十六幕目

 町に平和が舞い戻り、朝日が燦々降り注ぐ。通りに人が増えてきて、じきに賑わい出すだろう。


 河原崎座のあやかし騒動もおさまり、通りには賑わいが戻ってきた。


「徳蔵さん! 早く早くー!」


 お妙の茶屋の新作菓子の発売日である。梅乃と徳蔵は約束どおり、食べに来たのだ。

 二人揃って休みをもらうのは気が引けたが、何かを察したような顔で総兵衛は見送ってくれた。恥ずかしさが込み上げるが、せっかくなので楽しまなければ損だ。


「いらっしゃいお梅ちゃん、徳蔵さん。ゆっくりしてってね」


 茶屋は賑わっている。客足が減ったと聞いていたから心配だったが、この様子ならもう大丈夫だろう。


「それにしても、どうして芝居を見に行った時だけあんなに気分が悪くなったんでしょう」


 随分前の事のように感じるが、まだひと月も経っていない。あの時の気分の悪さは異常だった。あれから言霊を見ることは多々あったが、あそこまで具合を悪くすることはない。梅乃はそれがずっと不思議に思っていた。


柳井やないさんが言うには、兄のことだからじゃないかってことだった。お前はずっと兄の身を案じていただろう? 知らず知らずのうちに言霊を使っていたんだろうってことだ」


 なるほど、言われてみればそうだ。梅乃はずっと竹彦のことばかり口にしていた。言霊となってもおかしくない。

 梅乃はそこではたと気が付いた。


「あれ? ちょっと待ってください、それってつまり……。言霊使いとしての新たな力が目覚めたってことですか?」


 何を今さらとでも言いたげな表情を徳蔵は見せる。


「お前、河原崎座でのことを覚えてないのか?」

「何の話です?」


 梅乃は首を傾げた。


 河竹氏に刺されたあの時。目を瞑ってしまっていた梅乃は気付かなかったが、胸元に入れた筆から眩い光が溢れ出していた。

 徳蔵の作る筆に力がない訳ではない。しかし普通の人にとってはただの筆となってしまっている。

 ではなぜ光を放ったのか。

 梅乃がその力を引き出した他ならない。眠っていた力を呼び覚まし、小刀を退けたのだ。でなければ、刺されておいて筆が折れるだけで済むはずがない。竹の筆など容易く貫通してしまうだろう。


「徳蔵さん! どういうことですか?」


 言ってしまってもいいのだろうか。有り余る力を受け入れるには、目の前の少女はあまりにもか弱い。

 いや、そう見えるのは徳蔵だけだろうか。惚れた弱みとでも言うのか、自分が守ってやらねばと思ってしまうのだ。

 剣の腕は徳蔵よりもあるだろう。愛想も良く、気も利く。おおよそ適う要素が見当たらない。

 だからこそ、言霊使いとしては守ってやらねばと思ってしまうのだ。言霊の力を増幅させるのならば、この先危険な目に遭うことも増えてしまうかもしれない。そんな時、徳蔵の力でどうにかできるのだろうか。

