⑱食べっぷりでの婿判定
「……美子姉さん」
「何?」
「本当に、これを出すの?」
お盆に乗せられた物を凝視しながらの美野の問いかけは、姉妹全員に共通の物だったが、美子はそれを一刀両断した。
「当たり前でしょう。ほら、ぼやぼやしてると冷めるから、さっさと運んで頂戴」
「……はい」
そして大人しくお盆を抱え持ちながら歩き出した美実達は、手元を見下ろしながら暗澹たる気持ちになった。
(これは駄目かも)
(美子姉さん……)
(やっぱり怒られても、今日は出掛けていれば良かった)
そして暗い表情で三人が客間に戻ると、どうやら残った面子でそれなりに話は盛り上がっていたらしく、昌典が機嫌良く声をかけてきた。
「お待たせしました」
「ああ、それじゃあ美恵。食事にするから、茶碗を片付け……」
そこで昌典が不自然に言葉を途切れさせたのは、娘達の手にあるお盆に乗せられた代物を目にしたからである。他の面々も当惑して黙り込んだが、美子は全く気にせずに冷静に指示を出した。
「美実、まずこちらに置いて」
「……はい」
そして座り込んだ美子は、持参したお盆を畳の上に置き、乗せていた金属製の長方形のバットの蓋を開けた。更に美実から受け取った蕎麦丼の蓋を取り、その麺の上にバットから菜箸で取り上げた海老天を二本と薬味を乗せる。
「じゃあ最初に谷垣さんにね」
「分かりました」
そして美子から準備ができた丼を受け取った美野は、神妙に谷垣の前にそれを出した。
「どうぞ」
「……なによ、これ」
(かけそばじゃなくて、まだ良かったかも)
(あんな大きな海老天が二本乗ってるから、一応一人前千円は越えてるだろうし)
(美恵姉さんの顔が怖い……)
こめかみに青筋を浮かべている美恵を見た妹達は、本気で肝を冷やしたが、そんな彼女達とは裏腹に、谷垣が歓喜の声を上げた。
「うわ!! 天ぷらそばですか!? 嬉しいな。好物なんですよ!」
「そうでしたか? それは良かったですわ。どうぞ、温かいうちに召し上がって下さい」
「はい! 頂きます!」
そしてこの間に美幸が揃えておいた箸を取り上げて、谷垣は猛然と蕎麦を食べ始めた。その様子に皆が唖然としている中、美子が他の者用の蕎麦を整えながら笑みを零す。
「上手い! これ、きちんと出汁を取ってますよね。やっぱり日本は昆布と鰹節の国だなぁ」
一気に半分ほどを食べてしまった谷垣がしみじみと口にすると、美子が笑いを堪える様に尋ねた。
「最近では海外でも日本食のお店は多くなった筈ですけど、やはり国内とは違いますか?」
「頑張ってる店には、偶に入りますがね。そういう店に当たった時は、嬉しくて泣いてしまう位ですよ」
「そうでしょうね。ご実家が料亭で、舌が肥えていらっしゃるみたいですから」
何気ない口調で美子が口にした内容に、谷垣は手の動きを止めて不思議そうに彼女を見やった。
「あれ? 俺の実家の事、美恵から聞きましたか?」
「いいえ、谷垣さんが開設しているブログを拝見しました」
「でもあの中で、実家の事とか書いてましたかね?」
尚も首を捻っている彼に、美子が笑いながら述べる。
「直接的には書いてありませんでしたが、話題に出されていた内容を総合的に判断すると、和風旅館か料亭かと推察しまして」
「そうでしたか。いやぁ凄い洞察力ですね、お姉さん」
本気で感心した視線を向ける谷垣に、美子は穏やかに笑いかけた。
「暫く海外に行かれていたみたいですし、今日は和食をお出しした方が、喜んで頂けると思いまして」
「ええ、もう、こんな本格的な蕎麦、最高です! 海外で食べるとただ真っ黒な汁や、明らかに市販のめんつゆを使ってる様な物を出される事もありますしね」
「ブログにも、随分腹立たしいコメントが載っていましたね」
