二幕目
朝の眩しい日の光が、格子の隙間から入り込む。梅乃は眩しそうに眉をひそめ、そして目を開けた。
起き上がって、隣へと目を向ける。隣で眠る人物は、安らかな寝息を立てている。
もう少し寝かせておきたいところだが、そうもいかない。
「ねぇ、起きて」
肩を軽く揺するけれど、彼はうぅんと唸るばかりで目を覚まさない。
梅乃はすうっと息を吸い込んだ。
「竹彦兄さま! 起きてくださいまし!」
梅乃は竹彦の布団を引っぺがし、兄を転がした。
竹彦は恨みがましげな目線で梅乃を見上げてくる。
「あとちょっと……」
「駄目です! また河竹様に怒られますよ!?」
その名前に竹彦ははっと目を見開いた。そしてがばっと起き上がる。
「それは駄目だ。梅乃、朝餉の仕度を頼む」
「分かりました。竹彦兄さまは顔を洗ってきてくださいませ」
あくびを噛み殺しながら井戸へと向かう竹彦に梅乃はひとつ息を吐くと、台所へと向かった。
*
竹彦が再び河竹氏の弟子になってから、ひと月が経っていた。師匠の住まう長屋の一室に間借りすることになった竹彦だったが、問題は梅乃である。
『大事な妹を若ぇ男と住まわせてたまるか!』
そう言って聞かなかったのである。
かくして梅乃は
「それでは竹彦兄さま、河竹様によろしくお願いします」
「……やっぱり店まで送っていこうか?」
「駄目です! そういってこの前も遅刻したんでしょう!?」
あわよくば付いてこようとする竹彦をなんとか引き剥がし、梅乃はようやく店へと辿り着いた。
「おはようございます。遅くなってしまってすみません」
「梅乃さん、おはようございます。まだ開店までは時間があるから、大丈夫ですよ」
柳井堂にはまだ総兵衛の姿しかなかった。総兵衛はなにやら帳簿を開いている。
「私、表を掃いてきますね」
そう言って箒の置いてある店の裏手に向かおうとしたときだった。戸の向こうから現れた人影に、梅乃はぶつかりそうになってしまった。
「わっ!」
「っと。……すまん」
徳蔵だった。朝の挨拶を交わすと、愛しい人の姿についうっかり見入ってしまう。
徳蔵も徳蔵で何も言わずに梅乃を見下ろしている訳だから、傍から見れば、そこだけ恋人同士の甘い空気が流れているかのようだ。
「はい梅乃ちゃんも徳蔵くんもおはよー。朝だよー、ぼんやりしてないで起きてー」
割り入ったのは
「やっ、弥吉さん! おはようございます!」
我に返った梅乃は、わたわたと挨拶を返した。その様子が何だか可笑しくて、弥吉はついぷっと吹き出してしまった。
「相変わらず初々しいねぇ。今日はお兄さんは大丈夫だった?」
兄のことを思い出して、梅乃の眉間に皺が寄る。そして深い溜息を吐いた。
「毎度、兄がご迷惑をお掛けしてすみません……。そろそろ妹離れしてもらいたいんですが……」
「あっはは! 竹彦さんだからなぁ。それは難しいかも」
声を上げて笑う弥吉に、梅乃は苦虫を噛み潰したかのような顔だ。
実際、笑い事ではない。梅乃だって、柳井堂に年頃の男女が一緒に暮らすのはどうかと思いはするが、このままでは一緒に働くことさえ禁止されそうな勢いだ。
梅乃は頬を膨らませる。
「自分だって私に心配掛けたくせに、あんまりです」
「それだけ梅乃ちゃんが可愛いってことだよ。心配なのさ」
その一因は弥吉にあるのではないか、と梅乃は内心思う。この色男は、昨日も甘い声で女性に筆を売りつけていた。それが仕事ではあるが、彼女達の親からすれば心配にもなるだろう。
何か、策はないだろうか。例えばもう一人、女性の従業員を増やすとか。
「さ、そろそろ準備を始めようか。何だか冷たい視線も感じるし」
