第2章-07 ディメンション・トリガー

 その後、やっとの思いでテラスにたどり着いたぼくを、その子は気味悪がりもせず引っ張り上げてくれた。そしてテラスの陰にぼくを押しとどめると、ててて……とドアの方へ走って行き扉をそっと開けてあたりの様子をうかがう。どうやら今の騒ぎが部屋の外に漏れなかったか確認しているらしい。


 そんな女の子の背を所在なく眺めつつ、ぼくはそっとあたりを見渡した。

 立派な部屋だ。高級マンションらしく、部屋の間取りは広く、この部屋だけで軽く三十畳くらいある。その巨大な一室の中央にベッドがあり、そのベッドと対面するような位置に家電屋の店頭で見かけるもっとも巨大サイズのテレビがでんと鎮座している。

 やがて女の子はとことこ戻ってくると、「さ、いいわ」と言ってぼくをテラスから室内に招き入れてくれた。

「……」

「……」

「……や、その……」

 なにやら捕獲に成功したサンタクロースを眺める子どものようにわくわく顔を近づけてくるこの少女にどう対処すべきか、ぼくは閉口した。


 すごいかわいい子だ。

 年は小学生くらいだろうか……とてっきりぼくは思ったが、後に聞いてみると中学二年生であるらしい。好奇心がいっぱいの大きな目とちょっぴり上を向いたかわいい鼻先、口角がきゅっと上がり、不敵な笑みをたたえたかわいいくちびる。まっすぐに流れ落ちる金髪。ふてぶてしさとあどけなさ、相反するふたつの要素を同時に宿したその顔立ちはアイドルと言っても少しもおかしくないほど整っている。いくぶん肌が白いのと、本来ぷにぷにであるはずのほっぺの肉が薄く見えるのが気になるが、まず大変な美人と言っていい。


 かわいー……。


 ぼくは思わずこのヘッドバットであやうく自分を死に追いやりかけた女の子に見とれたが、ふと我に返って言った。


「あ、あの……さっきはごめん。その、急に人が出てくると思わなくて」

「もう! それはこっちの台詞よ。だってこの部屋一番上の階なのに、テラスに出たら急に人の顔があるんですもの。お化けかと思っちゃった。ね、ここになにをしてたのっ?」

「あ、いや……」

「今、壁に張りついていたわよね。どうやったの? あなた、もしかして魔法使いかなにか? こんな高いビルのてっぺんに上ってくるなんて」

「あ、いや……俺は……ええと……」


 のっけからぼくは困惑した。これまで『自分の正体がばれる』という事態についてさまざまな想像をしていたにせよ、こうもあけすけに正体を訊ねられる羽目に陥るとは予想だにしていなかったからである。

 だが部屋に入ってしまった以上もはや逃げ出すこともかなわず、やむなくぼくはもごもごと言った。


「や、この間紙ヒコーキを拾ったもんだから、その、どんな奴が投げたのか気になって」

「えっ? 紙ヒコーキって……。あーっ!」


 ぼくがポケットから取り出した折りたたんだ例のゲームショップのチラシを見たとたん、女の子はぴょこんと跳び上がって声をあげた。


「それ、私の投げたやつじゃない。すごーいっ。あれを拾った人がいたなんてっ」

「や、つうか俺、あの日あそこのビルの上にいてさ。それで……」

「ビル? どうしてビルの上にいたの?」

「や、それは……なんていうか、暇してて」

「ひまだとビルの上にいるの?」

「……」

「さっき、くつの裏でマンションの壁にくっついていたよね。ね、どうしてあんなことができるの?」

「あ、いや。子供の頃に、ちょっと」

「なあに? ちょっとどうしたの?」

「や、なんていうか、急にできるようになって……」

「どうして? どうしてそんなことが急にできるようになったの? あなたはだれ?」

「だ、だれって言われても……。や、なんつうか……、そのう」


 矢継ぎ早に質問をぶつけてはわくわく顔で迫ってくるこの女の子にぼくはすっかり困り果てた。そして、おそるおそる訊ねる。


「……あのさ、誰にも言わない?」




 結局、ぼくはこの女の子に自分のすべてを話してしまった。最初はおそるおそる……それから洗いざらい全部、なにもかも。

 なんでこんな年下の女の子、しかも会って五分もたっていない子相手に何もかも打ち明けてしまったのか、自分でもよくわからない。重力を操っているところを見られてしまったからか、それともあの強烈なヘッドバットが効いたのか。ただひとつ言えることは、このときの決断をぼくは今にいたるまで少しも後悔していないということだ。


 ぼくの独白をこの少女は長いこと少しも笑わずに聞いてくれた。そして、すべてを聞きおえた後、彼女はあっけらかんと言った。


「なあんだ。そういうことだったのね。わたし、てっきりあなたのことピーターパンかと思った」

「ピーターパン?」

「だって、いきなり窓の外にいるんだもの。そんなの、ネヴァーランドの使者ぐらいしかいないじゃない。でもここ59階でしょ。だからずいぶん働き者のピーターパンだなあと思って」