「この海老天も衣がサクサクで、海老自体も身がプリプリしてて旨味を感じるし。本当に感動モノです!」
「喜んで頂けて何よりです。それからそのお蕎麦の他にも、お食事を用意してありますの。召し上がりますか?」
「はい、是非!」
美子の申し出に、嬉々として頷いた谷垣だったが、ここで美恵が慌てて会話に割り込んだ。
「ちょっと姉さん!? これだけじゃないの?」
「あら、当然でしょう? それでは少々お待ち下さいね」
後半は谷垣に告げて立ち上がった美子に、妹達は更なる不安を煽られた。
(絶対、気に入らなかったら、蕎麦だけで返すつもりだったわよね)
(やっぱり午前中に作ってたあれ、お昼用だったんだわ)
(取り敢えず良かったけど……、美子姉さんの事だから、まだ安心できない……)
「じゃああなた、美樹に食べさせていてね? ちょっと準備してくるから」
「……ああ」
そして蕎麦を配り終えた美子が立ち去って十五分程して、彼女が大きなお盆を手に再び客間に戻って来た。
「お待たせしました」
そうして谷垣の目の前に出されたお盆の上には、ご飯とお味噌汁は勿論の事、小皿や小鉢に六品並べた、質量共になかなかの物だった。
「うわ、久しぶりだな、こういう純和風のお惣菜。いただきます!」
「はい、召し上がれ」
空になった丼を回収して美子は自分の席に着いたが、その間も黙々と食べていた谷垣が、感心した様に感想を述べた。
「う~ん、胡麻和えも揚げ豆腐も、良い素材使ってますよね。一切手抜き感が無いのが良いなぁ。出汁もしっかり取れてるし」
「でもおもてなし料理とは、少し違いますでしょう?」
「いやいや、手の込んだ料理を食べたかったら、金を払って食べに行きますって。普段食べるなら、こういう寛いで安心できる料理ですよね。この茶碗蒸しも旨いですよ」
手に持っていた器を軽く上に上げつつ谷垣が述べると、美子は少し困った様に言葉を返した。
「ありがとうございます。でもご実家で食べておられた物の方が、美味しいのではありません?」
「それはまあ、食べ慣れている物の方が愛着はありますし。でもお姉さんの料理の腕もなかなかですよ?」
「それは嬉しいのですが、生憎美恵はあまり料理が得意ではなくて。私並みに作れると思われると、少々可哀相なのですが」
「……姉さん」
わざとらしく頬に右手を当てながらしみじみと述べた美子に、美恵は怒りの形相になり、その他の者は一斉に顔を強張らせたが、谷垣は平然と笑い飛ばした。
「そんな事はとっくに分かっていますから、大丈夫ですよ? 美恵は手抜き料理は上手いですが、手の込んだ物はいつも俺が作っていますから」
「……康太」
「あら、それなら良かったわ」
「ええ、安心して下さい」
一人顔を引き攣らせた美恵を無視するように、美子と谷垣が意気投合して「うふふ」「あはは」と笑い合い、傍目には問題なく谷垣が綺麗に料理を平らげていく光景を藤宮家の面々は眺めていたが、不穏な気配を隠そうともしない美恵を意識して(これで良いんだろうか?)と密かに頭を抱える羽目になった。
そして谷垣と美恵が帰った後、夜の時間帯になって美子の携帯に美恵から電話がかかってきた。
「今日のあれは、一体どういう事? 姉さん並みに料理ができなくて悪かったわね」
かなり棘のある口調にも動じず、美子は冷静に言い返した。
「本当に気にしていないみたいだから、良かったじゃない。それにやっぱり茶碗蒸しが好物みたいね」
「それがどうしたのよ?」
「結婚前に、先方の家にご挨拶に行くんでしょう? 一通り挨拶をしたら、谷垣さんのお宅の茶碗蒸しの作り方を教わって来なさい」
「は? 何よ、それ?」
いきなり脈絡の無さそうな事を言い出した姉に、美恵は困惑気味に問い返したが、美子は淡々と話を続けた。
