13.空白を埋める旅
何かにひきずられるようにして、目を開けた。けれど、あたりの景色はぼんやりしていて、ここがどこだかよくわからない。辛うじて、立ち並ぶ木の影が見える気がする。
――森、なのか。思ったが、それ以上考えることはできなかった。
全身がひどく痛む。鋭い、鈍い、熱い――顔から、手先足先にいたるまで、激痛はうるさいほどに主張をしていた。体は鉛のように重くて、指の一本を動かすことさえ叶わない。
傷口は熱いのに、ひどく、寒い。
死ぬんだろうか。
わけのわからない悔しさと、悲しさと、ほのかな絶望が頭を満たす中で、そんな言葉がひらめいた。死は遠くて、けれど今は、とても近い。
足音が聞こえた。顔を上げる元気はない。通り過ぎてくれることを願った。が、願いは叶わなかった。誰かの叫び声がした。
「お、おい! 誰か倒れてるぜ!」
その一言をきっかけに、複数の足音が近づいてくる。頭のすぐ上から、また声がした。
「ガキじゃねえか。ひでえなこりゃ、死んでるんじゃないか」
「いや――」
最初に聞いた声が近くなる。突然、曖昧な視界に人の顔らしきものが映り込んだ。髭を生やした男であることだけは、わかった。
「い、生きてるよ! こいつ!」
「え、まじで!?」
男たちは不安げに騒ぎはじめる。そこへ、新たな足音が割り込んできた。
「何してるんだい、おまえたち。巡回はどうした」
「あ、
呆れたような女の声と、慌てる男たち。彼らのやり取りは、不思議に歪んで、耳に届いていた。少しして女の声が近くなった。
「ガキか。変わった髪の色だね。青か、黒か、どっちだこれ」
「
「わかってるさ。ほれガキ、あたしがわかるかい?」
そう言って、女がのぞきこんできた。そこで初めて彼女の顔を知る。ぼやけていた視界が、徐々にはっきりしてきた。二十代後半くらいの、艶よりも精悍さが目立つ女。小さくて、けれど鋭い目が、彼を見ていた。
「へえ。顔立ちも変わってるね。北大陸の奴かな。――あんた、自分の名前が言えるかい? ゆっくりでいいから、言ってごらん」
「な、まえ」
言葉を繰り返す。漏れ出た声は、この状況にあって笑いたくなるほど、かすれていた。言われたものをひねりだそうと、頭の中を、記憶を探る。けれど、何一つ出てこなかった。思考の奥に広がるのは、ぽっかりあいた穴のような暗い闇だけだ。
「なまえ、わから、ない……」
驚く気配を感じながら、そっと意識を手放した。
――これが、記憶のはじまり。
※
「昔の記憶が」
「ないっ!?」
少女と少年のうわずった叫び声が響く。森のひらけた空間に、それは甲高く反響した。ぎゃあ、と鳥の鳴き声が、応えるように空を貫く。ディランは慌てて口もとにひとさし指をあてて、静かにしろ、と二人を咎めた。彼らは、気まずそうに口を閉ざす。
「だいたい、驚きすぎだ」
多少はびっくりされるだろう、と覚悟していたが、ここまで反応されるとは。ディランが眉根を寄せて手を振ると、二人は勢いよく首を振った。
「普通、びっくりします」
青ざめた顔でレビが言う。膝を立てて座っていたゼフィアーが、ディランの方に少し、上半身を傾けた。少年よりも早く冷静さを取り戻したようで、言葉を選びながら問う。
「む、昔というのは、具体的に何年前からだ? あと、どこまで覚えてないんだ」
ディランは宙に目をやり考える。訊かれることを想定していなかったわけではないが、この手の質問はいつも返答に窮するのだ。記憶の底は霧がかかったようにぼやけていて、うまく情報が取り出せない。時間をかけて思い出しながら、ぽつぽつと答えた。
「だいたい……そうだな。記憶があるのは七年前くらいからだ」
ディランは唐突に、そばに落ちていた木の枝を拾い上げると、焚火から少し離れた。明かりの方に、少年少女を無言で手招く。ゼフィアーたちが近寄ってきたところで、土を枝でひっかく。そうして彼が描いたのは、今いる大陸だ。中央部にそびえるゼノン山脈を線で表し、いくつかの国を描いた後、もう一度口を開く。
