⑲秀明の懸念

 美子が第二子を妊娠して安定期に入ってから、藤宮家に郵送されてきた招待状に、秀明も昌典もかなり渋い顔をしたものの、彼女はそんな二人を宥め、加積康二郎の誕生日祝いの席に顔を出す事にした。

 当日夫婦揃って加積邸に出向き、玄関で出迎えを受けて廊下を歩き始めた美子だったが、突然隣を歩く秀明が、憤懣やるかたない表情で悪態を吐き始める。


「全く……。あの年になって、どうして誕生日がめでたいんだ。あの世に逝くのが早まるだけだろうが。寧ろ、このままポックリ逝きやがれ」

「秀明さん、お祝いの席にお呼ばれしているんだから、そんな事は言わないで」

「呼ばれたのはお前で、俺は呼ばれて無い。『配偶者を連れてきても良い』と、招待状に書いてあっただけだ。何を言っても構わんだろう」

「もう……。今日は朝から、そんな憎まれ口ばかりなんだから……」

 秀明の毒舌っぷりに呆れながら、美子は前を歩く、この屋敷内の事を取り仕切っている人物に向かって、謝罪の言葉を口にした。


「ごめんなさい、笠原さん。聞き苦しい事ばかりお聞かせして。この人ったら、今日は朝から機嫌が悪くて」

「いえ、気にしてはおりませんのでお構いなく」

 ここで軽く振り返って美子に微笑んだ笠原に対して、秀明が更なる暴言を放った。


「笠原。言っておくが、美子に酒を一滴でも飲ませたら貴様の全身の生皮を剥いで、残った骨と干からびた肉で出汁を取って、犬の餌にしてやるからそのつもりでいろ」

 そのあまりの物言いに、美子は顔付きを険しくして夫を叱りつけた。


「あなた! 笠原さんに八つ当たりしないで頂戴!」

「言っておくが、俺は本気だ」

「秀明さん!?」

 尚も凄んでくる秀明に美子は舌打ちしそうになったが、立ち止まった笠原は、恭しく秀明に頭を下げて了承の言葉を返した。


「承知致しました。私共で重々気をつけますし配慮致しますので、藤宮様はご安心して、こちらでお待ち下さい」

 そこで笠原がとある座敷の入口らしい襖を手で示した為、秀明はそれ以上文句は言わずに、再度念を押した。


「美子、分かっているな? くれぐれも」

「分かってます! 秀明さんは大人しく、ここで待ってて頂戴!」

 最後は完全に腹を立てて秀明と別れた美子は、はっきりと腹部の膨らみが分かる自分のマタニティドレスを見下ろしながら、苛立たしげに愚痴を零した。


「本当にもう……。こんな状態なのに、お酒なんか飲めるわけ無いじゃない。秀明さんったら、どうしてあんなにイライラしてるのかしら?」

「藤宮様にしてみれば、当然ですね」

「……笠原さん?」

 自問自答しているつもりが笠原の呟きが耳に入ってきた美子は、ちょっと意外に思いながら彼に声をかけた。


「笠原さんも奥さんが妊娠期間中は、凄い過保護だったんですか?」

「別に、そういうわけでは…………。いえ、そういう事にしておいて下さい」

「はぁ……」

(何か反応が変よね? いつもは何事にも動じない様に見える笠原さんが、口ごもるなんて)

 若干目を泳がせてから、再び先導して歩き出した笠原に、美子は内心疑問を覚えたものの、深く追及はせずに大人しく彼に付いて奥へと進んだ。そして広い座敷の出入り口に到達した笠原は、襖を引き開けながら中の人間に声をかけた。


「藤宮様がいらっしゃいました」

「おう、美子さん。良く来てくれたな。さあ、入ってくれ」

「失礼します」

 上座に座っていた加積から上機嫌に手招きされ、美子は軽く一礼してから室内に入り、夫婦の前で正座した。


「本日はご招待頂きまして、ありがとうございます」

「こちらこそ来てくれて嬉しいわ。だけどこの前見た時より、随分お腹が大きくなったわね。ご苦労様」

「秀明さんが最後までブツブツ文句を言っていましたが、安定期に入りましたから、顔を出すのに支障は無いと思いまして」

 笑顔で応じた美子に、桜がおかしそうに笑う。


「あら、そんなにご亭主は、美子さんが今日ここに来るのがそんなに不満だったの?」

「ええ。さっきも笠原さんに向かって、私に酒を一滴たりとも飲ませるなって、くどい位に言っていたんです。全く。どうしてあんなに心配するのかしら。妊娠中なんだから、飲むつもりなんか皆無なのに」

