㉑狂犬夫

「あのね? 私、一度もきちんとお勤めをした事が無いから、所謂無礼講って体験した事がなくて。日舞教室では時々懇親会とかあっても、羽目を外す人なんて皆無だし」

「そうだろうな。上品な女性ばかりだろうし」

「でも男の人が沢山参加する宴会では、最初は大人しく飲んでいても、途中から無礼講になってどんちゃん騒ぎになって、野球拳をやるのが定番なのよね?」

 にこにこしながら、突然そんな馬鹿な事を言ってきた美子を見ながら、秀明は呻く様に尋ねた。


「……誰がそんな事を言った?」

「小早川さんが言っていたわ」

(淳……、あの野郎……)

 秀明は頭の中で悪友をボコボコに殴り倒したが、美子の話は更に続いた。


「それで、ラスボスを倒したらその人が新しい王様になって、最後は裸になった全員で裸踊りかフォークダンスをして貰って、皆の結束を深めるのよね?」

 美子が瞳をキラキラさせて、微塵も疑っていない様子で言ってきた内容について、秀明は盛大に突っ込みを入れた。


「ちょっと待て! 誰だ、そんなアホな事を言ったのは!?」

「美実よ」

 にこにこと不気味な笑顔を披露しつつ端的に答えた妻に、秀明は僅かに動揺しながら考えを巡らせた。


(絶対、王様ゲームと混ざっているだろ? そもそもどうして美子は、こんな与太話を信じているんだ?)

 本音を言えば、秀明は自分の首筋にいつ刺さるともしれない裁ち鋏ごと、美子を引き剥がしたかったが、彼女にあまり手荒な真似はしたく無かった為、彼にしては珍しく判断に迷った。しかしそんな逡巡を物ともせず、美子は上機嫌に話を続ける。


「以前三人と話していて『宴会って結構大変』という話題になった時に、皆が話した内容を聞いて、そんな馬鹿なと笑って話半分で聞いていたの。だけど全員でお酌し終わったら、野球拳って流れがそのままだし。きっとこれが、日本の宴会の本式なのね。さすが加積さん主催の祝宴。こんな本格的な宴会に、参加できる日が来るなんて……」

 感極まった様に涙目で見上げてきた美子に、何となく危険な物を察知した秀明は、何とか相手を宥めようとした。


「ちょっと待て。落ち着け、美子」

「そして勝者を除いて全員全裸になったら、皆でフォークダンスか腹踊りをやって親睦を深めるなんて、なんて非日常的で感動的なの!?」

(おい! 俺を殺す気か!?)

 嬉々として美子が叫んだ瞬間、裁ち鋏を手にした右手が秀明のジャケットの更に上の方を強く掴んだ為、鋏の先端が僅かだが秀明の首筋にはっきりと刺さったのが分かった。


「だからそれは、明らかに間違い」

「今日は加積さんのお祝いの席ですし、最後は加積さんに決めて貰うのが筋ですよね! どちらが良いですか!?」

 冷や汗を流しながら必死に言い聞かせようとした秀明だったが、美子は全く聞いてはいなかった。それどころか、秀明に組み付いたまま加積に視線を向け、容赦の無さ過ぎる選択を迫る。


「ふむ……、これは困ったな。選ぶのが難しい」

「じゃあ勝負が付くまでに、決めておいて下さいね? あとは下着だけですから!」

「ぶふっ! あははははっ! やっぱり最高よ、美子さん!」

 苦笑いしている加積の横で桜がお腹を抱えて爆笑し、室内の全裸の男達と、秀明達に続いてやって来て情けない夫の姿を目の当たりにした女達は、揃って顔色を無くして絶句した。そして相変わらず首筋に鋏を軽く突き立てられている秀明は、舌打ちしたい気持ちを抑えながら、必死に考えを巡らせる。


(美子の奴、本気だ……。誰だ、こんなに正体を無くすまで、飲ませた奴は? 一見酔ってる様に見えない分、余計に質が悪いぞ)

 そこで秀明は、今後同様の状況を再び引き起こさない為にも、少々険しい表情で美子を問い質す事にした。


「美子。今日はどれだけ飲んだんだ。あまり飲むなと言っておいただろうが?」

 その叱責まじりの問いかけに、美子はキョトンとしながら返事をした。


「全然、飲んでいないわよ? だって皆さんから、杯に一杯ずつしかお酒を注いで貰ってないもの」

「本当か?」

「ええ」

 美子がしらを切っている様にも見えない為、秀明は(余程アルコール度数が高い酒でも飲まされたんだろうか?)と疑問に思いながら、何となく彼女が座っていたであろう空いている席に視線を向けると、そのお膳の横に信じられない物を認めて、声を上ずらせながら問いかけた。


「……おい。あの金杯は何だ?」

「お祝い事の時は、あれで飲むのが本式なんですって! 初めてみたわ、あんな立派な物。さすが加積さんのお宅よね。感激しちゃった!」

 相変わらずにこやかに美子が説明した“それ”は、直径五十㎝はあろうかという存在感の有り過ぎる金杯で、その傍に一升瓶が転がっている事からしても、彼女がどんな飲ませられ方をしたのかは、一目瞭然だった。


(あれで七杯……。傍観してないでさっさと止めろ! この役立たずが!!)

(誠に、申し訳ございません)

 すぐに状況を察した秀明が、更に首筋に鋏の先が突き刺さる事も厭わず、首を捻って憤怒の形相で笠原を睨み付けた。対する笠原も秀明の怒りの程が分かって、無言のまま深く頭を下げる。


(おぅ、怒ってる怒ってる。まだまだ若いな)

(あらあら怖い顔。イケメンが台無しよ?)

