(7)華麗なる転身

 秀明が謝罪の為に自宅に押し掛け、予想外のシュート対決をした挙句、一見大人しく引き下がってから、約二ヶ月後。

 食堂で一家揃って朝食を食べていると、思い出したように昌典が言い出した。


「そう言えば、美子。この間すっかり言い忘れていたが、白鳥さんは経済産業省を辞めて、旭日食品に入社したからな」

「白鳥さん…………、はぁ!? 何それ!」

 秀明の事など、訪問した翌々日には綺麗さっぱり記憶から消去していた美子は、一瞬戸惑ってから驚きの声を上げた。美実以外の者達も黙ったまま軽く目を見張ったが、昌典は淡々と話を続ける。


「何だと言われても……。彼が二ヶ月前に家に来た時、結婚を前提にした交際の申し込みをしてきた彼に、お前が『旭日食品に入社して、課長職以上になったら出直して来い』と、彼を追い返したんだろうが。彼はその約一ヶ月後に入社している」

 冷静に詳細を告げてきた父親に、美子は自分の顔が強張っているのを自覚しながら、一応弁解してみた。


「あの、お父さん、ちょっと待って。確かに私はあの時、そう言った覚えはあるけど、それは言葉のあやと言うもので」

「因みに、はっきりと詳細を聞いた訳ではないが、彼が経済産業省を辞めるに当たって、ご家族と相当揉めたらしいな。父親の白鳥議員の逆鱗に触れて白鳥家の籍から抜けて、今現在は母方の江原姓を名っている。それで江原秀明の名前で入社したから、最初彼の事が分からなくてな。その後社内でちょっと噂になって、それを確認する為に人事部長に聞いて、漸く彼の事が分かったんだ」

「噂って、どんな噂ですか……」

「まあ、色々だ」

 思わず胡乱な目つきで問いかけた美子だったが、昌典は食事を再開しながらその視線と疑問を受け流した。そのやり取りを聞いた美恵達が、それぞれ小声で感想を漏らす。


「美子姉さん……、傍迷惑で罪作りな女ね」

「あっさり親子の縁を切っちゃうなんて、本当にやるわね」

「じゃあ美子姉さんの事、真剣に考えてくれてるのよね?」

「別に無理に名前を変える必要無かったのにね。婿養子に入ったら嫌でも名前が変わるのに。変なの」

(皆、相変わらず勝手な事を!!)

 予想外の事を聞かされた上、秀明の転職の責任をなすりつけられたように感じた美子は、未だに学生である妹達を叱りつけた。


「皆、無駄話してないで、さっさと食事を終わらせなさい! 学校に遅れるわよ!?」

「はぁ~い」

 それから美幸から年の順に慌ただしく出かけて行ったが、出勤時間に余裕がある昌典が居間で新聞を読んでいると、その前にお茶を出しながら、美子がいつもより低めの声で問いかける。


「ところで、あの人は入社に当たって、何をしたんですか?」

「『何をした』とは?」

 読んでいた新聞を畳みながら昌典が面白そうに問い返すと、美子は苦虫を噛み潰したような顔で言葉を継いだ。


「一ヵ月前というと六月だもの。そんな中度半端な時期に採用だなんて、あり得ないわ。本来なら採用枠なんか無いわよね?」

 しかしその指摘に全く動じず、昌典は湯飲みを手に取ってお茶を少し飲んでから静かに言い返した。


「『本来なら』な。だが、採用を決めたのは人事部長だ。社長の私が一社員の入社経緯まで細かく知るわけはないが、白鳥議員以外のコネを使ったか袖の下を掴ませたか、それとも人事担当者の弱味でも握ったか……。彼についての情報を持ってこさせた時、人事部長の顔色が相当悪かったからな」

「お父さん……、笑いながら口にする内容ではないわよ」

 最後はニヤリと意味ありげに笑った父親を見て、美子が心底呆れながら窘めた。しかし昌典は、益々面白そうに話を続ける。


「なんだ、そんなに彼の採用事情の詳細が知りたいのか? それなら人事部長に頼んで聞いてやるが」

「そんな事は一言も言っていません!」

「そうか」

(何よ、お父さんったら、その含み笑いは……)

 美子が思わず声を荒らげると、昌典は満足げに頷いて再び茶を飲んだ。それで美子は、それ以上文句を言えずに黙り込む。その後、迎えに来た社用車で昌典が出勤してからも、美子はモヤモヤとした気持ちを抱えながら一日を過ごす羽目になった。



