第一話 郷に入れば犬に従え
『……ぅ、ん……』
意識を取り戻した俺は、再び目を開けることになる。
視界の先は白のままか、はたまた色づいた景色か、もしくは黒で覆われた世界なのか。
特にそんなことを気にしてはいない。周りの色など、俺にとって問題ではない。
白だろうが色があろうが黒だとしても、本が読めないのなら、そこは真っ暗な世界だろう。
白だろうが色があろうが黒だとしても、本が読めるのなら、そこは明るい世界なのだろう。
ただ、それだけなのだから。
『……』
俺はうっすらと目を開けて景色を眺める。
焦点の定まらない目の前の景色も、少しずつピントが合うように、確かな輪郭を形成していく。俺はそんな輪郭の形成を、えも言われぬ面持ちで眺めていたことだろう。
とは言え、俺にとっては何度も体験してきたこと。正確に言えば、これで六度目の体験なのだった。
だけど、あの八月の事件を境に起きた『クロ』としての犬生の始まりは数えていない。
六度目の転生――夏野のハサミが俺を襲った悲劇。
つまり、ハサ次郎が俺の体内に侵入した瞬間。その後の臨死体験から数えて、六度の転生を繰り返してきたのである。
>8 >8 >8 >8 >8
一つ目の転生。とある日本の自然豊かな海沿いの街。一人の女子高校生の家の犬に転生した俺。
彼女は『スクールアイドル』になって廃校を阻止しようと、志を同じくした八人の生徒と一緒に、スクールアイドルの大会に向けて頑張っていた。
だけど努力だけじゃ報われない現実を知り、挫折しかけていた。
そんな彼女達を言葉は通じないけど、俺は何とか頑張って欲しくて奮闘した。
そのおかげか知らないが、彼女達は苦難から逃げずに立ち上がる。そんな彼女達に『怠惰』しない心を教わった。
二つ目の転生。日本のとある料理学校。一人の高校生の包丁へと転生した俺。
エリートの集まる中、定食屋魂を発揮して不屈の心と独創性で立ち向かう彼。そして何よりも食材に対する姿勢、心構え。食べる人への気配りや真心。そんな真摯な探究心に、俺は『暴食』の過ちに気づかされた。
三つ目の転生。とある高校の自転車競技部。全国規模の大会を目指していた一人の男子高校生のロードバイクに転生した俺。
チーム制で臨む大きな大会。チームの為。チームが勝利を手にする為。決して自分勝手な行為ではない、仲間の為に全力でペダルを回す。俺は彼らから『傲慢』の愚かさを知る。
四つ目の転生。今度は日本ではない。どこかの異世界。俺はウサギのヌイグルミに転生していた。
日本ではない証拠。それが魔法が存在する場所だと言うことだった。
魔法が当たり前に存在する世界。そんな小説のような世界に戸惑っていた俺だけど、持ち主である少女。
そして彼女の周りの友人達。そんな彼女達の真剣に格闘技を通じて互いの信頼を深めている日々を見て、俺は『強欲』の無意味さを感じた。
そして、これが一番新しい転生。前回と同じように異世界であろう場所。
だけどそこには、架空と思われていた大罪が実在していた。正確には異能の力を携えた大罪人達。俺は彼らと旅をともにする、しゃべる豚に転生したのだった。
彼らとともに旅をするウチに、団長と呼ばれる彼の過去を知ることになる。
彼の過去とそれに抗うように生きる姿。抑え切れない感情を押し殺しながら笑って生きるその姿に。俺は『憤怒』の心意に触れたような気がしていた。
――そして、今に至る。
それぞれの転生で何が起きたのかを詳しく語りたいところだが、きっと転生の歪みなのだと思う。
肝心な部分は綺麗さっぱり。それはもう、夏野さんの胸のように、ハサ次郎でスパッと斬られたように記憶に残っていないのです。いや、夏野さんの胸は元から斬れるほどありませんけど。
ただ、言えることは一つだけ。
『運営さん恐い!』
と言うことです、はい。
運営さんってば、ハサ次郎ですよね? それこそ目を刃のように光らせてますよね? そして口に出した瞬間にバサッと、それこそ俺なんか簡単に斬られちゃいますよね。
と言うことは運営さんは夏野さんなのかも知れないですね。そもそも運営さんて誰なんでしょうね。
……これ以上は言及しない方が身のためだな。斬られるからさ。
『……』
俺は薄暗い景色に「今回は薄暗いんだな」なんて、落ち着いた気持ちで目の前を眺めていた。
すっかり慣れた感覚になりつつある転生も、今回で六度目。
そして、俺は今回が『最後』の転生だと思っていた。正確にはもう一度あると思うけどさ。
こんな理不尽な理解のできない転生と言う意味で最後なのだと思っている。
それは今回の一連の転生。
新しい場所へ転生するには必ず意識を失っていた訳だが、その直前に必ず聞こえていた天の声。
誰だか知らないが「憤怒……補完」のように大罪シリーズのタイトルが告げられていた。
だからこそ、この転生の意味を俺はこう考えていた訳だ。
つまり、今回の俺の転生は大罪シリーズからの俺に対する最終巻である『色欲』を読めるか否かの試練なのだと思っていた。
俺は色欲を読みたくて、犬になって生き返っていた。そして、大罪シリーズの作家『秋山忍』である夏野の飼い犬になっているのだ。
大罪シリーズと言えば、もちろん何度も読み直している作品の六柱。
だけど最近は夏野の他の作品や、それ以外の先生の作品を読むことが多い。だって新書が出るんだもん。仕方ないじゃん。これを読まずに死ねるか!