「ご実家の料亭は、ご両親と妹夫婦で営んでいるから、未だにフラフラしている一人息子が万が一戻って来たりしたら、もの凄く面倒なのよ。分かるでしょう?」
「それは……、本人からも『帰省する度に肩身が狭い』とかの話は聞いてたし」
「だから自分で稼ぐから生活費の心配は要らない、風来坊の夫で構わない嫁なんて、家事がからきしでも諸手を挙げて歓迎してくれるわ」
「……何か今日で一番、ムカついたんだけど」
押し殺した声で告げて来た美恵に、美子が追い打ちをかける様に話を続ける。
「それにあなたは今まで周りからちやほやされる事ばかりで、仕事上では分からないけど、プライベートでゴマをすったり愛想笑いなんて芸当、まともにした事は殆ど無いでしょう?」
「ほっといてよ」
「だから茶碗蒸しのレシピを教えて貰いながら、それについての会話だけしていれば、無愛想な女なんて言われないわよ。それに『長く日本を離れた後に帰国した時位、美味しい茶碗蒸しを食べさせてあげたいので教えて下さい』とか言えば、なんていじらしい嫁だと泣いて喜んでくれるかもよ?」
そう言って小さな笑い声を漏らした美子に、美恵はもの凄く懐疑的な口調で問い返した。
「…………そんな事位で陥落させられる、チョロイ親だと思うの?」
「何か賭けましょうか?」
「止めておくわ」
即答した妹に美子は苦笑いしてから、口調を改めて話題を変えた。
「それから結婚したら、住む所はうちから徒歩三十分圏内にしなさい」
「何なの? その命令口調?」
「谷垣さんはあてにできないし、子供ができても働くんでしょう? 忙しい時や病気の時は預かってあげるわ。一人見るのも二人見るのも大差ないしね」
すると美恵は少し面白く無さそうに、ぼそりとある事を告げる。
「最寄駅の隣の駅から、徒歩五分のマンションを借りたわ。来月引っ越すから」
どうやら最初から当てにしていたらしいと分かった美子は、笑いを堪えながら、表面上は素っ気無く通話を終わらせた。
「そう。じゃあせいぜい頑張ってね。おやすみなさい」
そうして携帯を耳から離すと、正面に座って美子のやり取りを聞くともなしに聞いていた秀明が、苦笑しながら声をかける。
「あれはそれなりに気に入ったか?」
「そうね。蕎麦と言っても馬鹿にしないで、きちんと味わって食べていたし。何より食べ方が綺麗だったわ。汁物や掴みにくい煮豆をを食べたのに、箸も先から二cmしか濡らしていなかったし。料亭を営んでいる位だから、きっとご両親が厳しかったんでしょうね。稼ぎが無くても根性が曲がってないなら、大した問題は無いでしょう」
それを聞いた秀明は、正直(そんな事で納得するのか)と呆れながら感想を述べた。
「本当に、意外な所で豪胆だな」
すると美子は、何故か面白がる様な表情になって、僅かに身を乗り出しながら囁いた。
「ちょっとした秘密を教えてあげる」
「何だ?」
思わず内緒話をする様に、秀明も僅かに身を乗り出すと、美子は笑いを堪える様な表情のまま告げた。
「お母さんはね、お父さんの箸遣いが上手で綺麗に食べる所が、一番先に好きになったんですって」
その言葉に、秀明は一瞬当惑した表情になったものの、すぐに小さく噴き出した。
「なるほど。先達の教えに従ったって事だな。やっぱりお義母さんは偉大だ」
「そう言う事。美樹、くまさんは叔父さんになるみたいよ。今度来たらまた遊んで貰いましょうね?」
「うん! くま~!」
会話の内容は分からないまでも、また遊んで貰えると分かったらしい美樹が美子の横で元気良く頷き、秀明は(確かに子供にあれだけ懐かれるなら、変な人間ではないだろうな)と考え、次いでかなり自分らしくないその考えに、再度笑ってしまったのだった。
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