フェイズ2:ネズミの事情
根津美子(偽名)―――ネズミは、生鮮食料品が入った買い物袋を片手に、家路を急いでいた。せかせか、こそこそと、なるべく人気の少ない道を選んで進む。
冴えない少女だった。
体つきは、小柄で貧相。
くるっとした目それ自体は愛らしいといえるが、それもボサボサの髪に隠れがち。
衣服は、着古したパーカーとジーンズ、ハイカットスニーカーという無難なもの。
そもそも、常に何かに怯えているかのような表情が、あらゆる美点を打ち消してしまっている。
家に着いた。
欧米からの移住者を意識した、古めかしいデザインの五階建てアパートメント。
その最上階が、ネズミの今のねぐら―――正確には、“マスターグレイヴ”墓守清正の住居だ。
セキュリティコードを入力して開門、エントランスへ。
エレベーターの扉は、非密閉型のアコーディオン様式。アンティークものだ。
ややあって、五階に到着。
降りると、すぐに玄関ドア。
一世帯につき、フロアひとつ丸ごと割り当てられた仕様だ。
そのドアをしばし観察した後、ネズミは精神を集中し始めた。
すると、彼女を中心とした空間に微かな光の線が走り、立方格子――ブラックドッグ/オルクス・シンドロームによる“領域”――が展開されてゆく。
〈ヴァーチャル・ライト〉。
空間情報を走査し、書き換える―――ネズミが持つ〈能力〉。
(ん……とりあえず、何も仕掛けられてはいなさそう)
“巣”に戻る前に、誰か潜んでいないか、入り口に罠は張られていないか、そういったことをおっかなびっくり調べるのは、物心ついて以来の習い性だ。
マスターグレイヴのアジトに自ら仕掛ける者はそうそういない―――わかってはいるが、やらずにはいられない。
(マスターみたいに強い能力なら、こんなビクつかなくてすんだのかもなぁ)
我ながらつまらない能力だと、ネズミは自嘲する。
か細い領域を展開し、空間情報をせせこましくいじるだけ。攻撃にも、防御にも向いてない。ほんのちょっとした調べ物と、支援ができる程度だ。
墓守は「いや、スゲー助かる」と言ってくれるが、仮に〈ヴァーチャル・ライト〉の支援がなかったところで、彼はたとえひとりでも、その強さのままに戦うことができるだろう。
自分にそんな強さはない。いつも、彼の後ろに隠れて怯えるだけだ。
……きっと、これからも。
「ただいま〜……です」
墓守は外出中なので、返事はない。ちょっと寂しい。
それでも、「ただいま」と言える場所を手に入れたことが嬉しかった。
帰宅したら手洗いうがいをし、ついでに浴室のシャワーで足を流す。墓守に倣っての習慣だった。
あまりそういうことに気を使う男には見えなかったので、最初に知った時は、見た目とのギャップで思わずクスッと笑ってしまった。
(そしたらジロッと睨まれて怖かった!)
買い込んだ物を冷蔵庫や棚にしまいこみ、慣れない手つきで茶の準備。
ティーサーバーに紅茶の葉と熱湯を入れ、カップも湯で温めておく。
紅茶を飲む!
昔のネズミの生活からすると、考えられないほど贅沢な行ないだ。
自分がそんなことをして良いのだろうかとオドオドしながら、ティーカップに角砂糖を四個投入。甘いのがいい。
そして、先程からテーブルの上をちょろちょろしている“使い魔”の二十日鼠――ネズミが調査に使うための端末――にも、角砂糖を与える。
かき混ぜずに、徐々に溶けていく角砂糖を目で楽しみながらちびちびと飲む。
甘い欠片が口の中に入り、ほろほろとほどけてゆくのがたまらない。
(美味しい! 美味しすぎます!)
ネズミ、喜びに脚をジタバタ。
二十日鼠も同じくひっくり返ってジタバタ。
寒くもなく、暑くもなく、明るく清潔な部屋で、甘い物を飲める。自分に暴力を振るう人も、怒鳴る人も、軽蔑の視線を向けてくる人もいない。
それだけのことが、ネズミにとっては十分過ぎる幸せだった。
茶を飲み、息をついたところで改めて部屋を見回す。
広い。
このリビングだけでなく、寝室や物置代わりの部屋がいくつか有る。ネズミも、そういった部屋のひとつを「好きにしろ」と与えられた。
元々は、墓守がFHの“施設”を出て、最初に世話になったセルリーダーの物だったのだという。
その後、当の持ち主が「いなくなった」ため、そのまま墓守が引き継ぎ、今に至る。おそらく、内装や食器類(墓守がティーサーバーやティーカップなどを買うとは思えない)は当時のままなのだろう。
「いなくなった」セルリーダーについて墓守は何も語らないが―――
「たぶん、女の人な気がするんですよねー」
茶をすすりつつ、二十日鼠に語りかけた。当然、返事はない。
本来、ネズミは“マスターマインド”天船巴に仕えるFHエージェントだった。だが、
それから、およそ三週間。
新しい任務はなく、マスターマインドからの帰還命令や追求の気配もない。
墓守も干渉しない主義らしく、
「欲しい物はあるか」
「飯食いに行くぞ」
「ちょっとゲームの相手しろ」
などと言う程度。拍子抜けするほど、何事もない。
まさに平穏無事そのものだ。
けれど、いつまでここにいられるのか、わからない。
墓守は(怖い雰囲気に反して)優しい。なけなしの勇気を振り絞って、強引について行くことにしてよかったと思う。
けれどいつか、その機嫌を損ねて追い出されてしまうかもしれない。自分のようなクズだと、それは十分に有り得ることだと、ネズミは諦観めいた納得をしている。かといって、いまさら“マスターマインド”の元に戻ることもできない。
だが、仮に放り出されたとしても、それは昔に戻るだけのこと。
自分は、与えられた場で“生き延びる”だけだ。
この国は、彼女が生まれ育った寒い故郷と違い、暗い穴倉へ逃げ込まずとも冬を凌げる。浮浪児を街頭から掃除しようとする人間もいない。
それだけでも随分と恵まれた環境だ。
生きて成し遂げたい望みがあるわけではない。
側溝を駆け回るドブネズミみたいに、飯を漁り、生きてゆく。
死にたくない。
ただ、それだけ。
もし望むものがあるとするなら、せめて最期は、痛みも恐れもなく眠るように迎えたい……それくらいか。
年頃の少女が見る夢としては惨めに過ぎるが、彼女が辿ってきた人生を考えれば無理からぬことだった。
非生産的な考えに耽っていると、スマートフォンがメールの着信を告げた。
発信者は―――
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