こころのかえるまち

第1話

離れても、忘れられない街がある。

何度も足を運ぶ街がある。

それはきっと、心が還る、場所だから。

何かを変える場所だから。

私が孵る場所だから。


 彼女は、ゆっくりと車を降りた。果たして、どれほどの時間、車内にいただろうか。楽ではない道のりを越え、彼女はかの地に降り立った。

 そして、それを実感するように、ううんと体を伸ばして、大きく息をした。秋の終わりの、少し湿った、冷たい空気の匂いがした。


 山形県米沢市。かつて上杉の城下町として栄え、今尚訪れる人の絶えない街である。しかし、平日の、それも今にも雨の降りそうな秋の日ともなれば、観光で訪れる人はそう多くはない。

 彼女は、紅葉も終わりかけた道を速足で歩いていた。薄い上着で来てしまったことを少しばかり後悔しているが、それでも足は少しばかり楽し気に進む。

 彼女は、同市の上杉神社にいる。そこは昔、米沢城があった場所である。祭神は藩祖・上杉謙信公。

 天候のせいか、季節のせいか、人の姿はまばらだった。人込み嫌いな彼女にとっては幸いだ。機に乗じていつもよりも長く祈る。願い事が多いというよりは、ただ、その空気を感じて居たかった。

 その後、彼女は神社の近くにある宝物殿、稽照殿へ向かった。ここには、上杉家にまつわる様々な品がある。中でも彼女の目を引いたのは馬上杯、朝嵐、そして、懸け守りだった。

 馬上杯は浅黄色を基調とした美しい七宝焼きで、謙信公が馬上にて酒を飲む時に使ったという。その隣にあったのが、同じく謙信公愛用の琵琶、朝嵐。琵琶を嗜み、書を能くしたというかの武将の在りし日の姿が見えるようであった。彼女の耳には琵琶の音すら浮かんでいる。

 目に見えるそのものも、もちろん楽しみの一つではあるが、そこから広がる豊かなイメージを得られることが、彼女にとっては何よりの楽しみであった。

  そして、奥へ進んだ先で見た懸け守りは小さな箱の中に仏様や神様が居わすのだが、その細工の細かさに彼女は息を呑んだ。何とも美しいものを見て、心が温かくなった。持って行った先は戦場であるかも知れないが、そこには無事であれという願いが、確かに込められているのだろう。小さくても、神仏は確かに霊験あらたかにそこに居わすのだと。

  彼女は温まった心で上杉家の御廟所へと向かった。

「寒いですねぇ。米沢はもうすぐ雪ですよ」

受付の好々爺がいかにも寒そうに手を擦りながら言う。

「そうですか。もうそんな季節ですか」

実は彼女は米沢に住んだことがある。そう言っても良かったのだろうが、何となくその場は流してしまった。後から言えばよかったと思うのも、彼女の癖だった。

 そこには静かな杉林に守られ、上杉家のお殿様方の霊廟が並んでいる。その中央奥に居わすのが、藩祖・上杉輝虎公の御廟。そして、その手前にずらりと並ぶ歴代藩主の御廟。以前参拝した時には、ガイドの姿があり、説明をしてもらったが、寒さのせいか、参拝客の少なさからか、その日は見当たらなかった。代わりにスピーカーからの自動音声案内が流れていた。

 ぐるりと見渡しても、他に参拝客の姿は見当たらなかった。彼女は灯篭の間で一礼して、中に入る。瞬間、空気がすっと変わったような気がした。それは、彼女がこの地を訪れるといつも感じる感覚で、彼女はそれが好きだった。

 もう一ヶ所、彼女がそれを感じる場所がある。それは、同市内にある春日山林泉寺にある、奥方様方の廟所に参拝した時である。その時も同じように門をくぐると、空気が変わるのを感じた。その時、御廟所と同じ感じだと思ったのである。それが果たして、何の作用であるのかは彼女は知らない。

 彼女は一番先に一番奥の輝虎公の御廟前に進む。手を合わせ、備え付けの香を炭に乗せた。清らかな香りが、煙と共に立ち上る。その瞬間が好きだった。その清らかな静寂に身を浸して、静かに祈りを捧げ、香を纏っている時間。日常の煩わしさを抜け出し、静かに瞑目する。そこで、向き合っているのは自分自身なのかもしれない。

 そんな感覚が忘れられず、同市に住んでいた頃は足繁くそこを訪れた。状況が変わり、他所へ引っ越すとなかなか彼の地に入れなくなってしまった。そして、数年。

 また、状況が変わり、環境が許すようになれば足を運んでしまう。

 不安な時、迷う時、行き詰っている時、勇気が出ない時。かの地を訪れるのは大体そんな時だ。踏み出す勇気が欲しくて、前に進む強さが欲しくて。


生き抜く力をもらいに行くのだ。

思い描く様を現実にする願いを新たにするために行くのだ。

己の弱さに負けないように。

諦めたくなる気持ちを払拭するために。

夢を叶えるには戦わなくてはならない。

自分はまだ、戦えるのだと、宣言し、心に刻む。

 

 かの地には、上杉家のみならず、他の武士にも縁がある。混沌の時代を生き抜いた、御屋形様方の、そして武士達の気配が優しく、清々しく息づいているように思えるのだ。

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