第2章-03 ディメンション・トリガー
そんなぼくを、周囲がどんな風に見ていたのかはわからない。
少なくとも家族は呆れていたことは間違いない。それまでよくも悪くも絵に描いたような健康優良児だったぼくが、急にわけわからない格好や言動を取るようになったのだから。でもまあ、きっと生温かい目で見守ってくれていたと思う。この頃のぼくはまだそれほど荒れてはいなかったし、一応家族との会話は成立していたからだ。ぼくが本格的にすさみはじめるのは、これよりもう少し後になってのことだったし、ぼくが「弾ける」のはあくまで制服からパーカーに着替えた放課後、それも深夜の都内の高層ビル群の中に限られた。
妹のメグはすくすくと育ち、早くも一年生になっていた。そんなある日のこと、ある出来事が起こった。初夏の昼下がり、遅刻をした妹を学校へ送っていくことになったのだ。風邪で休んでいたメグが午後から学校に行きたいと言い出し、たまたま休校日で家でゴロゴロしていたぼくにお呼びがかかったのである。
「いい? ログ。横着しないでちゃんと校門の中まで送り届けるのよ」
「ちぇっ」
母の言いつけにぼくはむくれた。伝説の『
「じゃ、たのむわね。それから、車に気をつけて」
「やれやれ。ったく」
赤いランドセルを背負い、まるで命綱のようにぼくの右手を掴む妹の手を引きつつぼくは通りを歩き出した。が、いつもの通学路にさしかかったところで、ぼくはふと出来心を起こした。
「なあメグ、5分だけ寄り道していいか?」
ぼくはよちよち歩いている傍らの妹に声をかけた。メグはまるいあごを上げた。
「どこいくの」
「いいとこだ」
「いいとこ?」
メグはすっかり喜んだ。
ぼくはメグを駅の裏手にある大型ビルの前まで連れて行った。そこはこのへんではわりと背の高いビルで、特に最上階のレストランはこのあたりの眺望が楽しめると有名だった。
「いいかい。にいちゃんがいいっていうまで、目を瞑ってるんだよ」
「うん」
ぼくはメグを背中におんぶすると、ビルの外壁を一気に駆け上がった。十秒後、ぼくたちはビルの屋上にいた。
「いいよ。目を開けてご覧」
ふきさらしの屋上でぼくはメグを背負ったまま言った。メグは閉じていた目をおずおずと開け、そして歓声を上げた。
「わぁーっ」
はるか眼下に、ぼくらの住む街が一望のもとに広がっている。空が、近い。
「すごいすごい!」
メグは興奮し背中に載ったまま両足をばたつかせた。そしてぼくの首根っこにしがみつくようにして叫んだ。
「どうやったのっ? ねえ、どうやってここまできたの?!」
ぼくはすっかり得意になった。
「へへー。魔法だよ。にいちゃんは魔法を使えるんだ」
「まほう? ほんと? ねえ、ほんとに?」
「ああ。でもいいかい。母さんにはないしょだよ。にいちゃんとメグの、ふたりだけの秘密だ」
「うんっ」
そういきおいよくかぶりを振ると、メグはあちこちに視線を巡らせる。
「おうちはどこかしら」
「うーん。たぶん、あのへんじゃないかな」
「ね、おにいちゃんはいつもこれ見てるの?」
「そうだね。いつも……」
そう言いかけたところで、ぼくはふと言い淀んだ。妹の何気ないその一言に、自分がこうした景色を眺めるのはいつも深夜だということに気づかされたのである。闇の中飛び回ってばかりいる自分が見るのはいつも夜景であり、日の下で街並みを眺めたことなど久しぶりであるということに。
その頃、ぼくは都内にある高層ビルを片っ端から制覇することに夢中になっていた。インターネットで地上高と住所を調べたあと日中に電車で下見に行き、夜に決行する。人目に付かぬように地上で黒いパーカーを羽織り、指ぬきグローブを填めればもう準備は完了だ。めぼしい建物はたいてい上った。東京都庁舎243m、東京タワー333m、ミッドタウンタワー248m、虎ノ門ヒルズ256m、代々木ビル239m、新宿パークタワー235m……。どれも1分、長くても2分もかからなかった。
べつに上ってどうするというわけでもない。ただ壁面を伝って上を目指し、そのビルの一番高い場所の縁に腰かけて缶コーヒーを飲み、スマホでそこからの景色を一枚撮ってそれでおしまい。ナントカと煙は高いところが好きとはよく言ったものだ。
「…………」
深夜、ふきっさらしの風に吹かれてビルのてっぺんに佇むあの気持ちを思い出しながら、ぼくはじっと黙っていた。いつもと同じことをしているのに、傍らに誰かがいるというだけで、どうしてこうも目に映る景色の印象が違って見えるのだろう?
メグがぼくの手を握ってくる。メグの手のつなぎ方は独特だ。ぼくに人差し指をまっすぐに伸ばさせ、それをきゅっと握ったあと、ぼくの残った四本指と手のひらに自分の手の甲全体を包ませる。
ぼくらは並んで腰を下ろし、足下に広がる風景をいつまでも眺めつつづけた。
だがこの日から一年も経たないうちに、ぼくはこれらの活動を一切やめた。ある日突然すべてを放り出したのである。
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