 そんな秀明を加積と桜は面白そうに見やり、秀明はその視線を感じて益々渋面になったが、何とか理性を取り戻し、この事態をどう収拾すべきかを考え始めた。


(ここまでの事態を招いた原因は、ひとえに主催者側の手落ちに他ならないから、加積のじじいが裸になって裸踊りをしようが風邪をひこうが、俺は一向に構わんが……。この件が外に漏れて「加積様に何をさせるんだ!」と美子が非難されたり、変な恨みを買ったりするのは避けるべきだろうだな)

 そんな結論に達した秀明は、なるべくいつも通りの口調を心掛けながら、美子を説得にかかった。


「美子。楽しんでいるところを悪いが、そろそろおしまいだ。家に帰るぞ?」

「分かったわ。すぐに加積さんに全裸になって貰って、皆で踊って貰うから待っててね?」

「それは止めろ」

「どうして? 最後までやってから帰るわ」

(まともに言い聞かせても無理か。美子相手に、手荒な真似もできないしな)

 不思議そうに主張してくる美子に、秀明は即座に説得の方針を変えた。


「確かに最後までできないお前は不満だろうが、このまま野球拳を続けたら、俺の機嫌が悪くなるぞ?」

「どうして?」

「俺を仲間外れにして、何を楽しんでるんだ。しかも俺以外の男の裸を凝視しやがって。俺が面白く無いのは当然だろうが?」

 そんな事をどこか拗ねた表情で秀明が口にすると、美子は驚いた様に目を見開き、秀明の服から両手を離して、右手に裁ち鋏を持ったまま軽く両手を打ち合わせた。


「なるほど! 確かに秀明さんをそっちのけにして、私だけ楽しんでいたのは悪かったわ」

 やっと気が付いたと言う様に、うんうんと一人で頷いている美子に、秀明は安堵しながら再度帰宅を促す。

「だろう? だから、もう大人しく帰るぞ?」

 しかしここで美子は、更に予想外の暴挙に及んだ。


「もう~、秀明さんったらっ! 相変わらず誰かに構って貰えないと、忽ち寂しくなって拗ねまくっちゃう、困ったさんの可愛い小兎ちゃんなんだからっ!!」

「…………」

 満面の笑みでそんな事を言いつつ、美子が空いている左手の指でピシッと自分の鼻の頭を弾いた為、秀明は無表情で固まった。それと同時に至近距離から、抑えようとして抑え切れなかった様な、くぐもった笑いが聞こえる。


「ぶ、ぶふぁっ!!」

「こっ、こうさっ!」

(……完全に酔ってるな)

 チラリと横を見ると、両手で口を押さえた加積と桜が、秀明達から顔を背けて全身を震わせており、それを目にした秀明の怒りのボルテージが更に高まった。しかし何とか平常心をかき集めて、美子に向き直る。


「分かっているなら、俺と一緒に居てくれ。俺はこれ以上美子に構って貰えないと、寂しくて今にも死にそうなんだ」

 そして秀明が哀れっぽく訴えつつ、両手で美子の右手を包み込むと、彼女は流石に心配そうな顔付きになった。


「まあ、それは大変。大丈夫?」

「だからそんなに男の裸がみたいなら、俺が幾らでも見せてやるから、さっさと家に帰るぞ」

 そう言いながら秀明は、さり気なく裁ち鋏から美子の指を外し、更にそれを左手に持って背中に回す。すると心得た笠原が即座に鋏を回収し、秀明が安堵したのも束の間、美子がまたとんでもない事を言い出した。


「じゃあ私達の部屋で、秀明さんが裸踊りをしてくれるのね?」

「……どうしてそうなる」

 盛大に顔を引き攣らせた秀明だったが、美子は平然と主張してきた。


「だって一人でフォークダンスはできないから、必然的に裸踊りをする事になるじゃない。せっかくここまで本格的にやってたんだから、最後まで本格的にやるの!」

「ちょっと待て、美子」

「してくれないなら帰らないから! ここで皆で、裸でフォークダンスをして貰うの!」

「だからそれは」

「皆で、裸で、フォークダンス! み~る~の~!!」

(駄目だ……。理性と判断力の欠片も無い)

 地団駄を踏みながら涙目で訴える美子を見て、秀明は色々な意味で諦め、溜め息を吐いて了承の言葉を返した。


「分かった……。俺達の部屋で、お前の気の済むまで俺が踊ってやるから」

「本当? 秀明さん」

「ああ。俺がお前に嘘を吐いた事があったか?」

「三回あるわ」

「…………」

 疑わしそうに言われた挙句にきっぱりと断言され、秀明は再び無言になった。しかし美子は、すぐに明るい笑顔になって申し出る。


「と言うのは冗談だけど。じゃあ秀明さんのお腹に、私が顔を描いて良い? と言うか、描かせて? 今までそんな事をやってみた事はないけど、自信はあるの!」

(おい……、今度は裸踊りと腹踊りが混ざってるぞ)

 思わず心の中で突っ込みを入れた秀明だったが、期待に満ち溢れた瞳で妻から懇願された為、かなり複雑な表情で黙考してから、低い声で呟いた。


「……………………水性ペンなら」

「やった~!! 秀明さん、愛してるわ!!」

「ああ……、俺も愛してるぞ、美子」

 満面の笑みで自分に勢い良く抱き付いてきた美子を、秀明も両手で抱き締め返す。しかし美子が目にしていない彼の形相は、もはや人のそれでは無かった。


(寄ってたかって、面白半分で美子に飲ませた奴ら……。全員殺す!!)

 さながら鬼神の秀明の、紛れもない本気の怒りと鋭い殺気を全身に浴びる羽目になった全裸の男達は、本気で生命の危機を感じ、寒さ以上に恐怖に震える事となった。

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