第3章-04 ジャッジメント・デイ

 壁を伝い、ぼくらはビルのてっぺんに上がった。

 風が舞い、重たい風圧が服の裾を持ち上げる。かすかに夜気が鼻につく。

「もういいぜ。目を開けて」

「う、うん」


 自ら頼んだこととは言え、こわいものはこわいのだろう。テラスの塀を越えて壁面を歩き出したときは身をすくめ、ぼくの二の腕にしがみついていたロンドだったが、ほおに感じる風向きで自分の体が大地と平行になったのがわかったのだろう。

 彼女はおそるおそる薄目を開け―――、


 そして歓声を上げた。


「わぁー……!」


 まるで光をこぼしたような街明かり。華やかなネオン、流れゆく車のテールランプの光の帯、ビルや陸橋の頂で規則正しく瞬く常夜灯……。

 ぼくらの目前に、無数の街明かりが広がっている。


「すごーい。たかーい。こわーい」


 ロンドはぼくに手を預けたまま目を輝かせていたが、つと感に堪えかねたようにビルの縁まで駆け寄ると、ぐっとつま先だって下を見下ろす。ぼくはあわててこの子の手首を引いた。


「おいっ、あぶないって」


「だって、すてきなんだもの」


「ったく。さっきまでふるえてたくせに」


 さっきのびびりっぷりはどこへやら、子供みたいにはしゃぐロンドが気が気でなく、ぼくはため息をついた。一方ロンドはしばらく目の前の夜景にじっと見入っていたが、やがて小さくつぶやく。


「……不思議ね。いつもお部屋から見ている景色なのに、今日はまるで違って見えるわ。毎日見ている風景なのに、とても、すてき」

「うん」


 ぼくはうなずいた。そして早くも肩で息をしているロンドをその場に座らせると、自分もまたその隣に腰を下ろした。ぼくらはしばらく並んで腰を下ろしたまま無言で目の前の光の光景に見入った。


 ややあってロンドが口を開いた。

「―――わたしね、体が悪くなってからはずっと病室にいたの。だけどそこはすごくたいくつで……。わたし、子供の頃からお外で遊んでばかりいるような子だったから、毎日暇でしょうがなかった。だから、病院を出て療養するってなったとき、ぜったいに街の中がいいってワガママをいったの。人がいっぱい行き来するような、自分以外の人間がたくさんいるところがいいって」

「それでこのマンションに?」

「うん。たぶん、自分がひとりで時間に取り残されていくのが怖かったのね。自分が病気で、どんどん体が衰えていくこの今、世界のどこかには遊んだり勉強したりして楽しい時を過ごしている子たちがいるんだって考えたり想像しちゃったりする自分がイヤで……。わたし、ほんとは弱いの」


「ロンド……」

 意外な言葉を受けぼくは思わず表情をあらためた。が、ロンドは一転あっけらかんとした口調で口をとがらせて言った。


「でも、やってみたら大失敗! 面白かったのは最初だけで、人が小さくて遠いし、窓から見えるのはビルで働いている人ばっかり。ぜんぜんつまらなくてがっかりしちゃった」

 ロンドはしみじみといった。

「でも不思議。もうとうに見慣れてしまった景色なのに、今日はこんなにも輝いて見える」


 つとぼくは言った。

「俺も、おまえと同じ景色を見ていたよ。朝から学校サボって、つまんなくて、いらいらして、なんでこんな力授かったのかなって毎日思ってた。こんな気分を味わうために生まれてきたのかなって」

「…………」

「そしたら、急に空から紙ヒコーキが空から降ってきてさ。おどろいたよ。ビルのてっぺんにいるのに紙ヒコーキが落ちてくるんだもの。でも、あれから俺の人生は変わった。あの日、おでこにベッドバットを食らったときから、きみと出会ったときから、俺の人生は変わった。たぶん……すごくいいほうに」

「ログ……」

 おどろいたように顔を上げるロンドの視線が気恥ずかしく、ぼくは照れた。もしこの子が手術を受ける直前でなければ、ぼくもこうもはっきりとは想いを口にできなかっただろう。


