⑳神憑り妻

 入籍した直後。加積の誕生祝いの席に招待されて、秀明と一緒に加積邸に出向いた美子だったが、到着後に予想外の事を笠原から告げられた。


「申し訳ありませんが、お祝いの席には美子様のみの参加でお願いします」

「は? 夫婦で招待しておいて、何だそれは?」

「申し訳ございません。毎回配偶者の方々には、別室にてお食事を準備してありますので」

「…………」

 忽ち不機嫌な顔になって黙り込んだ秀明だったが、ここで帰ったり無理に同席させる事は無理だと悟った美子は、笠原に頷いて秀明を宥めにかかった。


「分かりました。私だけ案内して頂けますか?」

「おい、美子」

「加積さんと桜さんが揃っているんだもの。そんな変な宴会にはならないわよ。それに今回は、加積さんの各方面の事業を引き継いだ方達が一堂に会するそうだし、ご挨拶だけでもしてくるわ。どのみち、顔見せはしないといけないと思うし」

「確かにそうだろうが……」

 美子のその主張に反論できなかった秀明は、益々渋面になりながら、強い口調で言い聞かせた。


「それは分かったが、変な事を言われたりされたりしそうになったら、手加減せずに反撃しろよ?」

「だから、そんな変な事にはならないって言ってるのに、心配性ね」

 そして夫婦のやり取りが一段落したのを見て取った笠原は、落ち着き払ってすぐ横の襖を手で示しながら秀明を促した。


「それでは藤宮様は、こちらのお部屋でお待ち下さい」

「……分かった」

「美子様は奥へご案内致します」

「はい、笠原さん、お願いします。じゃあ、少し待っててね」

 笑顔でもう一度宥められた秀明は、美子が廊下の曲がり角の向こうに消えるまで見送ってから、不承不承襖を引き開けて示された部屋に入ると、そこには八つの膳が並べられ、着飾った年配の女性が七人座っていた。しかし互いに敵愾心を持っているのか、無言で微妙な雰囲気を醸し出していたが、秀明はそんな事は物ともせず空いている席に座り、その座敷担当らしい給仕役の女性の一人から、盃を受け取る。


(全くろくでもないな……。何か問題がある様なら、美子がなんと言おうと引き摺って帰るぞ)

 仏頂面で冷酒用のポケット付きカラフェを奪い取り、料理を摘みながら早速手酌で飲み始めた秀明だったが、すぐに隣の席から媚を売る様な視線と声音で声がかけられた。


「話には聞いていたけど、思っていたより随分若くて良い男じゃない。一緒に飲まない?」

 しかし秀明はその女性に一瞬視線を向けただけで、ざっくりと切り捨てる。


「はっ! 面の皮の厚さが五cmで化粧の厚さが三cmの化け物となんぞ、酒が飲めるか。ただでさえ不味い酒が、飲めたものでは無くなるに決まってんだろ」

「何ですって!?」

「五月蠅いと言ってるんだ。失せろ。妖怪ババァ」

「何て生意気な若造なの!?」

「原田様!」

「お気持ちは分かりますが、このお屋敷で騒ぎを起こすのはご法度ですから!」

 思わず腰を浮かせて掴みかかろうとした女性を、給仕役の女性が三人がかりで押さえ込み、必死になって宥める。そんな騒ぎなど綺麗に無視して、秀明は怒りを燻らせつつ面白く無さそうに飲み続けた。


(今度からは、呼ばれても絶対来るか。美子も二度と出さんぞ)

 段々剣呑になってくる秀明の形相に、給仕役達を初めとして、普段それなりに羽振りを聞かせている筈の女性達も、いつしか押し黙って薄気味悪そうに秀明の様子を窺う。そんな調子で一時間半以上が経過し、室内の雰囲気がさながらお通夜のそれに成り果てた頃、控え目な声と共に出入り口の襖が引き開けられ、笠原が姿を現した。


