角島と文豪スティーブンソンと吉田松陰

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角島と文豪スティーブンソンと吉田松陰

山口県を図に例えると横に長い長方形であり、その左上の隅にまさに角(つの)のように出っ張った島がある。それが角島(つのしま)である。風光明媚なこの島は、ある旅行会社の調査により「死ぬまでに一度訪れたい風景」の一つに認定されている。島をつなぐ壮大な橋を渡り数キロ走ると日本海を照らすように高さ約30mの灯台があり、建築は英国の灯台技師スティーブンソンファミリーと記(しる)されている。

文学に詳しい人なら、確か英国に同名の作家がいたはず、と思うだろう。その通りでスティーブンソンは「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」などの名作で文豪と呼ばれる英国の作家である。彼は「ヨシダ・トラジロウ」という本を著し吉田松陰のことを米国やヨーロッパ全域に紹介した作家でもある。角島の灯台、英国の文豪、そして維新の革命教育家・吉田松陰は一体どのようにつながっているのだろうか。

実はここに正木退蔵(まさきたいぞう)という人物が介在する。正木は長州藩の推挙で英国に留学し、後に東京職工学校(現在の東京工業大学)の学長を務めたほどの秀才であった。英国留学先の教授の家で正木は「日本には素晴らしい教育者がおり、彼の名は『ヨシダ・トラジロウ』という革命の先覚者である。時の権力者の意に逆らい若くして処刑されたが、自分もそこの塾生であり様々な薫陶を受け『志』をもって生きよと教えられてきた」と語った。その席に若き日のスティーブンソンもおり、毎晩のように熱く語る正木の話に魅せられ『ヨシダ・トラジロウ』という日本人の名を深く心に刻んだ。この時彼は無名の作家であったが『志の大切さ』を身に沁みて感じ自分もトラジロウのような正義感に溢れた生き方をしようと意を決した。

スティーブンソンの一家は灯台ファミリーと呼ばれ、彼も父親や兄たちと一緒に世界各地に出かけ灯台の建設に従事した。東洋の国々を回り、東の果てと言われた日本に到着し、東京湾入り口の観音埼(かんのんざき)や野島埼(のじまざき)灯台の建設を経て、1875年ころ角島に来た。遥か東の方の灯りを見ながら「あの地がトラジロウのいた萩か」と彼の胸は高鳴ったであろう。実はその時スティーブンソンは、松陰の業績を『ヨシダ・トラジロウ』という著書で発表し、松陰は欧州では革命の指導者として知られるようになっていた。

 スティーブンソンは、情熱の人であり年上の恋人を米国まで追いかけ求婚するほどの果敢な行動家ではあったが、結核に侵され身体が弱い人だった。外国での長い仕事に耐え切れず、ついに療養することになり、角島灯台の初点灯を見届けることなく帰国した。本国では療養のかたわら、すぐれた文学の才能を発揮し「宝島」などの名高い作品を次々に発表し作家としての地位を確立した。

 彼の健康は極めて不安定な状態であったが、「トラジロウは生きる勇気を与えてくれる」と身をもって松陰の教えを実践しようとした。海外従事の間に見聞した大英帝国が世界の植民地で横暴なふるまいをしており、それらの世界政策を批判する文書を書き立てた。これに対し時の政府は発行禁止で自由も拘束すると対抗した。最終的に彼は、我が身の保証を条件に筆を置く事を決意し、遠く南太平洋のサモアに移り住んだ。サモアでは、数年間暮らし、住民に慕われながら平穏のうちに亡くなったという。

志(こころざし)の偉大さを行動することで示し幕末の日本に針路を示した吉田松陰、それを聞き二十年後に英国で母国相手に正義を主張し貫き通した文豪スティーブンソン、「志あれば偉大な魂というものは時空を超え空間を超えて啓発し合うものだ」と感銘を深くした。現代もそびえ建つ白亜の灯台の下で、二つの偉大な魂はお互いの信義を語り合っているかも知れない。


参考図書「烈々たる日本人」 

著者 よしだみどり 発行所 祥伝社  ISBN4-396-104141-6

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