幕間
うつけの兄の言うことは
「そういえば」
突然声を上げた梅乃に、筆を並べていた徳蔵は顔を上げた。
昼下がりの
総兵衛と
「なんだ?」
「あ、私、口に出しちゃってました? すみません」
頭の中で言ったつもりだった。だが徳蔵は続きを促すような目を向けてくる。
「いえね。私、故郷で悪しき言霊には会ったことがないって言いましたけど、一度だけあったんです。この前竹刀を持ち出してきた竹彦兄さまを見て思い出したんですけど」
想いは故郷へと飛ぶ。
*
梅乃の家は村唯一の剣術の道場だ。村の子供たちも、二人の兄も、小さい頃から稽古を受けていた。
実のところ、幼い頃は竹彦は長男・
「竹彦にいさま。またご本よんでる」
梅乃はそんな次男の姿を知らなかった。彼女が物心付いたときには、道場には向かわず父に隠れて本を読んでいるような子供だったのだ。
今日も物置に隠れて本を読んでいた竹彦を、梅乃はあっさり見つけてしまった。
「父上には内緒だよ? 梅乃まで叱られてしまうから」
そうは言うものの、梅乃は優しいこの兄が大好きだった。
父や長男が嫌いな訳ではない。村のどの子供にも負けない松之助に、尊敬の念を抱いてはいる。
ただ、おかしなことを言う梅乃に奇怪なものでも見るかのような目を向けるだけだ。
「きょうはなにをよんでるの?」
「もう、駄目だというのに……。今日はあやかしのお話だよ」
「あやかし?」
竹彦は本を脇に除けると、梅乃を抱えて膝に乗せた。そしてまた本を開き、梅乃に見えるようにする。
「これが河童、これが海坊主。梅乃はよく不思議なものの話をするだろう? だから僕なりに調べてみようと思ったんだ」
梅乃は首を捻って兄の顔を見上げた。竹彦はうん?と見つめ返す。
「竹彦にいさま、わたしのためにしらべてくれたの?」
「うん、そうだよ。梅乃が怖い思いをしないようにね」
その言葉を聞いて、幼い梅乃の目は輝いた。
「ありがとう! 竹彦にいさま、だーいすき!」
兄妹の顔に笑顔が浮かぶ。
しかし優しい時間は長くは続かない。
*
「竹彦」
背後から掛けられた声に、竹彦は足を止めた。振り向くまでもない。声の主は分かる。
「松之助兄さま、どうしました?」
振り返った竹彦に、松之助は難しい顔だ。
言いたいことは分かっている。だからこそ分からない振りをした。
「お前、なぜ道場に来ない。父上はお怒りだったぞ」
「そう言われましても……。僕はどうも剣術は性に合わないんですよ」
へらっと笑いながら言う竹彦。松之助はそんな弟をじとっと睨み付けた。
「何が『性に合わない』だ。お前、俺に遠慮してるだけだろう」
兄と弟の間に緊張が走る。
「きゃー!」
だがその空気を切り裂く悲鳴が聞こえた。
「梅乃!?」
重なる兄弟の声。
二人は一も二もなく駆け出していた。
書庫の中で、梅乃は縮こまっていた。カタカタと震え、それでも書棚から目を反らすこともできずに涙を流していた。
「梅乃! 大丈夫か!?」
「何があった!」
松之助と竹彦は妹を庇うように立つ。だが梅乃の見つめる方には何もいない。何も見えない。
いつもこうだ。梅乃が何かに怯えているが、二人には妹が何に怯えているか分からない。それがもどかしかった。
「松之助にいさま……竹彦にいさま……」
持ったままだった竹刀を構える松之助。梅乃を抱き締め庇う竹彦。
分からないながらも、最愛の妹を危険に晒すわけにはいかなかった。
「あ……きえた……」
梅乃の呟きに、兄たちは安堵の息を吐く。松之助はしゃがみ込み、竹彦は身を離し、梅乃と目線を合わせた。
「無事で良かった」
と、松之助。竹彦も隣でうんうん頷いた。
梅乃は目を泳がせ、何かを言いたそうだ。
「梅乃、どうした?」
竹彦に促され、梅乃は意を決したかのように口を開く。
「松之助にいさま、竹彦にいさま、なかよくしてほしいの」
真っ直ぐな視線に、二人はぽかんとしてしまった。あやかしのことを言われるかと思えば、この言葉。意外にも程がある。
「梅乃……? 俺と竹彦は、別に仲が悪い訳ではないぞ……?」
