(8)とばっちり
「藤宮さん。加藤さんの着付け、終わりました」
日舞教室で初心者のグループを二つに分け、基本である舞の首の動きと踊のすり足を教えていた美子の所に、妹弟子がやって来て耳元で囁いた。それに美子は小声で礼を述べる。
「棚倉さん、ありがとうございました。すみません、手が離せなくて」
「これ位、何でもありません。だけどあの人、お稽古に遅刻してきたのに全然悪びれないし、ここに通い始めてひと月近くになるのに未だに一人で着付けができないなんて、ありえないですよ」
棚倉はここの主催者である野口の所に行き、遅刻を詫びているらしい望恵を見ながら毒吐いた。それを美子は苦笑気味に宥める。
「一応着付けをしながら、着方を教えてはいるのだけど、私の教え方が拙いみたいね」
それに棚倉が些かムキになって、小声で言い返した。
「そんな事ありません! 私だって入った当初は藤宮さんに教えて貰いましたが、分かりやすかったです。それに毎回着付けして貰うのは申し訳ないと思って、家で散々練習しましたもの。あの人、絶対家で何もしてませんよ? 小物の名前すら未だに分かっていませんし」
「そうなの?」
「私、着付けをしながら『使用した予備の肌襦袢は一回ごとに洗って保管するので、少しでも汚れない様にする為に、せめて着脱可能な半襟位は持参したらどうですか?』とやんわり嫌味を言ってみたら、『半襟って何ですか?』って真顔で返されました。もう開いた口が塞がらなかったです」
「それは……」
さすがにフォローできずに黙り込んだ美子に、彼女は怒りを露わにしながら言い募る。
「それに、着付けの間中『藤宮さんの教え方が悪いから、いつまで経っても覚えられない』とか『私とあまり年が違わないのに、指導役をしているなんて、余程先生に媚を売るのが上手いのね』とか、藤宮さんの悪口を言いたい放題で。我慢できなくて『藤宮さんは四歳の時から先生に付いて習ってますし、既に名取です。着付けも出来ないど素人がどうこう言っても片腹痛いだけですね』とはっきり言ったら睨みつけられましたが」
「ごめんなさいね、不快な思いをさせて」
「いえ、悪いのは全面的にあの人ですから。それでは稽古に入らせて貰います」
「ご苦労様でした」
野口の所から望恵がやって来るのを横目で確認した棚倉は、これ以上係わり合うのはごめんとばかりにそそくさとその場を離れ、入れ替わりに野口の所へと向かった。そして申し訳程度に望恵が自分に頭を下げたのを見てから、美子は他の者達に声をかける。
「じゃあ加藤さんがいらしたから、前回の稽古で練習した、鏑木の中盤の足の動きをおさらいします」
「はい」
そして手拍子の合間に各人の動きをチェックして所作を教えていったが、案の定望恵は殆ど前回までの事を覚えておらず、前回までと同様、美子がほぼ掛かりきりで指導する事になった。
(この前美実が言ってた様に、踊りを習いに来ているんじゃなさそうね。でも特に面識のない人に、恨みを買う覚えは無いんだけど……)
間違いを指摘する度に仏頂面を隠そうともしない望恵を見ながら、美子は稽古の間中密かに考え込んでいた。
結果的に、その日も結構精神的に疲労した美子が、生徒達が帰った後で野口に挨拶して教室を出ると、出入り口で望恵が待ち構えていた。
「藤宮さん、ご一緒させて下さい!」
その申し出に、美子は流石に驚いて目を見張った。
「加藤さん? お帰りになっていなかったんですか?」
「はい、お稽古を始めてから、藤宮さんに毎回お世話になっていますので、今日はお詫びとお礼の意味合いを兼ねて、是非ご馳走したいと思ったもので」
教室中とは打って変わった愛想の良さに、美子はもはや胡散臭い物しか感じなかった為、やんわりと断りを入れた。
「お気持ちはありがたいのですけど、結構ですから。家に帰って夕飯の支度をしないといけませんし」
「あら、家には小さい妹さんもいらっしゃるけど、それ程年の離れていない妹さんもいらっしゃるんでしょう? そんなに心配されなくても、食事の支度位できますよ。あまり過保護なのは、却って良くないんじゃありません?」
にこにこしながら、差し出がましい事を言ってきた望恵がさらっと口にした内容に、美子は傍目には分からない程度に眉を顰める。
(個人的に話した事なんか無いのに、どうやら家族構成を含めてこちらの調査は済ませているみたいね。ここで無理に振り切ったり無視して美恵達にとばっちりがいくのは勘弁して欲しいし、取り敢えず付き合ってみましょうか。それで気が済めば良いし)
そんな風に腹を括った美子は、少し考える素振りをしてから、了承の返事をした。
「そうですね。そこまで仰るなら、この際ご馳走になろうかしら。家には遅くなると連絡を入れておくわ」
「良かった。じゃあ、こっちですから。お薦めの店なんです」
「結構歩くかしら?」
「いえ、駅の近くですから、大して歩きません」
(さて、どんなお店にご招待してくれるのかしら)
