犬とハサミは移りよう

いろとき まに

第零話 弘法も犬の誤り

 春海はるみ和人かずひとは読書バカである。

 一日の始まりに本を読み、読書して、活字をたしなみ、文字列を考察する。

 そして行間の作者の声に耳を傾け、文から知識を吸収して、本を読んで一日を終える。

 春海和人の一日は大半がこんな感じなのである。

 

「お仕置きタイムが抜けているわよ?」

『そんなの俺の一日には、本来ねぇんだよ!』

「……本だけに? なんかムカついたから、お仕置きね?」

『なんで!? と言うか言ってねぇじゃん!』


 人は本を読んで成長する。本に触れて人生を学ぶ。


「あら、その割には学習しないわよね、この駄犬」

『お前はもう少し胸を成長させろ……ウソです。ごめんなさい。反省するのでハサミしまってくれませんかね?』


 人生は本を中心にまわっていると言っても過言ではないだろう。

 本が人間をまわしていると言っても過言ではないはずだ。

 

「あんたはもう少し頭を回した方がいいんじゃない?」

『頭どころか全身を回しているよ! 誰かさんが追いかけてくるせいで! いいから、俺に本を読ませろ!』


 俺、春海和人は読書バカである。そんな俺を襲った八月の出来事。

 その日も、いつもと変わらず読書の為に訪れた『コーヒーの不味い』喫茶店。そこで待っていた悲劇。

 突然猟銃を持って現れた強盗。呆然と見ていた俺の視界に一人の女性が鮮明に映し出された。

 強盗の銃口が女性を見据える。俺は無意識に彼女を庇う。

 その瞬間、彼女に向けられていた銃口が俺を捉えた。刹那、強盗は引き金を引く――――

 そして、俺は、死んだ。


「……」

『……急に立ち止って、どうかしたのか?』

「……」

『おーい、貧乳ー? 貧乳夏野さーん? 貧しい乳と書いて夏野さんやーい?』

「……もう一度、殺す。いえ、何度でも こ ろ す……最低三回は し な す」

『ひぃぇぇぇ!』


 だけど、俺には心残りがあった。それは死んでも死に切れないほどに。


「素直に し に な さ い」

『素直に お こ と わ り だ!』 


 それが俺のフェイバリット作家『秋山あきやましのぶ』の代表著書『大罪』シリーズの最終巻。『色欲』を読まずには死ねないと言うことだった。  

 そんな俺の残留思念のおかげなのか。俺は再び生き返ることができた。

 何故か知らんが、ミニチュアダックス憤怒……いや、正しくは『ふんぬ』と読む。

 そう、秋山忍の大罪シリーズの一冊。憤怒は素晴らしかった。何度でも読みたい本の一柱ではある。

 だけど俺の身体は、ミニチュアダックスフンドなのだった。つまりは、犬と言うことだ。


「待ちなさい、居ぬ犬!」

『なにその、犬を重ねただけみたいな響きなのに微妙に俺の精神を蝕むような呼び方は!』


 そう、俺は今、犬の姿で生き返っている訳なのだ。

 そして何故か俺は『犬になった俺の言葉の通じる』この女。

 全身黒ずくめの服装。長いウェーブのかかった綺麗な黒髪と端正な顔立ちと真っ赤な瞳。そして右手に持った銀色の凶器。

 どう見ても普通のハサミとは形容しがたい愛用のハサミ。

 たぶん切れないものは何もないのではないだろうと疑いたくなる『ハサ次郎』と名付けられたハサミ。

 ……その切れ味は、俺の肉体が実証済みです。頼んでねぇけど。

 相棒のハサ次郎を片手に携えて、冷酷な微笑を俺に送りながら追いかけてくる魔王のようなシザーウーマン――『夏野なつの霧姫きりひめ』さんに飼われているのだった。

 そして彼女は実は、俺の愛してやまないフェイバリット作家『秋山忍』だったのだ。

 

「……」


 なぜか俺の方を見て突然顔を赤らめて、モジモジしだした夏野さん。


『なに顔を赤らめてモジモジしてるんだ? ……お前まさか!?』


 俺は少し前に起こった最悪のトラウマを思い出して顔を青ざめていた。忘れもしない酒に酔った『きれいな夏野さん』の撒き散らした惨状ゲロインを。


「……なんですか、春海さん?」

『――ッ!?』


 そうそう、こんな風に普段とはまったく似ても似つかわしくない可憐な花のような微笑みを浮かべる優しい夏野さん。そして絶対に普段なら呼ばない『晴海さん』の言葉を聞いた俺は全身に犬肌が立つ。い、いつ飲んだんだ?


