第3章-01 ジャッジメント・デイ

 ロンドが体調を崩したのは夏のはじめ頃だった。


 ある日訪ねるとロンドが床についていた。いつもなら巣穴から飛び出してくるウサギみたいに窓辺にやってくるロンドがいつになく神妙な顔でベッドの中におさまっているのが不思議に思え、ぼくは訊ねた。


「どうしたんだよ。今日はやけにしおらしいな」

「へへ。ちょっとゲームをやり過ぎたみたいで……」

 布団の中からロンドは小さな声で言った。

「ゲーム?」

「うん。きのう新しいソフトが届いたの。それで徹夜でやってたら、熱が出ちゃって……」

「ったく。ほどほどにしとけよ」

「うん」


 ロンドはこっくりうなずいたが、この頃からロンドの床につく回数は急に増えていった。いつ訪ねても頭を枕にあずけていることが多くなり、逆にふだん身を起こしている回数は確実に減っていった。


 それでも当初、ぼくはそれほど深刻なものだとは思わなかった。だが伏せている彼女のいいわけが決まって「ゆうべ徹夜でゲームをした」であることにさすがにおかしいと思うようになった。


 思えばすでにこの頃からロンドの体は弱り、身を起こすのが精一杯なくらいの状態に陥っていたのだろう。このころになるともはやごまかしようもなく、ロンドは肩で息をするようになっていた。あれほど大好きなネットもぱたりとやらなくなり、ふたりでいるときはただひどくうれしそうにベッドの上でぼくの話を聞き入った。


「ふふ。ね、それから? それからどうしたの? ログ少年は」

「ロンド、もう休めよ。もう遅いし」

「ううん。まだ帰らないで。お願い。ね? もうちょっとだけ」


 さすがに気を使い、引き上げようとするぼくを引き留め、ロンドは言った。そんなときの彼女の瞳は熱っぽく潤んでおり、そのくせどこか遙か遠くを見晴るかすようなをたたえているのだった。


 ぼくはほんのかすかな不安を憶えつつもロンドの部屋に通い続け―――そして、変化は突然やってきた。


 窓辺からロンドが消えたのである。


 いつ訪ねてもテラスの窓には鍵がかけられるようになり、部屋は内側から閉め切られるようになった。カーテンは厚く閉ざされ、文字通りぼくは外にはじき出された。


 はじめ、ぼくは猛烈にいらだった。それから急に不安になった。ロンドの身に何かあったことは明らかだったからである。何か得体の知れぬ焦燥がこみ上げてくるのを感じつつ、ぼくはなおも閉ざされたマンションに通い続けた。それは丸十日間続き、そして、いても立ってもいられなくなったぼくがとうとう一階にあるマンションの正面玄関からロンドの部屋を直接訪ねようとの思いを固めていたある日、ぼくはつといつものテラスの窓に封筒入りの手紙が窓に貼り付けられているのを認めた。

 それは雨に濡れないようにビニールに包まれ、ガラスの表面にテープで留められていた。

「これ……」

 その宛名には達筆な字で『窓辺のむこうのお若い方へ』と記されていた。ぼくはテープをはがし、むさぼるようにしてそれを読んだ。

 手紙にはこう書かれていた。




『 

  窓辺のむこうのお若い方へ


 わたくし星降ほしふり家の執事を務めております者でごさいます。あなたさまのことはロンド様のご友人としてすでに存じ上げておりました。ここ数日ロンド様とお会いになれないことをご不審に感じておられると思い、お手紙を差し上げました。

 あるじは現在病状がすぐれず、休んでおります。医師が申すにはかなり難しい状況です。すでにご存じのことと思いますが、主はもう長く心臓をわずらっております。これは大変治療が難しい病気で、手術の成功率も低いため、医師を含め我々はこれまでずっと保存療法を勧めてまいりました。ですが今回、主は自ら手術をする決意しました。その主の気持ちをくんで、どうか今はしばらく会うのを控えて頂けますようお願い申し上げます。

 あなたさまが部屋にいらっしゃるようになって以来、ロンド様は以前よりもずっと明るく笑うようになりました。ご存じないかもしれませんが、主はあなたさまが訪ねてこられる時刻の前になると少しでも見苦しくないよう、いつも懸命にくしで髪をとかしておりました。幼い頃より世話をしてきた主がいつの間にかそんな年になっていたことをうれしく思うとともに、執事としてこうした日々が少しでも長く続くことを願っております。そのため主にはひとまず幾ばくかの時間を与えていただきたいと思い、無礼とは存じましたがお手紙差し上げた次第です……。

                                 』




 さらに手紙の後半部分には断りもなく部屋から閉め出したことや、突然手紙をしたためたことなどに対する謝罪が丁寧な措辞で記され、どうか諸処の事情を鑑み無礼を許してほしいという文章で終わっていた。

 ぼくは顔を上げた。

 それからのろのろと手紙を収めた。


 頭の中は真っ白だった。全身の血という血が一度に下がったような感覚がし、そのくせ脚の下から重力がなくなったように体がふわふわした。ぼくは引力に抗しかねたようにその場に腰を下ろした。そしてまるで波間にたゆたっているような気分の中、何度も今読んだ手紙を反芻はんすうした。


 病状が優れないってどういうことだろう? 手術の成功率が低いってなんのことだ? それらはひとつひとつ飲み込みがたい記号や符丁であるようにぼくの理解を拒んだが、唯ひとつわかった事実があるとすれば、それはロンドが元気じゃないこと……そして、あの子がものすごい勢いでぼくの手の届かないところへ遠ざかりつつあるということだけだった。


 どうしよう。

 どうすればいい?


「……」

 ぼくはぼうぜんとしたが、むろんぼくにできることなど何もなかった。ぼくは医者でもなければ看護師でもない、ただの高校生にすぎなかった。


 ぼくは放心し―――ふと自分の手を見た。重力と質量を操りコントロールする力。長年かけてぼくが磨きあげた能力。でも、こんなものは今病気で苦しんでいる女の子を救うのには一ミクロンの役にも立たないことは明らかだった。


 ぼくは、無力だ。


 あの子の具合がよくないのだという実感がこの瞬間、はじめてこみ上げてきて、ぼくはぐっと奥歯をかんだ。ふと、白い寝間着姿のロンドの笑顔が脳裏に浮かんだ。

(ロンド)


 ごん。


 ぼくは自分の膝頭に額を打ちつけた。そしてしばらくそのままの姿勢でいた。

 その日、ぼくは一日中ビルの上に膝を抱えて座っていた。

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