった頃の肉体は、もう……。

 気持ちを落ち着かせるように、かすかに一呼吸を挟んだ夏野は言葉を繋げる。


「だから、春海和人はクロに『完全転生』していたと思っていたのよね」

「……どう言うことですか?」


 夏野の言っている意味がわからずに円香が訊ねる。


「そうね、何て言えばいいのかしら。三つ子の魂百までってことなのかも知れないわね……実体がないから感じなかっただけで、精神と言うのは『そっくりそのまま』移り変わる訳ではないのかも知れないってことよ」

「……」

「想いとか念とか。そう言ったものが、生きた証が、全部移り変わる訳はないのよね」


 優しく俺を見つめながら夏野は言葉を締めた。

 つまりは、こう言いたいのだろう。


 俺の意志はハサ次郎に転移した。転生した。

 だけど、俺として過ごした時間の中で、クロの中にも俺の精神は残っている。俺の想いや、考えや、行動が体内に染み込んでいる。

 本体と言うのは語弊ごへいがあるかも知れないけど、そう言った今の俺を形成する部分がハサ次郎へと移っていることによって。

 今のクロはクロ本来の意志を取り戻している。間借りしていた俺の意志が強すぎて、ずっと出てこれなかった本当の意志がよみがえっているのだろう。

 だけど、身体に染み付いた俺の行動がクロを無意識に動かしている。だから、無意識に本を読み出した。そして。

 俺の意識が残っているから、こうしてクロの読む視界を通して俺の視界へと活字が映し出されているのだろう。

 少し違うかも知れないが、幽体離脱ゆうたいりだつとか憑依ひょういみたいなものなのかも知れない。

 元になる存在が残っているのであれば、見えない糸のようなもので繋がっているようなものなのだろう。

 ……って、なんだ。クロが読める犬だった訳じゃないんだ。読めない犬だな。空気と本を読めよ!


「ええ、そう言うことよ」


 俺が考えたことを円香に説明して、それを聞いた夏野は、とても嬉しそうに答えていた。


『……ん? と言うことは……』


 俺は自分の考えが伝わったことで、一つの仮説が生まれた。

 夏野の言うように、もしも俺の意志がクロに残っているのであれば。

 クロが本を読んでいるのが俺の意志だとすれば。


『俺って、またクロに戻れるかも知れないってことじゃ?』

「……」


 俺の言葉に円香と映見と桜が少し悲しそうな顔をする。理由がわかるから申し訳なく思う。

 だけど許してほしい。俺の願いは一つなんだ。


 ――俺は本が読みたい だ け な ん だ!


 だって、この身体じゃ自分で本が読めないんだよ!

 自分のペースで本が読めないんだよ!

 クロなら自分で本が読めるんだもん。思いのままに読書ライフを堪能たんのうできるんだもん。

 ……そこに夏野さんの妨害とか、夏野さんのお仕置きとか、夏野さんの邪魔が入らなければ最高だけどさ。

 フリーダムに本が読めるのって素晴らしいことじゃないか。

 もちろん自動的に本が読めるのも捨てがたいのですがね。これは、ある意味素晴らしいオプションではある。それでも。

 やっぱり自分の前足を使って本にふれて、捲って。インクの香りを堪能しながら作者の声を聞くのが読者の醍醐味だいごみだと思うんですよ。

 向き合ってこその会話だと思うんですよ。互いのすべてを出し尽くしての死闘だと思うんですよ!

 死にたくないですがね。


 とにかく俺は自分の力で本が読みたかった。それが今の俺の生きる意志であり、存在理由なのだから。

 そう、ただ、それだけなんだ。

 だから別に、三人と『話ができなくなること』を何とも思っていない訳じゃない。それでも俺は本が読みたいんだ。

 だから、許してほしい。


 俺の呟きを円香から聞いた夏野は少しだけ、円香と映見と桜に申し訳なさそうな顔をしていた。

 だけど、俺の方へ視線を移すと言葉を紡いだ。


「可能性は否定できないわね。もちろん、あくまでも可能性の話でしかないのだけれど」

『……』


 そう、これは単なる仮説であり、可能性の話である。

 確実にクロに戻れると言うことではない。それでも。

 俺は確信に近い『何か』を感じていたのだと思う。

 夏野達に話していない『色欲の試練』と『五度の転生』が導いた結論。

 夏野の仮説によって、試練の先に待っているものがクロへの再転生だと確信できた。

 もちろん試練のクリア条件が何かは未だに理解できていない。

 だけど、俺には希望が芽生えていた。クロに戻れる可能性を感じていた。

 だったら乗り越えるしかないじゃないか。戻れることを願うしかないじゃないか。


 少しずつ視界に映りこむ活字の読素で力を取り戻していた俺は、今後について前向きに考えようとしていたのだった。

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