「つーかまえ――」

『その手に乗るか! って言うか、その手に持ったハサミに乗ったら斬られるー!』


 そんな夏野さんを見て金縛りにあったように動けなくなっていた。そんな俺を愉快そうな顔で優しく捕まえようとする夏野さん。だけど、俺は優しそうな笑顔の裏の研ぎ澄まされた殺気を見逃さなかった。

 咄嗟に両手をすり抜け逃げ出していたのだった。


「――チッ! って、待ちなさい、この逃犬ー」


 背後から聞こえる舌打ちとともに俺を再び追いかける夏野。やっぱりフェイクだったか。危なく騙されるところだった。

 

 ……そんな彼女との日常。殺戮と殺生と猟奇と拷問。そんな非日常に塗り替えられた俺の日常。

 俺、春海和人と言う読書バカの『読むか、死ぬか』の人生であり犬生は。

 飼い主である夏野さんの介入により『読めるか、ハサミを逃れられるか、死ぬかもね?』と言う犬生な日常へと変化していったのだった。

 いや、最後がなんで疑問形になっているの? ほぼ断定しちゃっているし。もっと頑張ろうよ、俺の犬生。と言うより、頑張らないでよ、夏野さん……。頑張るのは執筆だけにしろ! 

 そんな飼い主夏野さんと俺との『壮絶』な日常のスキンシップなのであった。主に俺の肉体が。


>8 >8 >8 >8 >8  


 そう、普段と変わらない日常。俺は別に望んではいないのだが、そんな変わらない日常だった。

 だけど、違った。それは些細な違い。微かなズレだったのかも知れない。

 例えるならば、夏野がブラをしているか否か。俺の妹の円香まどかのカレーが赤か青かオレンジ色をしているか。そんなところだろう。

 ――だって、ブラしていてもいなくても同じなんだもん。色が変わっても味は変わんないんだもん。いや、不味さが変わらないってことだけどね。

 そう、それくらいの些細なことなのだ。


「私としては些細よりも刺されてほしいんだけどぉ~?」


 些細とは言いがたいほどの鬼の形相で、ジャキジャキとハサミの両刃を鳴らしながら近寄ってくる夏野さん。いや、可愛い飼い犬の些細な失言なんですよ? あと、それは刺すんじゃなくて斬るの間違いでは? どっちもイヤだけどさ。