「デアグレード王国の、ファイネという街を知ってるか?」
ゼフィアーとレビが顔を見合わせる。やがて、レビが身を乗り出して、即席の地図へ指をやった。土の地図を消してしまわないよう、少し指を浮かせて、なぞる。
「今、ぼくたちがいるのはアルセン国ですよね」
言いながら、大陸の左、つまり西のある地点を示す。指はゆっくりと右へ滑った。
「デアグレード王国はアルセンのお隣で、確かファイネは……その中央部にあります。父と旅をしていた頃には通り過ぎましたけど」
「『荒くれ者の街』なんて呼ばれてるな。私はちらっとのぞいたことがある」
ディランはうなずいた。そこまで知っていれば十分だ。
「俺はどうも、そのファイネ近郊に倒れていたらしい。それを拾ったのが、俺の師匠と、『彼女』が率いる傭兵団だった。目ざめた後に聞いた年号が今から七年前のもので、それ以前のことはまったく覚えていない」
「まったく!? 自分のことも、何もかも、か?」
「ああ。自分がどこの何者で、なんていう名前で、どうしてファイネのあたりまで来て倒れたのか。何一つ思い出せなかった。今も、忘れたままだ」
語りながら、自然、口の端が自嘲的につり上がる。予想以上の状況に、ゼフィアーとレビは呆然としていた。かたい沈黙の中を、ディランの声だけが漂う。
「今の『ディラン』って名前も師匠にもらった。で、俺は拾われてからしばらく、その傭兵団の世話になった。師匠やまわりの奴からいろいろ教わってな。文字の読み書きから剣の扱い方、果ては『生き残る方法』なんかも。ある程度なじんできた頃には、傭兵団の仕事に加わったりもした」
夜の
「一時期はな。このまま傭兵団の一員として生きていくのもいいかもしれない、そんなふうに思ってた。けど、あるときから突然、焦りはじめたんだ」
「焦り、はじめた? なんでです?」
レビが口を挟んで、首をかしげる。ディランは、苦い顔で頭をかいた。
「いや、なんでというか、こう表現するしかなかったんだけど。
急に、胸の奥が熱くなって、このままじゃいけないって、カッと思うときがあったんだ。それも一度じゃなかった。変な夢を見たり、体調を崩したりすることがそこへ重なって……まるで、遠くに忘れてきたはずの昔の自分が、思い出せ、思い出せ、って急き立てているみたいだった」
沈黙が降りる。ゼフィアーたちが戸惑っているのが、空気でわかった。息をのむ音が
「深刻に考えた俺は、その頃、ずいぶん無茶をしたよ。ひとりでふらふら、自分が倒れていたあたりまで行ってみたり、知らない町で勝手に色々かぎまわったり」
あの頃の自分はきっと、ずいぶん荒んだ目をしていただろう。今思い返してみれば、町や村に入るたび、まわりの人間が距離をとるほどの鋭い空気を放っていたのだから。そして師匠は都度、苦い顔で不肖の弟子を見ていた。
「俺の焦りに、師匠は気づいたんだろうな。あるとき、『いっそ、旅に出てみたらどうだ』って言ってきたんだ。傭兵団の縛りから逃れて、大陸をさまよっていろいろ見てみれば、あんたの記憶の『鍵』に出会えることもあるかもしれないだろう? そう言われた。幸い、旅の心得なんかも叩きこまれてたから、自分もまわりも、心配しなかったし。
俺は傭兵団を出て、荷物と剣を手に放浪した。仲介所から取ってきた依頼で路銀を稼いで、大陸はひととおり回ったけど、何も見つからなかったよ。海を渡ることも、最近は真剣に考えてた。――その矢先、おまえと出会ったんだ、ゼフィー」
青と、琥珀色が、交わる。ゼフィアーが目を見開いた。どうして自分に振るのか、とそんな顔をしていたが、すぐに思い出して膝を叩く。
「あの槍使いか!」
「そ。ドナの宿屋に入りこんできた襲撃者の中にいた、あいつだ。あいつと目が合ったとき、なぜか『知ってる』って思ったんだよ。顔なんて、ほとんど見えなかったのに」
それだけではなかった。あの槍使いの方も、ディランを見て驚いていたのだ。
お互いに、何か繋がりがある。ディランはそう考えた。