「失礼致します」

 何事かと室内の全員が彼に顔を向ける中、笠原は一人無視を決め込んでいた秀明の元に歩み寄り、正座して彼に声をかけた。

「あの……、藤宮様」

「何だ?」

「その……、奥様を引き取って頂けないでしょうか?」

 神妙な顔付きで、そんなお伺いを立ててきた笠原に、秀明はすぐに盃をお膳に置いて鋭い視線を向けた。


「美子がどうかしたのか? 酔って体調を崩したとか?」

「いえ、大層ご機嫌でいらっしゃいまして、体調も宜しい様です。先程から野球拳で、全戦全勝していらっしゃいますし」

 一瞬、相手を締め上げようかと思った秀明だったが、予想外の話を聞いて自分の耳を疑った。


「今、何と言った? 野球拳? 何の冗談だ?」

「それが……、冗談では無くお客様全員が、お召し物を全て取られてしまいまして……」

「はぁ?」

 言われた秀明は目を丸くしたが、その場に居合わせた者達全員も、何を言われたのか分からない様な表情になった。そんな戸惑いの視線を全身に浴びた笠原は、取り出した白いハンカチで額の汗を拭いながら、控え目に懇願してくる。


「美子様が先程から、旦那様相手に勝負を……。このままの勢いですと、間もなく旦那様が身ぐるみ剥がされる可能性が出て来てしまったものですから……」

 そこまで聞いた秀明は笠原を怒鳴り付けつつ、勢い良く立ち上がった。


「そんな事を、悠長に報告している場合か!! どの部屋だ!?」

「廊下に出て右方向に進んで、突き当りを更に右に進んで、左側の奥から二番目の部屋になります」

「分かった。貴様も来い!」

 言い捨てて廊下に向かって駆け出した秀明を、笠原が慌てて追いかける。一瞬遅れてその部屋の女性達も何事かと立ち上がり、二人の後を追った。


(全戦全勝って、どういう事だ? いや、そんな事より何より……)

 さすがに混乱しながら廊下を駆け抜けた秀明は、すぐに目的の場所に辿り着いた。


「アウトっ、セーフ、あ、よよいの……」

「ここだな!?」

「はい!」

 襖越しに美子の声が聞こえた秀明は、一応後ろを駆けて来た笠原に確認を入れ、肯定された為迷わず襖に手をかける。


「美子!!」

「……よいっと!」

 そして怒声と共に勢い良く両手で襖を左右に引き開け、座敷に飛び込んだ秀明だったが、その眼前には自身の目を疑う光景が展開されていた。


「きゃあっ!! また勝ったぁ――っ!!」

「やれやれ、美子さんは強いなぁ……」

「それじゃあ加積さん。また一枚、脱いで下さいね?」

「仕方あるまい」

 立ったまま勢い良く万歳した美子の前で、座ったままの加積が苦笑いしながら長袖シャツを脱ぎ出す。そして上半身裸になった彼からシャツを受け取った美子は、帯に挟んでおいた裁ち鋏を取り出し、勢い良く一直線に切り裂いた。


「もう! 皆もあなたも、だらしないですよ?」

 すっかり高みの見物を決め込んでいるらしい桜が笑うと、もはや身に着けているのがステテコだけという、かなり情けない姿になった加積が、苦笑しながら言い返す。


「お前、他人事だと思って、言いたい放題だな」

「あら、だって女性に冷えは大敵ですもの」

「そうですよ。特に桜さんは、お年を召していらっしゃるんですから」

 しれっとして主張した桜に、切り裂いたシャツを畳に放り出して再び鋏を帯に挟んだ美子が、力強く同意する。その為、加積は些か哀れっぽく声をかけてみた。


「美子さん。それなら俺にも、敬老精神を発揮して貰えないものかな?」

「駄目です! 加積さんは今日の主役なんですから!」

「いやいや、手厳しいな」

 ビシッと自分を勢い良く指差しながら断言した美子に、加積は苦笑を深めた。そして加積より先に美子に打ち負かされたらしい七人の男達が、全裸でそれぞれの席に座り込み、周囲に切り裂かれた衣類が散乱する中、膝の上に座布団を乗せて蒼白な顔で上座を眺めているのを視界に入れた秀明は、半ば呆然としながら妻に声をかけた。