「少し聞き捨てならないことが聞こえてきたんだけど……妹のカレーはともかく」

『いや、円香のカレーも気にしてあげて? あれでも頑張っているんだから。方向性はともかく』

「そこは、ほら……『お兄ちゃん』が受け止めてくれるじゃない? 私の出る幕ないし」

『何、顔を背けてんだよ! 現実から目を背けんなよ! もっと自分の胸と向き合えよ――ひっ!』

「そうね……私はあなたの脳みそと向き合いたいところ よ ね」


 こうして俺の頭上に白銀の一閃が織り成す風が吹く。その衝撃で俺の目の前に頭の毛が数本舞い散っていた。や、やばい、目がマジだ。

 俺は野生の本能で危険を察知して一目散に駆け出した。そんな俺を恍惚とした表情で追いかけてくる夏野さん。恐怖から必死に逃れる為に走る俺。

 普段なら何のことはない追いかけっこ。最後には必ず捕まってお仕置きされるんですけどね。


 だけど、今日は、違った。微かなズレが起こった。

 そう、俺は今日、すこぶる調子が悪かった。具体的に言えば鼻が乾いていた。きっと本が読めないから、ストレスが溜まったんだろう。

 そして、それが悲劇の始まりだった。


 走る。追う。

 逃げる。追いかける。

 走りながら振り向く。追いながらハサミを振り上げる。

 俺はスピードを上げようと前を向き直る。ハサミを振り下ろす。

 いつもなら尻尾の毛が数本刈られるくらいで済むはずの攻撃。それはそれで問題だけどな。

 だけど、今日は違っていた。体調が悪かった。


『……おろ?』

「――えっ?」


 振り向きざまに俺の両前足がもつれた。拍子にその場に倒れこむ。

 夏野も俺が倒れたのを驚いていた。普段ならスピードが上がって逃げ切っているはずだから。

 だけど振り下ろされたハサミは引力に導かれて、そのまま振り下ろされる。 

 いつもなら微かな尻尾の先しかない落下点に、何故か避けきれないほどの胴体が残っていた。

 焦った表情の俺と夏野。だけど回避するほどの時間など、残っていなかった。刹那――――


『――ぐわっ!』

「――ッ!」


 俺に、激痛が、走る。

 ザクッと言う、鈍い音が、俺の鼓膜に、響く。

 痛みの中に、俺の胴体の中に、冷たい刃物の感触が、伝わってくる。


「ちょ、ちょっと……ねぇ、ねぇったら……」


 ぼんやりとした、視界の先。抱きかかえられているのだろう。すぐ近くで、夏野が、顔を青ざめて、叫んで、いた。


「しっかりしなさいよ、何か言いなさいってば……」


 あれ、おかしいな、俺は、しゃべって、いる、だろ? 

 聞こえて、いない、のか? 俺の、心の、声が。

 涙を流して、叫ぶ、夏野の、顔が、ぼやけて、きた。

 閉じている、つもりは、ないのに、だんだんと、視界が、黒い、霧に、覆われ、始めて、い、た。

 

「ちょっと、ねぇ? 何か言ってよ……本当、やめてよ……和ひ――」


 ――何かを言いかけていた夏野の声が、夏野の瞳から零れた雫が俺の頬にふれた瞬間、ぷつりと消えた。

 そしてゆっくりと俺の視界は完全に黒い闇へと覆われる。色も音も、そして全身の感覚を失う。

 ここで、俺の意識は完全になくなったのだった。


>8 >8 >8 >8 >8 


『……』


 再び意識が戻った俺を虹色の霧が包み込んでいた。

 俺は、この景色を見たことがある。数ヶ月前に一度。そして悟る。

 俺は、再び、死んだのだと。人間だった頃の春海和人の姿をした俺の手足を眺め、俺は、自嘲気味に悟っていた。

 ……案外、短い犬生だったな。いや、これでも長くもっていた方なのか。何となくそんなことを考えていた。

 結局、夏野は色欲を書かなかった。それだけが心残りだ。

 だけど、それでも。

 あの時死んでいたのなら、円香に再び会えなかった。

 高校時代の友人の大澤おおさわ映見はみにも会えなかっただろう。

 そして彼女のもう一つの顔。作家『藤巻ふじまきほたる』として出版された小説も読めなかった。

 俺が頻繁に通っていた本田書店のオッチャンや、オッチャンの娘のさくら弥生やよい

 三人にも会うことはなかったんだと思う。

 ……あとのアフロや、白いのや、白いのに付き従う黒服達や、マッチョや、映見の親父の下ネタ爺や、ドMな変態編集は別に記憶の彼方へ葬り去っておいても問題ないな。

 そして、何よりも秋山忍に出会えた。夏野さんはともかく。

 そう、これは読書バカの俺としては最高のプレゼントだったのだろう。実情はともかく。

 きっと、そうだ。俺があの時、強盗から咄嗟にかばった秋山忍。そのことへのプレゼントだったのだろう。お仕置きとかお仕置きとかお仕置きとか、拷問とか拷問とか拷問とかはともかく。

 だから、ポイントカードのように有効期限が切れたのだろう。まともに還元してもらっていないけどね。

 

 だから、これでいいんだ。これで、よかったんだ。俺は無に還るんだ。

 もう、いいじゃないか。延長期間は終わりなんだ。

 短い犬生だったけど楽しかったよ。だけど、これで、おさらばえぇ。

 俺は手を合わせ、頭上に掲げ、笑ったまま瞳を閉じて深い眠りにつくのだった………………。


 なんて、言う訳がない!