「美子姉さん。最近身の周りで、何か変わった事はない?」

 夜、自室で静かに本を読んでいたところに押し掛けてきた美実が、唐突にそんな事を口にした。それを聞いた美子は困惑する。


「変わった事? 特に無いと思うけど?」

「本当に? 外に出た時、人や車に後を付けられている感じがするとか、家に変な物が届けられているとか。日中家に居るのは、美子姉さんだけだし」

 そんな事を真顔で言われ、美子は眉根を寄せながら確認を入れた。


「……何? 美実。あなた最近、誰かに後を付けられたりしてるの?」

「私は別に問題無いから。それより、美子姉さんの事を聞いてるんだけど?」

 再度真剣に尋ねられた美子は、半分呆れながらも答えた。


「そんな事を急に聞かれても……。別に不穏な気配はしないし、物騒な事もないわよ?」

「本当に?」

「何なの? 疑り深いわね」

「だって、美子姉さん。《ハインリッヒの法則》って知らない?」

「何、それ?」

 いきなり聞き覚えの無い単語を耳にして、美子は戸惑った。しかし美実は冷静に話を続ける。


「1つの重大事故の背景には、その前に軽微な29の事故があって、更にその背景には300の事故までには至らない異常が存在するっていう経験則の事」

 それを聞いた美子は、頷きつつも益々納得のいかない顔付きになる。


「要するに《ヒヤリ・ハットの法則》の事ね。だから何? 第一それは、労働災害の分野で用いられる言葉じゃないの?」

 その台詞に、美実は堂々と言い返した。


「日常生活でも当てはまるでしょうが。敷地内に生ゴミを投げ捨てられたり、燃える物が無い所でボヤが発生したり、電線が切れて停電したりとかあった時に、偶然とか事故だとか安易に考えて一人で処理して済ませないで、きちんとお父さんや私達に報告してって事よ」

「あのね……、個人的な事ならともかく、そういう事があったらきちんと皆に知らせるから」

「じゃあ、最近個人的な事で何か問題は?」

「そう言われても……」

 呆れ気味の美子はうんざりしながらも考え始めたが、すぐに黙り込んだ姉に何やら該当する事があるらしいと察した美実は、しつこく問い質した。


「何かあるわよね?」

 その問いかけに、根負けしたといった感じで、美子が気が進まない様子で喋り出した。


「問題と言うか、どう対応すれば良いか困っていると言うか……。先月教室に入った生徒さんがどうもやる気が無いと言うか、身が入らないと言うか。本当に日舞を習う気があるのか、疑問なのよね。正直、持て余しているの」

 それを聞いた美実の目が、不気味にキラリと光る。


「具体的には?」

「日舞は未経験者の上、着物も着た事がないそうなの。だからまず着付けから教えなければいけないけど、教室に備え付けの着物で簡単な着付けを教えても、あれは絶対家で練習して来ていないわね。次に来た時にすっかり忘れてるから、私が毎回着付けしてるのよ。小物の名前も完全に忘れているし」

「当然、自分で揃えようって気も皆無なわけだ」

 相槌を打った美実に対し、美子が溜め息を一つ吐いてから説明を続けた。


「日舞を習う以前に、諸々の所作がなっていなくてね。そもそも正座自体、滅多にした事がないんじゃないかしら? 板の間に二十分座って先生の舞いを見ていただけで、足が痺れてひっくり返っていたもの」

