⑰熊男登場

 美恵が、婚約者同伴で帰って来る日の午前中。家族全員揃って朝食を取り台所で後片付けを済ませてから、一心不乱に調理している美子に向かって、美野が控え目に声をかけた。


「あの……、美子姉さん」

「美野? どうかしたの?」

 手を止めて軽く背後を振り返った美子に、美野が恐る恐る問いかける。

「さっきから何を作っているの? 今日のお昼は、どこかに頼まないの?」

 その問いに、美子は明るく笑って答えた。


「あら、お昼はちゃんと頼んであるわよ? これは夕飯の分を早めに作っているだけだから、気にしないで」

「そうなの……」

「ここは手伝わなくて良いから、お客様が来るまで好きにしていなさい」

「……はい」

 そうして素直に頷いた美野が引き下がり、廊下で待ち構えていた姉妹と合流したが、三人揃って難しい顔になった。


「てっきり、手料理でもてなす方針に切り替えたと思ったのに……」

「結局、美子姉さんがどこに頼んだのか、美実姉さんは知っている?」

「探りを入れたけど、全然駄目。薄笑いで完全黙秘」

「寒気がしてきたわ」

「私も、頭がちょっと痛くなってきたような……」

 そんな弱気な事を呟いた妹達を、美実が軽く睨み付ける。


「二人とも、仮病は無しだからね?」

「本当だってば!」

「一応、熱を測ってみても良い?」

 そんな娘達の会話を通りすがりに耳にした昌典は、軽く肩を竦めてリビングへと入った。


「やれやれ、大変だな。しかし本当に、美子は何をやっているんだ? 夕飯の支度は、客が帰ってからでも良いだろうに」

 入って来るなり独り言の様に口にした昌典に、ソファーに座りながら美樹をあやしていた秀明が苦笑を返す。


「午後に、料理をする状態では無くなると予測しているのか、料理をする気が無くなると思っているのか、その他にも何か理由があるんでしょうか?」

「いずれにしても、穏やかでは無いな」

「同感です。詳細については全く聞かされていませんが、なるべく騒動が拡大しないように心がけます。最悪、力ずくで引き剥がしますから」

「頼む」

 どうして結婚の挨拶だけでこんなに揉める予感がするのかと、秀明も昌典も理不尽な思いに駆られたが、両者ともそれをわざわざ口にしたりはしなかった。

 そしてほぼ予定通りの時間に、美恵は男性を引き連れて帰って来た。


「ただいま。連れて来たわ。康太、姉さんよ」

「はじめまして。谷垣康太です」

 なんとなく機嫌が悪そうな美恵が、横に立つ真っ黒に日焼けした五分刈りの男に美子を紹介した。それを受けて谷垣が頭を下げると、美子が笑顔で促す。


「まあ、わざわざいらっしゃいませ。どうぞお上がり下さい」

「ほら、上がって」

「失礼します」

 そして美恵と谷垣が靴を脱いで上がり込むのを、美実達は少し離れた廊下の陰からこっそり窺いつつ、心の中で率直な感想を思い浮かべた。


(本当に美恵姉さん、随分趣味が変わったわね)

(日焼け、してるのよね? 顔も手も、黒いんだけど……)

(凄い大きいし、体つきもごっついなぁ。でも冒険家だけあって引き締まった体型だし、運動神経は良さそうだよね)

 そんな三者三様な感想を妹達が抱いていると、美子の横に立って美恵達を出迎えていた美樹が谷垣を見上げ、次いで小首を傾げながら不思議そうに一言漏らした。


「……くま?」

 物珍しそうに何度か瞬きしている美樹に視線が集まり、その場に沈黙が漂う中、少し離れた場所に隠れている彼女の叔母達は、密かに焦りまくった。


(美樹ちゃんっ!)

(どうしてそんなストレートに!)

(食べられちゃうから!)

 しかし熊呼ばわりされた男は怒りだす事は無く、満面の笑顔になって足元を見下ろし、次いでしゃがみ込みながら美恵に問いかけた。


「お? 可愛いな。美恵の姪っ子か?」

「え、ええ。姉の子供よ」

「そうか」

「ちょっと康太! 何するの、止めてよ!」

 しゃがみ込んで美樹と視線を合わせたと思ったら、谷垣がいきなり美樹の脇の下に両手を差し入れ、掴んだまま立ち上がった為、美恵は瞬時に顔色を変えた。しかしそんな制止の声など聞こえない風情で、谷垣が美樹を上下に抱え上げる。