教室の入っているビルは、最寄駅までは徒歩でも十分かからない場所にあり、当初の話通り駅に向かって歩いて行った為、美子は注意しながらも望恵と当たり障りのない世間話をしながら、促されるまま歩いて行った。しかし駅前通りにあと一区画の所で、横道へと逸れる。
「加藤さん? こんな裏通りに、お薦めのお店があるの?」
雑居ビル同士の間の、広いとは言えない空間を抜けて行きながら美子が尋ねると、望恵は気味が悪い位愛想良く応じる。
「ありますよ? ちょっと離れていますが連れて行って貰えますから。はい、到着です」
そう言って手荒に美子の手首を掴んだ望恵は、そのまま彼女を引きずる様にして、ビルの突き当たりの空間に向かって進んだ。そこは割と開けた空間であり、左右に伸びる通路から入り込んでいたらしく、一台の大型の白いワンボックスカーが停車していた。その前にスーツ姿の四人の男が佇んでおり、美子達を認めた彼らは、揃って好色そうな笑みを浮かべる。
「あら、随分毛色の変わった方と、お友達なのね」
その美子の皮肉を完全に無視し、望恵は自分達近付いてきた一人の男に向かって美子を押し出しつつ、満面の笑顔で言いつけた。
「約束通り連れて来たわよ。後は宜しく。歓待してあげて」
「分かりました、お嬢さん。俺達で丁重に、おもてなしして差し上げますよ」
「じゃあ藤宮さん、ごきげんよう!」
男に美子を引き渡すと、望恵は高笑いしながら来た道を戻って行った。それを無言で見送りながら、美子は内心で舌打ちする。
(やれやれ、いきなりこう来るとは、さすがに思ってなかったわね。一応嫌味とか舌戦とか経てからだと思ったのに、そこら辺の常識も無かったわけか)
しっかり自分の腕を掴んでいる男を含めて、相手は四人。しかも今日は教室の帰りなので和装であり、逃げるにも反撃するにも不利と冷静に判断した美子は、一応自分を拘束している連中に声をかけてみた。
「生憎と私、あなた方に歓待して頂く謂われは無いんですが?」
「まあ、そう仰らずに」
「俺達全員で、じっくりお相手をして差し上げますよ」
「これも仕事の一環でしてね。まあ、こういう仕事は滅多に回って来ませんが」
「うちのボスからすると、お嬢さんはちょっとばかし目障りだったみたいでね」
「因みに、お金を払ったら、開放してくれるって事はないのかしら?」
「ありえませんね」
そう言って揃って下品な笑いを浮かべた彼等に、手加減の必要性は皆無だと美子は判断した。
(美実との話で引っ掛かりを覚えて、一応用意しておいて良かったわ。後で叔父さんに、お礼を言わないと)
そこで頭の中でハンドバッグに忍ばせてある物を使う算段を立てた美子は、神妙に男達に願い出る。
「解放して貰うのが無理なら、取り敢えず手持ちのお金を全額渡すので、扱いを丁寧にして貰うというのは駄目かしら?」
軽く首を傾げつつ尋ねてきた美子に、男達は顔を見合わせ、苦笑いしながら応じた。
「まあ、それ位はな」
「俺達も紳士だし」
「貰えるなら、それ相応の扱いはしてやるぜ?」
「じゃあ、先にお渡ししておきますね。お財布を取り出すので、ちょっと手を離して貰えるかしら?」
それらしき理由を付けて男に手を離させると、美子はバッグの中に右手を入れて、目的の物を探った。それの側面に付いている小さなレバーを九十度起こし、それを回転させて再び倒す。更に円筒形の頭頂部に埋め込まれているピンの引き手に指をかけながら、思わせぶりに言い出した。
「ですが……、四人で均等に分けると、流石に二万ちょっとにしかならないので……」
(どこが紳士よ。見てらっしゃい、女の敵! 5……、4……)
そしてバッグの中で、分からない様にロックの外れたピンを引き抜いた美子は、頭の中でカウントダウンしつつ早口で宣言した。
「早い者勝ちで、財布を取った人に全額差し上げます! さあ、受け取って!!」
そう叫びながら、美子はハンドバッグから取り出した拳大の黒い物体を、男達の頭上に放り投げた。
「え? おい!」
「ちょっと待て!」
「それは俺が」
(1……、0!)
そして反射的にそれを見上げた、欲の皮が突っ張った男達の視線の先で、小型特殊閃光弾が炸裂する。
「何だ!?」
「うわぁぁっ!」
「目がぁっ!!」
強烈な光とギュィィィンという耳障りな爆音で、男達の視覚と聴覚が一時的に失われたが、美子はそれを投げた次の瞬間顔を背けて目を閉じた上で、耳を塞いでいた為、殆ど影響は無かった。そして躊躇う事ハンドバッグを放り出し、草履を脱ぎ捨てて足袋で表通りに向かって走り出す。
(さあ、三十六計、逃げるに如かずってね!)
「このアマ! ちょっと待て!」
一人だけ咄嗟に目を背けたのか、目を瞬かせながらも追いすがった男に腕を掴まれた美子は、盛大に舌打ちした。
(しつこいわね! え?)
背後から左腕を掴まれた為、振り返りつつ体重をかけて殴りかかろうとした美子だったが、急に手が離れて慌てて踏み止まる。何事かと前傾姿勢になっていた体勢を立て直しつつ状況を確認すると、自分を捕まえていた男が、景気良く殴り倒されてアスファルトに転がっていた。
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