そんな感じで毎日充実しているのだが。夏野さんの邪魔はともかく。変態の介入はともかく。
きっと俺の存在理由。生きている理由を試しているのではないかと思うのだった。
そう、俺が色欲を読むに値する人間かどうか。まぁ、今は……うん。何になっているか確認していませんけどね。犬だとも言い切れませんけどね。
とは言え、本からの挑戦を俺が受けないなんてことは皆無だ。まず本が挑戦状を叩きつけることが皆無ですけどね。そもそも回避の仕方を知らないんで受けるしかないのです。
夏野さんのハサミ以上の攻撃ですよね。まぁ、色欲の作者が夏野さんなんですが。
そして今回の挑戦者は理解している。現状は……最初から知らないことだらけなので別にいいです。
そんな状態でも受けるしかない挑戦。
今回の敵である『嫉妬』とはどんな試練か?
……いや、五作品出ているし、色欲はないから『嫉妬』しか残っていないですからね。
ここまでお膳立てされて、いきなり『アラブ』とか訳わかんないでしょ?
こんなところで新境地開拓しないで作品で開拓してくださいよ。
いやいやいや、だからと言って……これで色欲が出てきたらドM鈴菜ばりのラスボス感になるじゃないですか。色欲は真のラスボスなんですから、あんな変態の真似をしちゃいけません!
あと、これフリじゃないんで若手芸人もどきの白いのを真似してもいけません!
それから、嫉妬が出てくる予定なのに何故か色欲になっちゃった~とか言う、円香のカレー的な現象も要らないですから!
そして、映見みたいに嫉妬さんは「色欲じゃなくてごめんなさい。生まれてきてごめんなさい」とか卑屈にならなくても大丈夫です。あなたの存在価値は俺が保証しますから。
そしてそして、色欲さんも「生まれてこれなくてごめんなさい」とか卑屈にならなくて大丈夫です。悪いのは全部書かない夏野さんですから!
だから、ちゃんと嫉妬を出してください。……ここで色欲出てきたら、嫉妬が嫉妬しちゃいますよ?
『……暑っ!』
「――えっ?」
へ? 何だ。今体感温度が三度上がったぞ? 普通下がるんじゃないのか。寒いギャグで。
マッチョが近くにいるのか? そうなのか? それって、つまり、そう言うことなのか。あんなの他の世界にいないだろ? そう言うことなんだよな。
と言うよりも「えっ?」って何だ? 聞き覚えがある声だったような……。
「ど、どうかしたの、円香?」
「い、今……和兄の声が……」
『……』
俺の耳に聞き覚えのある声が聞こえたかも知れないと思っていると、どこからか複数の声が聞こえてきた。
最初の声の持ち主。それは忘れもしない最愛の妹。円香の声だと思った。だけど視界は未だに薄暗いまま。
だから違うのかも知れないと思っていた時、夏野の声が聞こえてきたのだった。それに答える円香の声。
俺、還って来れたんだ。クロに戻って来れたんだ。また本が読めるんだ。本に囲まれた生活を送れるんだ。
二人の声を聞いて俺は、無事に戻ってこれたことを喜ぶのだった。
だけど視界は未だに薄暗いまま。それに気のせいではなく、本当に暑い。
あ、あれ、俺の身体ってそんなに熱伝導していたっけ? だんだん熱が上昇している気がする。
『……あ、あつい……』
「えっ? 和兄? 暑いの?」
「なに、何言っているの、円香? え?」
俺の声に円香が反応している。その声を驚いた声で聞き返している夏野。
だけど俺は熱のせいで何も考えられなかった。
『くらい……あつい……』
「暗いの? 暑いの? 和兄! ……待っててね!」
「ちょ、円香? ……どう言うことよ……」
俺の呟きを聞いた円香がそう言ったあと、突然に駆け出す足音が俺の鼓膜に響いた。
悲愴感を含んだ声色で聞き返す夏野の声。だけど俺には状況が掴めない。
そんな、ぼんやりとした頭で今回の試練が何故『嫉妬』なのかを考えていたのだった。
俺は無事に戻ってこれた。夏野達のいる新稲葉で元の生活に戻れるんだ。だけど、何かが引っかかる。
これで色欲の試練は終わりなのか? これが嫉妬の試練なのか?