「だから、おまえにくっついていけば奴らと接することも増えて、何か思い出せるんじゃないか、とな。それで護衛を引き受けた。打算的で、悪かったな」
「いや……。あのとき言っていた『目的』とは、そういうことだったのだな」
ゼフィアーはここへ来て、ふんふんとうなずいた。あの夜はぐらかされた事の真相が見えて多少気持ちが晴れたので、ディランの行動に嫌な感じは覚えていなかったのだ。――また、目的とは別に、自分を想って戦ってくれていたのも、わかっていた。
ディランの方はその思いに気づくことなく話を進めた。ちょっと渋い顔をして、小枝を指先で弄ぶ。
「あと、今日の変な男」
無造作に投げられた言葉に、二人が目をみはった。
「あの、ディラン狙いの人ですか?」
「その言い方ひっかかるけど、まあ、うん」
レビへ曖昧に相槌を打って、続ける。
「あいつを見たときも変な感じがした。あいつ自身を知っている、というよりは、こっちに向けられる敵意に覚えがある、というか」
「動きが止まってたときですか」
レビが納得の声を上げる。そういえば、まっさきに割って入ってくれたのは彼だった。昼間のことを思い出して、ディランは急に恥ずかしくなった。目を伏せて――しかしそこで、顔を上げる。あの瞬間に見た不明瞭な映像が、頭の中によみがえった。
「ちょうどレビが前に出てくるとき、かな。変な光景が見えたような気もしたんだ」
「え? それは、大事な手掛かりじゃないですか?」
「かもしれない。確か、すごい雨が降ってて、何か怒鳴り声みたいなのが聞こえて……体に何か、が」
そこまで言ったディランはしかし、そこで思考を打ちきった。一瞬、ひどい寒気が全身を巡り、鈍痛が頭を貫いたのである。思いもよらず、喉の奥からうめき声が漏れた。
淡々としていたそれまでと一転して青ざめた彼を見て、レビがおろおろと慌て出す。対してゼフィアーは険しい表情でディランに歩み寄って、その肩を叩いた。
「無理はするな! 他人から聞いた話だが、記憶喪失というのは、だいたい不快な原因があるそうだからな。事故にしろ、何かしらの
ゆっくりと彼女を見たディランに、ゼフィアーは、「それに」と続ける。
「あの黒い人が関わっているのなら、なおさらだ」
きっぱりと両断したゼフィアーの声に、ディランはつい笑ってしまった。いくらか気分が楽になる。気を取り直して二人に向き合えば、けれど事態の深刻さが浮き彫りになった。
「そうだな……。俺、あいつらとどういう関わりがあるんだろう。実はあいつらの仲間だった、とか?」
真剣に予測を口にすると、レビが真っ向から否定する。
「ええっ!? そ、それは違いますって! ディランはそんな人じゃありません、きっと!」
「同感だ。物を奪うために人を殺しにかかるような顔ではない」
「顔かよ」
ディランは半眼になってつっこみを入れた。一生懸命否定しようとして、空回りしている感じが否めない。それでも、心遣いは嬉しくて、素直な笑みがこぼれた。
「――まあ、でも、そうだな。決めつけるには早い。情報が少なすぎるし」
ディランが言い切ると、ゼフィアーとレビは安堵のため息をこぼす。
「むぅー、けどもそうなると、奴らの正体を突き止める必要が出てきそうだな」
「小包をきちんと届けてからの方がいいんじゃないですか? そうしないと、ゼフィーが危ないです」
「まあそうか。ディランに心配をかけてしまうのもよくないしな」
「です。これ以上負担をかけてはだめです」
「……なあ。さっきから、なんとなく無駄に憐れまれているような気がするんだけど……」
そんなつもりで自分の身の上話をしたわけではない。ディランが眉間のしわを深くすると、自覚のなかったゼフィアーとレビは首をかしげた。少年はやれやれと肩を落とす。
自分が情けなくなる一方で――真剣に受け止めてくれる仲間がいるという幸運を、ひしひしと感じたディランだった。
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