「ほぉ~ら、くまさんだぞぅ、高い高~い」

 すると一瞬驚いた様に目を見開いた美樹は、泣くどころか満面の笑みになって、上機嫌な声を上げた。


「きゃあ~! くま~、たか~!」

「お? もっとか? ほれっ!」

「うきゃぁ~っ! く~ま、たか~たか~!」

「ほい、ほいっと!」

「きゃはははっ!」

 挙句の果て、美樹を空中に軽く放り投げては受け止める動作を繰り返し始めた谷垣に、美恵が癇癪を起こした。


「康太! いい加減に止めなさいっ!」

 その叱責に、谷垣は手の動きを止めて、美恵に不思議そうな顔を向ける。


「あ? 何でだ?」

「今日は美樹ちゃんと遊びに、ここに来たわけじゃ無いのよっ!」

「名前は美樹ちゃんって言うのか。俺は別に、この子と遊ぶだけでも構わないんだが?」

「……あのね」

 怒りでぷるぷると全身を振るわせている美恵の横で、これまで唖然とした表情になっていた美子は、ここで笑いを堪えながら妹を宥めた。


「美恵、そんなに怒らないの。美樹も下りなさい。そちらのくまさんは、大事なお客様なの。まずご挨拶しなさい」

 そう言い聞かせられた美樹は、素直に谷垣に声をかけた。


「く~ま。した~」

「おう」

 そして廊下に下ろして貰うと、谷垣に向かってぺこりと頭を下げる。


「こんに~ちゃ」

「ああ、こんにちは」

「こっち」

「美樹ちゃんが案内してくれるのか? お利口だなぁ」

 奥を指差してとことこ歩き出した美樹に、谷垣は顔を綻ばせて大人しく付いて行った。更にその後を歩きながら、美子が小さく笑いを漏らす。


「なかなか面白い方ね」

「全く……、来る早々何をやってるのよ」

 美子に並んで歩きながら美恵が頭痛を堪える様な顔で呻いたが、それは彼女の妹達も同様で、コソコソと二人の後に付いて座敷へと向かった。


「ど~ぞ」

「ありがとう、美樹ちゃん」

 そして座敷に辿り着いた美樹は、早速空いている座布団の一つを谷垣に指し示した。それに礼を言って谷垣が座ると、正座したその膝に美樹がちょこんと座り込む。その間に遅れて入った美恵が谷垣の隣に座り、座卓の向かい側に座っている昌典に挨拶した。


「お父さん、お義兄さん。ただいま戻りました」

「ああ。美恵、今日はそちらの方を紹介してくれるそうだな」

 そこで昌典の横に座っていた秀明が、谷垣の膝の上に居座っている美樹に笑顔で声をかけた。


「美樹、お客さんの膝に座っていないで、こっちに来なさい」

「や! くま!」

「…………」

 しかし谷垣が妙に気に入ってしまったのか、美樹があっさりと秀明を袖にした為、秀明は忽ち笑顔を消して無言で両眼を細め、美恵を初めとする義妹達は揃って肝を冷やした。


(いきなり義兄さんの心証を悪くしてどうするのよ!?)

(美樹ちゃんっ……)

(子供だから仕方ないけど!)

(お願い、もう少し空気読んで!)

 そんな中、谷垣は冷静に美樹に「ちょっとごめんな?」と声をかけ、軽く抱き上げて自分の横に座らせた。そして昌典と秀明に向かって、神妙に挨拶する。


「初めてお目にかかります。谷垣康太です。美恵さんとは一年程前から、お付き合いさせて頂いてます」

 それを受けて昌典は笑いを堪える表情になりながら、機嫌が悪そうな秀明以下、一列に並んで座っている娘達を紹介した。


「丁重なご挨拶、ありがとうございます。こちらは長女の夫の秀明で、他は美恵の妹になります。こちらから順に美実、美野、美幸になります」

 すると、谷垣も会釈しながら視線を走らせて、楽しそうに口元を緩めた。


「皆さん、初めまして。しかし美恵から聞いていた通り、バリエーション豊かなお嬢さんみたいですね」

「ほう? 美恵が他の娘達の事を、どう言っていたと?」

「それはですね」

「ちょっと、康太!」

「失礼します」

 何やら聞かれては拙い事でも話していたのか、美恵が慌てて会話を遮ろうとしたところで、襖の向こうから声がかかって美子が姿を現した。それで否応なしに会話が中断し、美子は落ち着き払った動作で谷垣にお茶を出す。


「どうぞ。粗茶ですが」

「ありがとうございます」

「こちらが長女の美子です」

「はい、先程玄関で出迎えて頂きました」

「美樹、ジュースを持って来たわ。お食事の時に困るし、そろそろ谷垣さんの膝から降りなさい」

「うん」

 そして挨拶が済んだ後は、再び谷垣の膝の上にちゃっかり座り込んでいた美樹を秀明の横に座らせ、それぞれの前にジュースや茶碗を並べた。そして緊張しきっている妹達に声をかける。


「美実、美野、美幸。そろそろ頼んだ物が届く頃合いだから、運ぶのを手伝ってくれない?」

「分かったわ」

「はい」

 そして素直に立ち上がった三人を引き連れて美子が台所に戻ると、折良く誰かの来訪を告げるインターフォンの呼び出し音が鳴り響いた。


「あら、タイミングが良いわね」

 そして受話器を挙げて短いやり取りをしてから、作業用のテーブル上に並べておいたお盆を三人に持たせて玄関へと向かう。そして戦々恐々とする妹達を玄関に残し、美子だけ門まで行ってそこを引き開けた。


「ご苦労様です」

「いえ、たくさんご注文頂き、ありがとうございます。中まで運びましょうか?」

「玄関先で結構です。妹達に奥に運ばせますので」

「そうですか。それでは早速お運びします」

 白い作業着を着た若者が、ライトバンの後方から大型の岡持ちを二つ持ち上げて、軽々と玄関まで運び入れる。そして唖然とする美実達の目の前で次々と中身をお盆の上に並べてから、美子から代金を受け取って「まいどあり!」と上機嫌に去って行った。

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