視線? と梅乃は振り返った。
思わずびくりとなる。徳蔵が鋭い視線で弥吉を睨み付けていた。
*
梅乃は朝から疲れた表情で、表を掃いていた。
兄といい弥吉といい、対処に困る面々ばかりだ。兄には早く妹離れしてほしいし、弥吉にもふらふらするのはそろそろやめてほしい。
梅乃は地面を掃く手を止め、右手でおでこに触れた。
先刻、仕事に取り掛かろうと弥吉が逃げて行ったときのことだ。不機嫌そうな徳蔵に何と声を掛けたらいいのか分からず戸惑う梅乃に、徳蔵は小さく溜息を吐いた。そして擦れ違い様、こつんとおでこを小突かれた。
「あまり隙を見せるな。特に弥吉には」
意味が分からず梅乃はぽかんとする。理解した瞬間、ぼんと顔が赤くなった。その頃には、徳蔵はとうに店へと行ってしまっていたが。
「嫉妬、なのかな……?」
元々感情表現の乏しい彼のことだ。惚れた腫れたの話題をするところを想像できない。
わざわざ隙を見せるなと言ってくるのは、もしかしてという気持ちになってしまう。
梅乃はこつんと箒の柄に頭を垂れた。
「嬉しい、かも」
「柳井堂の人かい?」
「はいぃ!?」
突然声を掛けられて、仰け反った。まさか人がいるとは思わなかったのだ。
その人の顔を見て、もう一度驚いた。ひどく整った顔立ちの女性がそこにはいたのだ。
一分の隙もなく結われた髪には繊細な作りの簪が挿されており、着物も一目で上物だと分かる。艶やかな紅を基調としたその着物は、艶のある彼女によく似合っていた。
「もう開いてる? 入っていいかい?」
「あの、えっと……。はいっ、どうぞ!」
店を覗くと総兵衛は帳簿を閉じていた。もう開けて大丈夫だろう。
女性は足取り軽く入っていく。
「総兵衛くーん! 久し振り!」
そのまま総兵衛に抱き付いた。
梅乃が呆気に取られていると、奥から弥吉と徳蔵が顔を覗かせる。
「何? 何か聞き覚えのある声がした気がするんだけど……」
「弥吉くんに徳くーん! 元気にしてたー?」
今度こそ梅乃は開いた口が塞がらなかった。彼女は弥吉と徳蔵にまで抱き付いたのだ。
徳蔵は目を白黒させる。
「菊……! 帰ってたのか!」
「わーお菊さん、久し振りー」
こんなに慌てる徳蔵を初めて見た。女性の扱いに長けている弥吉はどうってことなさそうだが、徳蔵は女性と接する機会が少ない。避けている節がある。あんなに密着されたらたまったもんじゃないだろう。
なんだかもやもやする気がして、梅乃は胸を押さえた。
「梅乃さんは初めて会いますね。この店のもう一人の従業員、お菊さんですよ。ずっと旅に出ていたんです」
総兵衛の言葉にお菊が振り返る。
「そうだ総兵衛くん! この子誰?」
「お菊さんのいない間に入ったうちの従業員です。言霊使いですよ」
その言葉に梅乃はぴくりと反応した。その話題をするということは、もしかするとこの人は――
「お梅ちゃんか! 初めまして、気軽にお菊って呼んでね。あたしも言霊使いだよ」
やはりそうだった。
お菊はにこりと笑う。女の梅乃から見ても、美しい笑顔だ。その辺の男ならイチコロだろう。
「江戸にはしばらくの滞在で?」
「うーん、どうしようかなと思ってたんだけど……。しばらくいることにするよ。部屋空いてる?」
話はとんとん進んでいく。
梅乃は徳蔵へと目を向けた。何だか困ったような目でお菊を見ている。
彼が女性にこんな反応をするのは珍しい。何か思うところがあるのだろうか。
胸の辺りがもやもやする。
梅乃は少しの不安を抱えながら、ことの成り行きを見守っていた。
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