 それを聞いた桜と加積は、心得た様に頷いた。


「勿論そうだろうと思って、美子さんにはちゃんとお茶を用意しておいたから、安心して」

「ありがとうございます」

「烏龍茶とか冷たい物だと腹が冷えるかもしれないから、美子さんの席にはちゃんと、お湯と急須と茶葉を揃えておいたからな」

「はぁ……」

 そして加積の手で示された方に目を向けた美子は、末席に当たる場所のお膳の横に更に小さな台が設けられ、その上にポットと急須と茶碗と茶筒がセットされているのを見て、何とも言えない表情になった。


(なんかもの凄く違和感……。ただでさえ出席者の中では一人だけ若いし、桜さんを除けば女一人だし、余計に浮いてしまうんだけど……)

 思わず溜め息を吐きたくなった美子だったが、ここで加積が思い出した様に声をかけてきた。


「そう言えば美子さん。俺の誕生日祝いの席に顔を見せるのは、久し振りだな」

「はい、そうですね。確か結婚してすぐの時には出席しましたが、その翌年は美樹の出産前後で、その次は妹の結婚式と重なって……。何だかんだで、四年ぶりでしょうか?」

 そこで美子は座ったまま他の参加者に向き直り、笑顔で挨拶の言葉を述べて頭を下げた。


「折に触れこちらに出向いていますが、その時に顔を合わせた事はともかく、皆さんお揃いの時に顔を合わせるのは、あれ以来ですね。ご無沙汰しております。今日はお酒を口にできませんので、場を白けさせる事になったらお詫び致します」

 しかし神妙に詫びの言葉を口にした美子だったが、見た目も年齢も異なる七人の男達は、揃って慌て気味に彼女を宥めた。


「いっ、いやいや、美子さん。元気そうで何より!」

「うんうん、そうか二人目か。夫婦仲が宜しくて結構な事だ」

「それじゃあ酒は飲めんな。いや、気にするな。亭主が体調を気遣うのは当然だ」

「無論、我々も酒を勧めたりしないぞ? 安心しなさい」

「ありがとうございます。皆様に以前と同様、優しく接して頂いて嬉しいです」

「は、はは……」

「そうかな……」

 美子が(やっぱり皆さん、揃って良い方ばかりだわ)と安堵して微笑むと、男達が微妙に引き攣った笑顔を返してくる。その光景を眺めた加積は、笑いを堪える表情で美子に尋ねた。


「美子さん。因みに、前回の事はどんな風に記憶しているのかな?」

 その問いかけに、美子は不思議そうに思うところを述べた。


「どんな風にと言われても……。皆様とは結構年が離れている上に、女一人だったにも係わらず、皆こぞって私に話しかけてくれてお酌してくれて。大変楽しく過ごさせて頂きましたが、主人が広間に乱入して途中で切り上げさせて、中座して帰ったんですよね? 私、楽しく飲んだ記憶しかありませんが」

 困惑しながら美子が告げた内容を聞いて、男達の表情が微妙に強張った物に変化する。それを視界の隅に捉えながら、加積は話を続けた。


「やはりそうか。美子さん、普段酒は強い方だろう?」

「はい、幸いな事に。それが何か?」

「寧ろ、弱い方が良かったのかもしれないと、思ったものだからな」

「はい?」

 言われた意味が分からず美子は首を捻ったが、ここで桜が話を引き継いだ。


「美子さん。その次の日は、二日酔いにならなかった?」

「いいえ、全く。目が覚めたら自分のベッドで寝ていたのには、少し驚きましたが」

 その台詞に、桜が些か大袈裟に驚いてみせる。


「あら。じゃあこの屋敷から引き揚げた時の事は、全然記憶に無いの?」

「はい。中座して引き揚げた事は、秀明さんから話を聞いたので」

「なるほどね……。やっぱり相当苦労して、相当根に持ってるわね、あの男。肝心のあなたが、綺麗さっぱり忘れているなんて」

「何の事ですか?」

 何やら一人で合点して、くすくすと笑いだした桜を見て、美子は不思議そうに尋ねた。すると桜が悪戯っ子の様な笑みを浮かべながら、尋ねてくる。


「美子さん。あなたが前回顔を見せた時に、何があったのか正確な所を教えてあげましょうか?」

「正確な所、ですか? 私、何も変な事はしていませんよね? 普通に飲みながら、皆様と話をしていただけですし」

「それがそうでも無いのよ」

 そう言って再度笑い出した桜を、美子が困惑顔で眺める。そして桜は笑いを収めてから、四年前の出来事について話し出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る