 何故ならば、俺は読書バカなのだから。

 色欲を読むまでは死ねない。映見との約束の小説を読むまでは死ねない。

 円香のカレーが美味しくなるまでは死ねない。その前にカレーで死んだら、ごめんね。

 本田書店のオッチャンが商売上手になるまで死ねない。たぶん、その前にオッチャンが死ぬよね。

 夏野の担当編集者のひいらぎ鈴菜すずながドMの変態じゃなくなるまでは死ねない。いや、誰かスイス銀行に振り込んでアイツを始末してくれ、頼むから。

 とにかく、本が読めないなんて考えられないのだ。


 俺は目を見開き、周りを見回した。絶対にあるはずだと確信していた。

 どこだどこだどこだどこだどこだ……。

 そんな俺の目の前に光を放ち浮かび上がる弁当箱のような分厚い真紅の装丁。俺が見間違えるはずもない、その本。俺が犬生を歩むことになった一冊。

 そう、色欲。今目の前にその姿が眩い光に包まれながら光臨する。

 俺は安堵を覚えていた。別にその本が読めるからじゃない。と言うよりも読めないのは知っている。

 だって、隣で夏野さんが書いていないのを知っているんだから。だから、いい加減さっさと書けよ!


 俺が安堵をしたのは、この光景を知っているから。犬生を歩むことになった時を覚えていたから。

 だから安堵した。俺はもう一度、生き返られる。また本が読める。……サバイバルな生活も待っているんだけど。

 それでも俺は安堵した。色欲に手を伸ばせば、すり抜ければ、あいつが待っている。

 俺の犬生の身体。弥生が名付けた『クロ』と言う名のミニチュアダックスフンド。

 あいつにまた戻れる。そう確信していたのだった。


 俺は手を伸ばす。少しずつ近づく色欲。そして本に手がふれると同時に俺の手は色欲に吸い込まれていく。

 よし、あと少し。俺の身体が完全に色欲に吸い込まれた。

 色欲を抜けると、そこには見慣れたあいつの姿があった。もう少し。あと少し。

 虚ろな瞳で俺のことを弱々しく見上げているあいつ。俺がいないから、こんなにも弱々しいのだろう。

 だけどもう大丈夫だ。俺が活力を与えてやる。読素に満ち溢れた俺がな!

 そして俺はあいつに手を伸ばす。これで問題ない。あとはまた本に囲まれた生活を送ればいいんだ。

 この際、多少は夏野さんの相手もしてやろう。いや、本当に多少だよ? 命の危険がない程度にお願いします!

 そんなことを思いながら、あいつに伸ばしていた手が届く瞬間。


「――バフッ!」

『――えっ!』


 突然、あいつは目の前でくしゃみをした。弱々しいのは風邪のせいだったのだ。俺の体調の悪さは風邪だったのか。

 そんなことを考えていたのも束の間。俺の身体がくしゃみによって方向を変えた。って、俺の身体、軽っ!

 驚いている俺の横をあいつが通り抜ける。いや、俺があいつを通り抜けていた。

 い、いや、ちょっと待て。いや、待ってください。

 俺の懇願も虚しくあいつは白い光に包まれて姿を消してしまった。

 うそ、マジ、え、いや、はい?

 未だに吹き飛ばされながら俺は頭の中が混乱していた。こんなことは経験がない。臨死体験自体が一度しか経験していないのだが。

 つまり、未知の体験と言うことだ。犬生なんてのも未知の体験だろうが。

 俺は不安に包まれていた。この先俺は本が読めるのだろうか。ただ、それだけが頭に浮かんでいた。


 俺、春海和人は読書バカである。活字の読めない人生も犬生も俺にとっては死を意味する。

 唯一の希望が去った今、俺を待ち受けているのは……読めるか、死か。

 願わくば、本の読める環境であらんことを祈ろう。

 俺の目の前の白の世界は、眩い光に包まれながら、微かな希望を抱いていた俺から、すべての感覚を奪うのだった。

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