今までの経緯を鑑みて、何もないとは考えられない。つまり試練がないと言う話ではないと思う。
だけど、この生活を何かで達成したとして……はたして、俺は色欲が読めるのだろうか。
色欲を読まずに、また転生するんじゃないのだろうか。
それが人間の『春海和人』に戻れるのであれば、これほど嬉しいことはないだろう。
だけど、本当にそうなのだろうか。読めなくなる可能性の方が高いのではないだろうか。
試練を乗り越えた先が『何もなくなる』なんて、俺のすべてを否定されていることになる。
そんなのは耐えられない。何より読めないことが耐えられない。
それでは俺は何の為に生き返ったのだろう。俺は何のために夏野を庇って死んだのだろう。
もちろん、あの日は彼女が『秋山忍』だなんて知らなかった。それに夏野のせいだとも思っちゃいない。
だけど今なら思える。俺は色欲を読む為に夏野を庇ったんだって。そんな俺を誇れるんだって。
だから俺は色欲を読むまで死ねないんだ。色欲だけじゃない。夏野が筆を折る、その日まで俺はあいつの本を読み続けるんだ。だって俺は夏野の。秋山忍の読者なんだからな。
だから読めないなんて耐えられない。俺は絶対に読んでやる。
これは試練なんだ。乗り越てやる。色欲に認めさせるんだ。
俺はそんな風に自分を鼓舞しながら見えない視界を必死に見据えていたのだった。
>8 >8 >8 >8 >8
これは色欲からの試練。最後の試練。嫉妬の試練なのである。
俺は朦朧としていたことで、思考が欠如していたのだろう。だから今回が『元に戻った』なんて思っていたのだろう。
だけど、嫉妬の試練は始まっていた。しっかりと『嫉妬』の試練なのだった。
そう、元に戻れたのは『新稲葉』と言う場所と、夏野や円香と言う『周りの人物』だけだと言うことに気づけなかった。
何故、会話の反応の『円香と夏野』の違いに気づけなかったのか。戻ってきたのに『薄暗い状態』なのか。しっかりと目を開いて、夏野と円香の声が聞こえて、何故それでも薄暗いままなのか。
クロに戻っているならば、夏野が返事をしないのは変だ。円香が的確に返事を返せるのは変だ。
そして……クロであるのなら『返事が返ってきているのに暗いまま』なんて不自然すぎるのだ。
毛布をかけていたとしても俺の声で毛布を取っているのだろうから。
つまり、俺は、クロでは、ない。
『……俺は何に転生したんだ? ――ッ!』
俺が疑問を口にした瞬間。目の前に一陣の風が舞い込んだ。
刹那、俺の視界がパァっと明るくなる。目の前には夏野の部屋のリビング。その先にあるベランダの窓を開けた円香の姿が映し出される。
俺は唖然とした。そして理解した。
目の前には毛布に包まれて横たわるクロの姿。止血は済んでいるようだ。衰弱しているようではあるが無事だと思う。とりあえず一安心をしていると風が弱まり、俺の視界は再び薄暗い闇に覆われた。
『……』
覆われた視界を見つめながら俺はすべてを悟っていた。なるほど。確かに試練だな。
たぶん、最大の難関にふさわしい試練なのかも知れない。それもそうだろう。
あの秋山忍の最高傑作『大罪シリーズ』の生み出す試練。それは秋山忍が描く試練と言うこと。
秋山忍が読者を裏切ったことはない。常に俺達の上を書き続ける存在。俺達を新たな場所へ導く存在。
そんな秋山忍が書く、最高傑作の最終巻を読む為の試練が生半可なものな訳がない。
俺は身震いした。これを乗り越えてこその色欲だろう。この試練に耐えてこその色欲だろう。
やってやる。耐え抜いてやる。そして絶対に色欲を読んでやるんだ!
そんな決意を胸に、俺は一歩を踏み出すべく声を張り上げて――
『俺、春海和人はハサ次郎に転生しました!』
そう、色欲に。嫉妬に。高らかに宣言するのである。
こうして俺の最終試練――『ハサ次郎転生の日々』が、今始まるのであった。
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