第2章-06 ディメンション・トリガー

 その日、ぼくはいつものようにビルの上にいた。


 朝、学校へ行くふりをしてそのまま電車に乗り、終日を高層ビルの上で過ごすことはもうぼくの日常になっていた。オフィスで働く脚のきれいなスーツ姿のおねーさんをながめながら寝転がるぼくはていよくいって野外の引きこもりといってよく、この世の無価値を一身に体現する存在としてのみ存していた。


 その日も暇をもてあましつつ、サンタクロースの日雇いバイトくらいならがんばればできるかもしれない……などとぼくが自分の将来について真剣に思いを巡らせていたときだった。


 つい――。


 つと、ぼくの視界の前をなにか白い物が横切った。


「ん?」


 ぼくは軽く首をもたげた。それはしばらく風に乗って空にたゆたっていたが、やがてぼくの重力場に引かれるようにぼくの足下に落ちてくる。


「紙ヒコーキ……?」


 ぼくはそれを手に取り、きょろきょろとあたりの空を振り仰いだ。こんなところでいったいだれがこんなものを飛ばしているのだろうと思ったのだ。ぼくのいるのはそこそこ丈の高いビル群の一角で、それより階層の高いビルなどほとんどない。

 開いてみると、それは中古のゲームショップのチラシで折られている。


「……?」


 ぼくは首をかしげたが、その後もたびたび目の前を白い物がよぎっていくことが起こった。どうやら紙ヒコーキはぼくのいるビルの斜め後方にあるタワーマンションから投げられているらしく、それがビル風に巻かれてぼくの足下に降りてくるらしい。ぼくはだんだん気になってきた。

「このビル、か」

 帰りがけ、地上からそのビルに目星をつけたぼくは直接このマンションに登り、その部屋を突き止めてみることにした。


 数日後。

 夜。夕刻もとうにすぎ、マンションの屋上の縁に腰を下ろしてはりこんでいたぼくはつと暗い夜空に白い紙ヒコーキが現れたことに気がついた。それは白い放物線を描きながらビルの狭間へとゆっくりと吸い込まれていく。

「あそこか」

 ぼくは素早く立ち上がり、それとおぼしき場所へ走って行った。が、あたりは真っ暗で、紙ヒコーキがどの窓から投げられたのかまではわからない。

「えーと、たしかこのへんだったような……」

 ビルの壁面に佇んだまま頭をかいていると、つと視野の端でふわりと白い物がゆれた。見るとレースのカーテンが開け放たれた窓から風にあおられて白く揺れている。近くによってのぞいてみるとそこはテラスになっており、中に明かりがともっていた。揺れるカーテンの隙間ごしにのぞける広い室内はがらんとしており、人の気配はない。


「寝室……かな?」

 わずかにのぞける部屋の一角にベッドを認め、窓辺の壁に佇みつつぼくがそっと顔をのぞかせていたときだった。

 とつぜん、レースのカーテンの間から紙ヒコーキを手にした女の子がいきおいよく飛び出してきた。ふいだったからたまらない。避けるまもなくぼくとその子のおでこは正面衝突をした。


 ごちん。


「きゃんっ」

「あだっ」


 目から派手な火花が散り、おどろきと痛みにぼくは一瞬、意識をそらした。その瞬間、壁に張り付いていた足下の重力が途絶え、ぼくは真っ逆さまに転落した。


「わああああぁぁぁぁっっ」


 たちまち数十メートルの距離を落下したぼくは必死に空中で手足をふり舞わした。そしてかろうじて壁面に触れた左手の中指の先を通じてなんとか重力を派生させ、落下を食い止める。ぼくはほとんど這うようにしてビルの外壁にしがみついた。いくら世をはかなんでいるからと言って、いきなり女の子から頭突きを食らったあげくビルから墜落死なんて嫌すぎる。


 ぜいぜい。


 物を言う余裕もなく、ぼくは息荒く壁に全身をあずけた。女の子は遙か上のテラスから、そんなぼくをぽかんとした表情で見下ろしている。

 ぼくは生まれて初めて人前で力を使ってしまったことに気がついたが、この状況では今更どうしようもない。


「……あ、あのう」


 てるてる坊主みたいな純白のネグリジェを着たその女の子はドジな空き巣でも見るような目つきでぼくを眺めていたが、ややあっておそるおそると言った口調で訊ねた。地味に痛かったのだろう。おでこが真っ赤になっている。


「あなた……こんなところでなにしてるの?」


 とっさになんと答えるべきかわからず、ぼくはつと天を仰いだ。頭上高く広がる漆黒の空にはそんなぼくを見下ろすようにぽっかりと満月が浮かんでいる。

 やむなくぼくは言った。


「月見」





 こうして、ぼくは星降ロンドと出会った。

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