「おい……、美子。一体、何をやっているんだ?」

「あら、あなた。どうしたの? まだ宴会は終わっていないけど?」

 振り向いて不思議そうに尋ねてきた彼女に、秀明は困惑も露わに問いを重ねる。


「どうしたのって……、それはこっちの台詞だ。どうして皆、裸になっているんだ? しかも、どうしてお前が着物を切っている?」

「だって野球拳で勝った人は、相手の身に付けている物を一枚貰って、罰ゲーム代わりに二度と着れない様に切るんでしょう? ちゃんと知っているんだから!」

「ちょっと待て。誰がそんな事を言った?」

「美恵よ」

(何だ、その歪みまくった情報は……)

 微塵も疑っていない風情で述べた美子に、秀明は頭を抱えたくなった。しかし先程から気になっていた事について尋ねてみる。


「ところで美子、その鋏はどうした?」

 帯に挟んでいる、家から持参した覚えのない裁ち鋏を指差しながら尋ねると、美子は上機嫌に笑いながら答えた。


「笠原さんに持って来て貰ったの。背広もベルトも大して力を入れずに楽々切れるのよ、この裁ち鋏。このお屋敷の物だけあって、さすがに最高級品よね」

 感心しながら妻が述べた内容を聞いた次の瞬間、秀明は自分の背後に控えていた笠原を振り返って睨み付けた。


「おい……」

 その抗議の視線を受けた笠原は、再び取り出したハンカチで額の汗を拭いつつ弁解してくる。


「鋏をご所望されたので、縫い目が解れた糸でも、お切りになりたいのかと思いまして」

「それでどうして貴様は、あんな気合いの入った裁ち鋏を渡すんだ?」

「……ひとえに、私の判断ミスです。誠に、面目次第もございません」

 深々と頭を下げて謝罪してきた相手に秀明は小さく舌打ちしてから、現実的な問題について言及した。


「それはともかく、どうしてさっさと鋏を取り上げない。危ないだろうが?」

 しかし頭を上げた笠原が、これ以上は無い位真剣な面持ちで、秀明に訴えてくる。


「私共で試みてみましたが、下手をするとこちらの手足の一本や二本、切り落とされそうでしたので。今日の藤宮様は、まさに神憑りです。今のあの方の、ご機嫌を損ねてはいけません」

「真顔であまり馬鹿な事を言うな」

 完全に呆れかえった秀明は、自分で何とかするべく、美子の方に歩きながら右手を伸ばした。


「美子。危ないから、その鋏をこっちによこせ」

 すると美子は帯の間から再び鋏をスルリと取り出し、しっかり指を通して秀明に向かって振りかざす。

「駄目よ。これは野球拳をする為の、必須アイテムなんだから!!」

 シャキシャキ言わせている鋏の刃に届かない様に、素早く右手引っ込めた秀明は若干険しい表情になり、足を踏み出しながら美子に言い聞かせようとした。


「馬鹿な事言ってないで」

「い~や~よ」

「美子」

「ずぇぇーったいに、渡さないんだからっ!」

 腕を掴んで押さえようとしてもスルリと抜け出し、何度か顔や腕を切られそうになりながらも、捕まえる事ができない美子に、秀明は内心で動揺した。


(何だ? 一見隙だらけの様に見えて、全く隙が無い。着物を着ているくせに、動きのキレも尋常じゃないし。どういう事だ?)

 そして無意識に問いかける視線を笠原に送ると、彼は(お分かりになりましたか?)と目で訴えてくる。その隙に何を思ったか、美子が秀明に組み付いて来た。


「秀明さん! 秀明さん!」

「……どうした」

 美子が右手に裁ち鋏を握ったまま、スーツの襟元に両手でしがみ付くと同時に、秀明は首筋にひんやりした冷感と、棘が刺さった様な僅かな痛覚を感じた。それで位置的に見下ろせないまでも、自分の首筋に裁ち鋏の切っ先が触れている事を理解し、引き攣り気味の笑顔で応じる。すると美子は上機嫌に、その体勢のまま夫に話しかけてきた。

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