 徳蔵の胸に一抹の不安が過ぎった。


「はい、お待ちどうさん」


 お妙が茶と菓子を置いて去っていった。

 新作菓子は二種類あった。梅乃が葛餅を、徳蔵が水羊羹をそれぞれ頼んだ。夏の訪れを感じさせる瑞々しさだ。


「うーんおいしい」


 とろけそうな顔で、梅乃は感嘆の声を上げる。


 もしもの話を今考えてもどうにもならないか、と徳蔵は考え直した。その時はその時だ。必ず守ってみせる。

 守ってもらうだけじゃ嫌だと彼女は言うが、男としての矜持がある。彼女の力が及ばない時は、支えてやろうと思うのだ。

 梅乃は幸せそうに、葛餅を頬張っている。おいしそうに葛餅を口にする梅乃を目にし、徳蔵は口の端を少し上げた。


 笑ったのか、と気付き梅乃は頬を赤くした。笑顔を見られたのは嬉しいが、菓子に喜んでいる顔を笑われるのは何とも言えない。


「と、徳蔵さんのはどうですか?」

「これもうまいぞ」

「やっぱりこの店のお菓子は絶品ですよね」


 照れ臭さを誤魔化そうと、梅乃は葛餅に楊子を差したまま話し続けた。

 徳蔵の目が葛餅に向く。


「そっちはどうだ?」

「へ? あ、おいしいですよ。徳蔵さんも今度頼んでみたら……」


 続きを言うことができなかった。徳蔵の顔が近付いてきて、楊子に差したままだった葛餅にぱくりと食い付いたのだ。


「とっ、ととと徳蔵さん!?」

「確かにうまいな。あ、勝手に食って悪かった。俺のも食うか?」

「そういう問題じゃなくて!」


 徳蔵が水羊羹を差し出してくるが、梅乃はそれどころではない。隣の席からぴゅうと口笛を吹く音が聞こえて、梅乃はますます動揺した。顔は熱を帯びて、頭がうまく回らない。


「梅乃ー!」


 聞き覚えのある声がした。店の入り口の方に目を向けると、竹彦が全速力で走ってくるところだった。

 竹彦は鬼の形相だ。


「貴様いま何をした!」


 全部見られていたようだ。厄介な人に見られた、と梅乃は頭が痛くなる。


「おいこら竹! 話の途中で何してんでい!」


 竹彦の後ろから怒号を上げるのは、河竹氏だ。河原崎座でちょうど仕事をしていたのだろう。

 師匠に首根っこを引っ掴まれて、竹彦は引き摺られていく。


「徳、お梅ちゃん。うまくやれよ!」


 その捨て台詞に竹彦は目を白黒させる。だがどうすることもできないまま、河竹氏と共に去っていった。


「何か……。嵐みたいでしたね……」


 あっという間の出来事だった。

 あの様子ならば、竹彦は無事に弟子復帰したのだろう。誤解を解くのに長期戦になるとも覚悟していた竹彦だったが、憑き物が落ちた河竹氏は元に戻ったらしい。新作が大当たりしていると聞く。


 隣でふっと笑う声が聞こえた。見ると徳蔵が口元を押さえて肩を震わせている。


「あの……徳蔵さん……?」

「おま……実の兄を掴まえて嵐とは……」


 どうやらつぼに入ったらしい。一瞬笑う姿は見たことがあるが、ここまで爆笑するのは珍しい。梅乃も釣られて笑ってしまった。


「……これからどうするんだ?」


 茶菓子を食べ終えて、まったりとお茶を飲んでいると、徳蔵がふいに言った。

 最初の目的は果たされた。無事に兄は見つかり、歌舞伎作者としての修行も順調にいっている。梅乃が江戸に留まる理由はなくなった。


「全部、解決したんですよね」


 父も母も上の兄も心配しているだろう。解決したのなら、故郷に戻って元の生活を送るべきだ。頭ではそうした方がいいと分かっている。


「なら、私は……」


 なのに、どうしてそれを口にできないのだろう。

 故郷に帰る、と柳井堂の面々に言い出せずにいた。

 元々、兄が見つかるまでと総兵衛からも言われていた。梅乃もそのつもりでいた。

 言霊を引き寄せやすい体質だといっても、故郷の優しい人々に囲まれて暮らせばそこまで支障はないかもしれない。悪の蔓延る江戸の方がよっぽど危険だ。


 ならば私は――


「お前はどうしたい」


 俯き掛けた梅乃を、引っ張り上げる声がした。隣の人物へ視線を上げると、徳蔵が優しい目を向けている。


「わ、私は……」


 言ってもいいのだろうか。自分の願いを。本心を。


 美しい文字を認める彼は、彼女の言葉を待っている。


「柳井堂で働いていたいです」


 言葉にすれば魂が宿る。魂が宿れば足を踏み出す力となる。


 徳蔵は梅乃の手を取ると、立ち上がった。


「決まりだな。柳井さんに話しに行こう。あ、竹彦さんにも話した方がいいか?」


 また怒鳴られるだろうか。だけどそれもいい。ここにいたいのだ。説得してみせる。


「その時は、一緒に来てくれますか?」


 徳蔵はその言葉に面食らったようだ。しかし深く頷いた。




 明るい江戸の町並みを、足取り軽くゆく二人。

 若い二人の向こうには、お天道さんが降り注ぐ。

 道ゆく先が明るいたぁ

 こいつぁ未来は縁起がいいわえ!




 終幕

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