「そ、その……おどろかないの」

「おどろく? おどろくって、なにが?」

「や、なにがって、おれ、変だろ?」

「へん?」


 必死に身を乗り出して言うぼくに対し、女の子はきょとんと首をかしげた。


「へん。うーん。変……かなあ。」

「変だろ、ぜったい。壁にくっついたり、ビルを上れたり、手に物を引きつけられたり。そんなのふつーじゃないって」

「うーん。でも、あなたがたとえ変でもわたしべつに気にしないわ」

「ど、どうして?」

「だってわたし、病気だから。重病」

「え」


 おどろくぼくにむかって、彼女は自分を星降ほしふりロンドと名乗った。そして自分は小学生の頃から重い病気にかかっており、もう三年以上も闘病生活を送っているのだと告げた。この一室にいるのはそのためで、なんでも体を患ってからはしばらく大きな総合病院に入院していたのだが、そこでの単調な毎日と殺風景な病室の風景に飽き、親に無理を言って頼みこみ、都心全体を見渡せるこの高層マンションに自分の居を移してもらったのだという。


 その徹底ぶりは専属の看護師や医師が帯同し、様々な医療設備がそのまま病室ごとこの場所に移されるほどで、これにより彼女はこの部屋を一歩も動くことなくして最高度の医療を受けられるらしい。つーか後で聞いた話によれば、このフロアのみならず、このビルそのものがこの子の両親の所有物なのだという。


「すげーな」

 いったいどれだけお金持ちなんだよ……とぼくは豪華な室内をあらためて見渡したが、もっとも当事者に言わせればここの生活もさほど愉快なものでもないらしい。


「だけど、ここも住んでみると案外たいくつなの。毎日やることないし、おもしろいこともないし。だからゲームやったりして遊んでるんだけど、それもだんだん飽きてきちゃった」

「ははあ。それでこんなにゲームが」


 ぼくはあたりに散らばっているゲーム機やコントローラーなどを眺めていった。ベッドの周りにはこの子が遊び散らかしたとおぼしきおもちゃの箱が散らばっている。

「うん。毎日やってるの。看護婦さんに怒られるくらい。でも駄目ね。最近はぬるいゲームばかりで歯ごたえがなさ過ぎるわ。きっと、せいさくしゃに気合いが足りないんだわ」

 いかにも年相応にぷっと口をとがらせる彼女をながめつつ、ぼくはなんとなくこの子の置かれている状況を察したような気がした。たぶんこの子は「とらわれのお姫様」なのだ。きっと彼女はこうして来る日も来る日も退屈を持てあましながら、このビルの最上階で毎日をすごしてきたのだろう。


 同時にぼくはこの子がぼくをこわがらなかった訳がわかってほっとした。のけ者がのけ者を見つけたとして、それでいじわるしたり白眼視したりするはずがない。

 ロンドは訊ねた。


「ね、重力ってなんでも操れるの?」


「うん。まあ、地球上にあって質量を持った物なら、だいたい」


「どれくらいの強さまで?」


「んー。最近は試してないけど、原理的に言えば、月でも引き寄せられると思う。あんまりやるとまわりの物を壊してしまうことになるから、やらないけどね。やるなら軽いものかな。こんな風に」


 そう言うと、ぼくは軽く左手を宙に伸ばした。その瞬間、反対側の壁の置かれたアンティーク調のキャビネットの上にあったプーさんのぬいぐるみが一瞬にしてぼくの手元に届く。


 ロンドは目を丸くした。


「すごーい。どうやったの?!」

「このグローブだよ。ぼくの力は物理的な触媒なしではGを伝導しないけど、グローブの手のひらに薄い鉄板を貼り付けておけば、それを媒介して物体はぼくの手に引き寄せられるから。……あまり大きなものは無理だけどね」

「ねっ、壁を立って歩くの、今できる?」

「う、うん。できるけど……この部屋の壁、使っちゃっていいの?」

「うんうんっ」


 彼女が熱心に頼んだので、ぼくはやむなく壁に脚をかけるとすたすたと歩いて見せた。そしてそのまま上に行き、逆さまの状態で天井につり下げられた高価なシャンデリアライトの脇まで歩いて行くと、下で見上げているロンドに手を振る。


「わぁー……」


 ロンドは目を輝かせていたが、やがて胸元でぱちぱちと拍手した。ぼくは照れた。今まで何千回、何万回、こうした光景を夢見たことだろう。だれかにぼくの力を見てもらい、褒めてもらう。ガキの頃にこの妙な力を手に入れて十余年。やっと、夢が実現した。


 その後、ぼくたちはずっと話をした。お互いのことやこれまでのこと。今まで思っていても口に出せなかったことなど、ぼくは自分がいる場所が病室であることなどすっかり忘れて夢中で話し続けた。


 ふと気がつくと、時刻はもう明け方近くになっていた。ぼくはビル陰から漏れるまばゆい曙光しょこうに、外が白みはじめていることにはじめて気がついた。


 ぼくはあわてて立ち上がった。


「やべ。俺、もう帰らないと」

「また来てくれる?」

「……い、いいの?」

「うん。また来て」

「う、うんっ」


 ぼくは全身でうなずいた。

 ロンドはぼくをテラスまで見送ってくれた。


「約束よ」

「ああ、また」


 ぼくは宙へ身を躍らせた。そして、朝焼けの中を(ビル壁を)走って帰った。




 なにかが始まる、そんな気がした。

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