 もっともすぐに照れくさくなってあわてて言い添える。

「ま、最初はなんておてんばだって思ったけどな。部屋をのぞき込んだ瞬間、いきなり頭突きだもんな。あれだけ硬い石頭、生まれて初めてだったぜ」

「あら、しつれいねっ。それはこっちの台詞よ!」

 とたんにロンドがぷっとむくれる。ぼくらは笑いあった。


 やがて時間となった。

「さてと。そろそろ戻るとするか。風も出てきたし」

「うん」

 ロンドはうなずき、ゆっくりと立ち上がった。

 このときぼくは取り返しのつかないミスをした。この子が本来であればベッドにいなければならない病人であることを忘れ、手を引くことを怠ったのである。


 ぼくが歩き出したとき、数歩遅れて歩んでいたロンドがつとその場に立ち止まると微笑んで言った。

「ありがとう。ログ。今まで毎日訪ねてきてくれて」

「なんだよ、とつぜん」

「ううん。ただお礼を言いたくて。わたし、ラッキーだったわ。だって、あなたがこの力を持っていなければ、わたしはあなたに会うことができなかったもの」

「おおげさだよ」

 もしかしたら、それこそがこの力を持ったことに対する唯一の見返りかもしれない……とぼくが苦笑したときだった。ロンドはあたりに広がる街明かりにまなざしを送りながら言った。


「毎日会ってくれて……ありがとう。話してくれて……ありがとう。超能力を鍛えてくれてありがとう。紙ヒコーキに反応してくれてありがとう。あなたに会うことが、わたしの喜びでした」

「ロンド……?」

「わたし、最後の最後で人生で一番大事な人に巡りあえた」

「おまえ」

 ぼくははっとした。このとき、ぼくはようやくロンドの体力が尽きかけていることに気がついた。ロンドはネグリジェの上から手で胸を押さえ、苦しい息の中からふっと笑い……、

 そして言った。



「大好きよ」



 次の瞬間、彼女は大きく脚をもつれさせた。


「ロンド!」


 ぼくはとっさに手を伸ばした。が、間に合わなかった。ロンドは腰から崩れ、一度膝をついた後、身を大きくのけぞらせてビルの縁のむこうへ大きくかしいだ。

 彼女の黒髪は一瞬、逆さまに大きく翻り……

 そして見えなくなった。

「ロンド!!」

 ぼくはそれまでビルの屋上に横に巡らせていた重力場をとっさに縦に切り替え、この子をつなぎ止めようとした。が、その一瞬のロスにより、薄紙一枚のところでぼくはロンドを捕まえ損ねた。そのほんのわずかな間の間にミルクの体はすでにぼくの重力の支配権4、5メートルの外にいた。


 ビルの外壁にとりついたぼくの視線の先で、ロンドはどんどん小さくなっていく。


 まるで羽のように。


 白い寝間着をはためかせて。


「ロンド!」


 ぼくはつんのめるようにして外壁を逆さまに駆けだした。が、いったいどんな人間が走って落下物に追いつけるだろう。ぼくは絶望に目がくらみながら必死に頭を巡らせた。このマンションの高さは? ぼくの100メートル走の自己ベストはどれくらいだっけ? ロンドの体重は? 毎秒ごとg=9.8m/s2の重力加速度を得て落下するロンドに、人工の重力の下で自分の両足で駆けるぼくが走って追いつく可能性は?


 脚がもつれ、ぼくは激しく転倒した。膝と顔面をしたたかに打ち付け、鼻血と涙があふれた。が、それどころではなかった。


 ぼくは顎をそらし、顔を上げた。ロンドはもう見えない。いや、あのどんどん遠ざかっていく白い翻りがあの子なのだろうか。


 人間は極限状態に陥ったとき、時の流れが引き延ばされ目の前の光景がまるでスロー撮影のように遅く感じられるらしい。今のぼくはまさにそれだった。これまであの子とともに過ごしてきた数か月が一気によみがえり、送り画像のように脳裏で入れ替わる。初めて会ったときのこと。部屋に通うようになってからのこと。テラスで脳天をぶつけて出会って以来、超能力を持つぼくを少しも恐れることなく自然に受け入れてくれたこの子によって自分がどれほど救われてきたか、その記憶が一度に思い出される。


 ぼくはこの子を失うのか。

 やっと得た理解者を。初めて作った友だちを。

 手術を控えたあの子を、ぼくはこんな形で失わなければならないのか?


「だって、あなたがこの力を持っていなければ、わたしはあなたに会うことができなかったもの」


 つい数秒前、ロンドが言った言葉を思い出し、ぼくは奥歯を食いしばった。おい獅堂ログ、何とかしてみろよ。おまえ超能力者なんだろ。重力を操れるんだろ。今までさんざんこの力とつきあってきたんだろ。ストリームやトリガーはどうしたよ? 女の子一人くらい、おまえの力でなんとかしてみせろよ。さあ、今、今、今、今、今すぐに。


 今が、運命ジヤツジメントの刻だ。


 どくん。

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