㉒戦慄の野球拳大会

※※※


「……と言う事が、前回美子さんが参加した時にあってね? 皆の間でその時の事は『戦慄の野球拳大会』と呼ばれて、今でも語り草になっているのよ。どう? 驚いた?」

 桜の話を終始大人しく聞いていた美子は、何回か瞬きしてから深々と溜め息を吐いた。そして年長者相手にも係わらず、嗜めるように言い出す。


「桜さん……。幾らなんでも話を作るなら、そんな荒唐無稽な物ではなくて、もう少し真実を織り交ぜて、信憑性がある話をでっち上げて下さい」

 微塵も信じていないその口ぶりに、同席している男達は顔を微妙に引き攣らせ、桜はおかしそうに笑った。


「あら、そんなに荒唐無稽な話に聞こえたかしら?」

「私、普段はそんなにジャンケンが強くはありませんし。勝率は精々五割ですよ。それに幾ら私の記憶が無いからと言って、そんな話を鵜呑みにする筈が無いじゃありませんか。皆さんだって、呆れて絶句してますよ。ほら、見て下さい」

「…………」

 声を失っているのは、美子の信じなさっぷり故だったのだが、当然美子はそんな事は分からなかった。すると桜がおかしそうに笑いながら、あっさりと今までの話を無かった事にする。


「まあ、残念。美子さんが、少しは動揺してくれるかと思ったのに」

 それに美子も笑って応じた。

「話に無理がありすぎますから。私が酔って加積さんに無理やりチークダンスをさせたとかの話だったら、『ひょっとしたら、そんな事をしたかも』と思い込んで、真っ青になったかもしれませんが」

「俺は美子さんのご指名なら、喜んでお相手するが?」

「まあ、ありがとうございます」

 加積も会話に参加して一気にその場が和み、それからは《戦慄の野球拳大会》の話題などは微塵も出ないまま、賑やかに祝宴が進行していった。


 それから約二時間後。出席者の配偶者達が控えている部屋に美子が現れ、秀明に声をかけた。


「秀明さん、お待たせ。皆さんより、一足先に下がらせて貰ったわ。あなたが心配するから」

「当然だ。体調に変わりは無いな?」

 相も変わらず仏頂面で立ち上がった秀明に、美子は満面の笑みで頷く。


「ええ、大丈夫。とても楽しかったわ。芸者さん達の唄や踊りも見事だったし、初めて投扇興もしてきたの。高得点を出しちゃって、皆に誉められたのよ?」

「そうか。楽しんでこられたのなら良かった」

「それでは皆様、お先に失礼します」

 そしてやっと表情を緩めた秀明から、室内の女性達に視線を移した美子は、失礼の無い程度に頭を下げた。すると相手の女性達も、慌てて挨拶を返してくる。


「えっ、ええ」

「ご機嫌よう」

「お気をつけて」

 どこか怯えた表情の彼女達に見送られて、秀明と美子は玄関に向かって廊下を歩き出した。そして早速美子が、宴席での事を報告し始める。


「皆さん、出産したらまたお祝いを贈るからと言って下さったの。悪いわね。そんなに親しくお付き合いしているわけでは無いのに」

「気にするな。金は有り余ってる奴らばかりだ。貰える物は貰っておけ」

「もう! あなたったら!」

 素っ気なく言い放った秀明を美子は流石に叱り付けたが、秀明は贈り物と聞いて、かつての騒動の時の事を思い返した。


(あの翌日……。連中、俺の機嫌を直すつもりか、家に色々送りつけて来てたな。菓子折りの菓子の下に一面の札束とか、お仕立て券付きワイシャツ生地の下に土地やビルの権利書とか、ブランド物の札入れの中に小切手とか、ネクタイの箱の中にSDカードとか……。俺宛だからと未開封のまま俺に渡したから、美子は全然気が付いていないが)

 幾ら大金や貴重な情報を貰ったとしても、そうそう怒りが和らぐ筈も無かったのだが、加積が「連中も反省しているし、ここは一つ俺に免じて、許してやって貰えないか?」と直々に電話をかけて来た事もあって、秀明が何とか矛を収める事にしたのを、勿論美子は知らなかった。


「秀明さん、どうかしたの?」

 急に黙り込んだ夫を不審に思った美子が、不思議そうに顔を見上げて尋ねてきた為、秀明は妻の顔を見下ろしながらしみじみと述べた。


「やっぱりお前が、この世で最強だと思っただけだ」

「どうしてそうなるのよ。私は一介の専業主婦よ?」

「バイトで会長様だろうが」

 何を今更と秀明が素っ気なく口にすると、美子が盛大に反論してくる。


「本業は主婦なの! 突っ込みを入れないでよ。それにあれは不可抗力だったんだから!」

「そうだな。お前は自分の名前入りの、レプリカユニフォームを貰っただけのつもりだったんだよな?」

「あの時の事を、蒸し返さなくても良いじゃない! もう、秀明さんなんか知らない!」

「すまん。悪かった、美子。機嫌を直してくれ」

 完全に臍を曲げて、一人でずんずん先を歩き出した美子を、秀明は苦笑しながら追いかけた。


「笠原。美子さん達はお帰りになった?」

「はい。何やらご主人がおからかいになったらしく、賑やかにお帰りになられました」

「そうか」

 揉めながら二人が帰るのを見送ってから、座敷にその報告に行った笠原に、主夫婦は顔を見合わせて微笑んだ。すると笠原の背後から、男達の感嘆と呆れが入り混じった声が聞こえてくる。


「しかし『夢浮橋』に『篝火』に『真木柱』に『横笛』とは……」

「しかも立て続けだぞ? 俺は自分の目を疑ったな」

「俺もだ。もっと簡単な銘ならできた事はあるが、あんなのはできないし初めて見た」

「私は夢浮橋でしたら、他の人ができたのを見た事がありましたが」

「彼女、やった事が無いからどれだけ珍しい事なのか、全然分かっていないよな?」

 それを耳にした笠原が、どれだけ高得点の難しい役を出したのかと、部屋の隅の方に片付けられている、投扇興に使用する桐材の枕と華やかな柄の蝶に無意識に目を向けていると、桜が事も無げに告げた。


「彼女にしてみたら、案外簡単なのじゃない? 以前あなた方が、全員揃って裸に剥かれた事がある位だし。酔っててあれなら、素面でもあれ位は平気でやってしまいそうよね?」

「…………」

 そう言って桜はころころと笑ったが、当時の事を思い出した面々はとても笑う気分にはなれなかった。そんな男達を宥める様に、加積が笑いながら言い聞かせる。


「まあ、彼女にはなかなか底知れない所があるし、忠実な狂犬も付いているから、今後も変なちょっかいは出さない事だ。幸い彼女は、皆とは良いお付き合いをしていると思い込んでいるしな。わざわざそれを否定して、無用な波風を立てる事もあるまい」

 それを聞いた男達は、揃って加積に向かって平伏した。


「肝に銘じておきます」

「これからも、良いお付き合いをしていきますので」

 そんな風に世間一般的には相当恐れられ、煙たがられている男達を自分が戦慄させているなど、美子は未だに夢にも思っていなかった。

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