自動販売機

意舞由那

自動販売機

 じいちゃんは、いわゆる聴覚障碍者だった。詳しい話は忘れたけど、病気で耳が聞こえなくなったらしい。そういえば左足の指も無かった。いつも杖をついて、祖母と並んで歩いていた。

 私が産まれて弟が産まれて次の弟が産まれるまで、じいちゃんの営んでいた店は存在した。ここ一帯では有名な店で、ご近所さん以上の人も知っていた。私は母の娘では無くて、じいちゃんの孫だった。道行く人が私を知っていた。

 駐車場と店を潰して、家が建った。見渡す限りの田んぼや畑、雑木林や墓場の中でかなり目立つ大きな家。当時(今もかもしれないが)珍しいスロープが玄関にあって、トイレも手すりがついている。もちろん段差もない。両親は仕事で祖母は看護師で、私と弟と弟とじいちゃんはいつも四人だった。

「Y、R、S。ジュース買いに行くべ」

 土曜日の午前中。小学生の私が幼い昼ご飯を用意すると、じいちゃんは四百八十円を持ち出してくる。その姿を見て、私たちはわーいと声を上げて杖を差し出すのだ。食前の軽い運動だ。

 田んぼの中の大きな家にもお隣さんというものは居て、一つ道路を挟んだその家には自販機が置いてあった。片田舎だからコンビニエンスストアがコンビニエンスしてないし、買い物一つ行くのに車で二十分。どこまでも続くような田んぼの自動販売機は、唯一お金を使える場所だった。

 毎週午前中、私たちはそこでジュースを買う。車なんて滅多に来ないから、道路で遊びながら。私は紅茶とか酸っぱいもの、弟二人は炭酸系。じいちゃんは缶コーヒーを飲みながら、自販機の前で景色を見つつ少し休憩する。体力の有り余っている弟どもは道路で遊び出す。

 まず手前に最近敷かれたてのコンクリ道路、その奥に反対側のお隣さんの家の田んぼ。そのまた奥にも畑があるのだが、そこは誰のものかは今も知らない。また向こうに家があって、向かい側に郵便局の赤いレンガと墓地がある。私が死んだらあそこに入るのかな、と身振り手振りで聞くと、馬鹿なこと言うんじゃない、と叱られた。

 家の裏の方には沼があって、幼い私には広くて広くて怖かった。でもそこを囲むように植えられた桜は大好きで、春になるといつもお花見に行った。お花見と言っても、持ち物はジュース一本。たまに家にあったお菓子を持って、まず自販機へ行く。春だと温かい飲み物が多くなり、紅茶が増える。弟たちはぶうぶう文句を言って、じいちゃんはいつも通りコーヒーを飲む。

 夏は柑橘系のと炭酸系のが増えたし、秋は奇妙な味のが増えた。冬はココアや缶コーヒーが増えたし、じいちゃんに差し出すものも変わった。杖だったり、コートだったり、鍵だったり。雪の日は三人でじいちゃんを支えながら自販機に行った。

 小学四年生のとき、じいちゃんが倒れた。

 学校へ行ってたからかもしれないけど、正直よく覚えていない。じいちゃんは小学校よりも遠いところへ入院して、私たちが土曜日の午前中家から出ることは無くなった。車通りの少ない道路で、録音された音声に自販機が喋っている。

 じいちゃんはすぐに帰ってきた。いや、すぐじゃなかったかもしれない。自販機の内容は変わらなかったかもしれないし、録音の音声も変化は無かったかもしれない。じいちゃんの行かない自販機はずっと寂しそうで、自分の部屋から見下ろす度に誰もいなかった。

 ただ、帰ってきても、じいちゃんの「ジュース買いに行くべ」は無くなってしまった。もうそんな体力無いんだよ、と祖母に説明されても、十歳になりたての私にはわからなかった。二個下と三個下の弟もさっぱりだった。でもなんとなく―――もう杖を差し出しちゃだめなんだな、なんて漠然と感じていた。

 冬が来て、新年が来た。お正月が過ぎて、バレンタインデーが過ぎた。ずっと自販機は独りぼっちだった。私たちも三人と一人になっていた。じいちゃんの財布には小銭が溜まり始めた。たまに差し出される硬貨は三百六十円で、私たちはそんなんじゃ行かない、と突っぱねていた。

 そうして二月の下旬、またじいちゃんが倒れた。救急車を追いかけるように乗った車の中から、まだLEDに変えられていない自販機が見える。喋った合図のライトが光ったけど、何を言ったかわからなかった。

 じいちゃんの入院していた病院で、じいちゃんは亡くなった。家族みんな泣いていて、私も泣いた。弟たちは泣き疲れて、母と父におぶられていた。シンと静まり返った午後の病院は薄ら緑で、じいちゃんのよく飲んでいたコーヒーの銘柄に似ていた。

 私たちは三人になった。私はじいちゃんの孫から、Yになった。中学に行って、高校に行った。弟と弟もあとから追いかけてくる。自販機の前は中学の通学路で、通る度にジュースを勧めてきた。朝は忙しいし夕方は暗いし、ずっと目を閉じて通り過ぎていた。

 高校は電車通学なので、通学路は逆方向になってしまった。弟も同じ地区なので、ほとんど通らない。下の弟も、来年には通らなくなる。自販機はまた独りぼっち。割れてしまったスピーカーでどんなに呼びかけても、ここは車通りが少ない。チャリで五分の場所にコンビニもできた。高校の中の安い自販機も発見した。

 私と弟と弟とじいちゃんは、まだ自販機の前で休憩しているのだろうか。

 たまに出かけるとき、自販機の前を通る。もう音声はひしゃげてしまって、何を言ってるかわからない。わかっても、センサーが壊れてしまったのかとんちんかんなことしか言わない。小学四年生の私が、どうしてじいちゃんの「ジュース買いに行くべ」が無くなったのか、わからなかったように。

 学校帰り、星空を背景に自転車を走らせる。少し家を通り過ぎて、自販機の前に行く。センサーが働いて、彼女はおはようございますと不明瞭な声で言った。その言葉に、私はただいまと返してやるのだ。

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