「そうそう。兄弟なんだから」
二人が焦ってそう言うと、梅乃はようやく安心したかのようにくしゃりと笑った。
お八つを貰うと言って、梅乃は母の元へと駆けていった。静かになった書庫で、二人は向かい合う。
「先程の話ですけどね、勘違いしないでください。僕は刀より書物を持つ方が楽しいと思ったから、道場に行くのをやめたんです」
竹彦から切り出した。
強くなることに迷いなどなかった。村の子供たちを相手して負けることなどなかったし、兄とも互角、いや勝つことの方が多かったかもしれない。父に褒めてもらえることも嬉しかった。
だが、いつからか父の目に戸惑いが生まれていたことは、竹彦は見抜いていた。
考えてみれば当然だ。自分は次男。父からすれば、この道場を継がせたいのは兄の松之助だろう。
そう気付いてしまったから、剣術の道から外れることにした。
これも本心だった。
竹彦は才がありすぎたのだ。稽古に打ち込めば打ち込むだけ、剣術の腕前は上がっていった。そして聡い子だった。
『自分が頑張れば頑張るほど、父上も兄上も浮かない顔になってしまう』
ならば学を身に付けよう。
幸いにも、勉学に励むことに抵抗はなかった。むしろ書物を読むことは楽しい。とりわけ物語の類は竹彦の想像力を膨らませるのに一役買った。
「……本心か?」
「えぇ。兄上なら、それくらい分かるでしょう?」
昔からそうだった。長男には嘘を吐けない。ちょっとしたことでもすぐに見抜いてしまうのだ。
じっと竹彦を見下ろしていた松之助だったが、やがて大きく溜息を吐いた。
「お前には適わんな」
「あ、いや適ってもらわないと困ります。梅乃を守らないと」
突然、妹の名前を出されて松之助は首を傾げた。
竹彦は大真面目な顔で続ける。
「兄上が剣術で、僕が学問から。今日もまた、あやかしを見ていたでしょう? 梅乃は。万全の体制で守ってやらないと」
ぽかんとする松之助に構わず、竹彦はぶつぶつと言い続けている。
「……あれは、本当の話なのか」
「兄上、あんなに可愛い梅乃のことを疑うというのですか」
「いやそういう訳ではないが……。しかし、姿の見えぬもののことを言われても」
困惑を口にする松之助。
何だそんなこと、と竹彦は腰に手を当て鼻息荒く口を開いた。
「兄上は梅乃が可愛くないのですか」
「可愛いに決まってる! だからこそ梅乃がお前ばかりに懐くのが気に食わんのだ」
やっと本音を引き出せた。してやったりと竹彦はにやりと笑う。
我に返った松之助は、苦虫を噛んだかのような顔だ。
「しかしやっぱり俺にはどうもあやかしの類は信じられん」
「それでいいのですよ、松之助兄さまは。梅乃を守りたい気持ちは一緒でしょう?」
確かに。
理屈抜きでもいいのかもしれない。
*
「そんなことがあったのか」
「はい。今思えば、あの言霊は兄さまたちの諍いが元で生まれたのかもしれないと思うんですけど」
大きくなった今、二人の間に家督争いがあったのは想像に難くない。自分の力不足に悩む松之助も、立場を弁え一歩引く竹彦も、きっと思うところがあっただろう。
「でも、それからは本当に仲の良い兄弟だったんですよ。竹彦兄さまはあぁだから、両親は手を焼いていたようですけど……。松之助兄さまもお立場がありましたし」
竹彦が家を出るとき、止めたのは梅乃だけだった。
だがきっと、二人の間には何か話があったのだろう。竹彦からの文が届く度に、松之助はそわそわしていた。
「自慢の兄弟なんだな」
掛けられた言葉に梅乃はきょとんとする。徳蔵がじっとこちらを見つめている。
通りでは沢山の人が行き交っている。これから芝居小屋に向かう人もいるのだろう。うつけと呼ばれた兄も、その芝居の作家となるべく励んでいる。いつかこの江戸の町人を楽しませるものを作る日が待ち遠しい。
答えなど決まっている。
「はい!」
うつけの兄でも愛しいのだ。
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