 それを聞いた美実が、思わず噴き出す。


「それ本当? そんなやる気も素養も無い人が、よく習う気になったわね」

「だから、家族に強制されいるとかではないかしら? 本人にやる気があるなら、二十代や三十代になってから始めても物にしている人は何人も知っているけど、あれではね」

「もしくは習う事自ではなく、他に目的があれば、よね」

「え? どういう意味?」

 皮肉っぽく呟いた妹に、美子が訝しげな視線を向ける。しかし美実は笑って首を振った。


「ううん、なんでもない。因みに、その迷惑な新入りさんの名前は?」

「加藤望恵さんよ」

「学生?」

「いいえ。大学を卒業した後は、家事手伝いみたい」

「今、何歳なの?」

「二十六歳って話だったかしら?」

「姉さんの一つ上か。美人?」

「そうね。目鼻立ちははっきりしていると思うわよ? それに毎回、随分気合を入れてメイクしているし」

「ふぅん……、どんな家の人?」

 問われるまま答えていた美子だったが、ここに来てさすがに異常を感じた。


「そこまでは先生も仰らなかったし、第一どんな家の人かなんて、習うのには関係ないでしょう?」

「まあ、確かにね」

 美子が探るような目を向けたが、美実はしつこく確認を入れる。


「因みにその人、いつ教室に顔を出すの?」

「火曜と金曜の二時半からのクラスよ」

「それで終了するのが夕方、って事か」

「そうね。それがどうかしたの?」

 事ここに至って、美子は妹に不審の目を向けた。それで美実は、これ以上の追及は無理だ悟る。


「なんでもないわ。他にも些細な事でも良いから、気になっている事は無い?」

「特にはないわ」

「そう。……でも良く分かったわ、お休みなさい」

「お休みなさい」

 不自然な位の笑顔で就寝の挨拶をした妹を、美子は怪訝な顔で見送った。 


「なんだったのかしら? あの子、普段はあんなに根掘り葉掘り聞くタイプじゃないのに」

 不思議に思ったものの、そう言う日もあるかすぐに結論付けた美子は、中断させられた読書を再開した。





「今晩は、江原さん。美実ですけど、今は平気?」

「ああ、君からの電話だったら、いつでも大歓迎だよ」

 自室に引き上げた美実は、早速自身の携帯で電話をかけた。それに秀明は、すぐに機嫌良さそうに応じる。


「そんな事を言って、実は傍に女が居るんじゃないの?」

「美実ちゃんからの電話だったら、傍に女が居ても居なくても関係無いな」

 そう言ってクスクスと笑った秀明の声に混ざって、「ふざけんじゃないわよ!」という、明らかに女性の声が微かに伝わってきた。それで美実は、思わず冷え冷えとした声で問いかける。


「……女性が約一名退場、って感じなんですが?」

 そこで秀明は、実にしみじみとした口調で言い聞かせてきた。


「慎みがない女っていうのは、本当に始末に負えなくて困るな。美実ちゃんはそんな女になっちゃ駄目だよ?」

「そうですね。あなたのような男に引っかからないように、日々気を付けます。そんな事より、美子姉さんが師範代を務めている日本舞踊の教室に、最近やる気のなさそうな女が入ったらしいんです。加藤望恵って名前に、心当たりはありませんか?」

 秀明の発言を軽くスルーし、美実は単刀直入に用件を切り出した。それに秀明は、満足そうに答える。


「情報提供ありがとう、美実ちゃん。話が早くて助かったよ」

「という事は、やっぱり何か関係があるんですね。昔の女?」

「惜しいな。俺はどうとも思っていないが、向こうはまだある意味現在進行形らしい。しかし、本人がのこのこ出向いて来るとはね。見た感じちょっと頭が軽そうな女だとは思っていたが、底抜けの馬鹿だったとは。まだまだ女を見る目が甘かったらしい」

 何やら一人で反省しているらしい口調に、美実は多少苛つきながら確認を入れた。


「ちゃんとそっちで対処してくれるんでしょうね? 美子姉さんに何かあったら承知しないわよ?」

「そこは任せてくれ。因みにそこの稽古の日時は?」

「問題の女が来るのは、火曜と金曜の二時半からのクラスみたいよ? 以前渡した、美子姉さんが教室に出る日程表を確認して頂戴。他のクラスでは問題は無いみたいね」

「分かった、ありがとう。これからも宜しく頼むよ」

「ちゃんと今度奢ってよ?」

「ああ、酒抜きで串焼きの美味い店だったよね?」

 ここまでスムーズに進んだ会話が、ここで初めて意見の相違をみた。


「『酒抜き』は言っていなかった筈だけど?」

「そこは大前提だから譲れないな」

「どうあっても未成年の間は、飲ませてくれるつもりはないのね?」

「当然。社長にも彼女にも、顔向けできなくなる」

 これ以上ごり押ししても無理だと判断した美実は、あっさり妥協する。


「良いわ、お酒抜きで。それじゃあね」

「ああ、期待していてくれ」

 手早く通話を終わらせた美実は、件の問題児と秀明の関係を色々と推察しながら、「モテる男はモテる男なりに、苦労も多そうね」と、全く気の毒になど思っていない表情で呟いた。

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