十五幕目
竹彦は呆然としていた。
「梅乃、何でここに……」
「竹彦兄さまを探しに来たのよ! 兄さま、どこかおかしなところはない……?」
一見すると、竹彦はどこも変わった様子は見られない。梅乃も言霊の気配は感じられずにいた。
しかし梅乃は言霊の存在を知ってからまだ日が浅い。もしかしたらうまく気配を隠す言霊が憑いているのかもしれない。梅乃は油断せずに兄の動向を見守った。
「このとおり、元気だよ。便りを出せなくなってすまなかった。弟子入りしてから忙しくてね」
「破門になったっていうのは……」
竹彦の表情が強張った。
「そんなことまで知ってたのか……。事情があるんだ」
「兄さま……。盗作なんてしてないわよね……?」
梅乃は震える声で尋ねた。最愛の兄がそんなことをするとは思えない。だけど言霊の存在がある。
「それは……」
「いいやお前は盗んだんだよ」
四人は一斉に客席を振り返った。そこには一冊の本を手にした河竹氏がいた。
「師匠……」
「盗んでおきながらまだ江戸にいたのか。さっさと故郷に帰ればいいものを」
「いいえ私は盗んでなどおりません! あれは師匠が……」
「黙れ! こそこそ嗅ぎ回っとるのを儂が気付いてないとでも思ったか! 盗人猛々しいとはお前のような奴のことを言うんだな」
竹彦は押し黙った。師匠と弟子の睨み合いが続く。
緊迫した場面ではあったが、梅乃は安堵していた。兄の口からはっきりと、盗みはしていないと聞けた。竹彦の瞳は嘘を吐いているものではない。それだけは信頼できた。
「
梅乃は二人にこっそり囁いた。
河竹氏の持つ本からは、黒いもやのようなものが染み出してきている。ここまで来ればはっきりと分かる。間違いない、言霊が憑いているのは河竹氏だ。
「師匠! 目を覚ましてください! 最近の師匠は何だか変ですよ!? 清書を全部破いてしまったり、兄弟子の筆を折ってしまったり……。一体どうしてしまったと言うのです」
どうやら竹彦には言霊が見えていないらしい。故郷でもそうだった。異形のものを見て泣く梅乃に、兄は困ったように笑うだけだった。
ただ、撫でてくれる手の平は優しかった。
「兄さま、河竹様は……」
竹彦を止めようとした梅乃の言葉は、奇怪な笑い声に遮られた。
一同の視線が客席に集中する。依然、客席に立っていた河竹氏は、俯いて肩を震わせていた。
「はっはははは! まっこと目出てぇ野郎だ! あぁら目出度や、目出度やなってか?」
河竹氏は自作三人吉三の科白を引用する。それはお嬢吉三の言葉だった。
あぁら目出度や、目出度やな
かかる目出度き折からに、如何なる悪魔が来よぉとも
この厄払いが引っ掴み、西の海へさらり、厄払いまひょ
皮肉にも厄払いの場面であった。
しかし唱えても言霊が祓われることはない。それどころか、もやはどんどん濃くなっていく。
河竹氏は一歩一歩、舞台に近付いてきた。
「
藪から棒な問い掛けに、竹彦は一瞬、油断した。師匠はもう舞台に足を掛けていた。
その懐がぎらりと光る。
「兄さま!」
三人吉三の七幕目。本郷火の見櫓の場。吉三たちが刺し違える場面である。
河竹氏の手には鈍く光る短刀が握られていた。
考えるより先に体が動いてしまったのだろう。竹彦の前に梅乃が立ち塞がる。徳蔵も弥吉も間に合わない。梅乃の胸に刃が迫っていた。
「梅乃!」
徳蔵の声が梅乃の耳に届いた。しかしその手は届かない。梅乃はぎゅっと目を瞑った。短刀が彼女の胸を貫く。
ぱきんと甲高い音が響いた。
思ったよりも痛みは襲ってこず、梅乃はそっと目を開いた。その視線の先では、河竹氏が竹彦に押さえ付けられている。
何が起こったのだろうか。視線を落とすと、胸元に短刀が突き刺さっている。
「ひえ……!」
梅乃は青褪めるが、ふと気が付いた。懐に入れておいたものの存在を思い出したのだ。
「梅乃! 大丈夫か!?」
徳蔵が駆け寄ってくる。梅乃は呆けた顔で徳蔵を見上げた。
「あ……はい。多分これのおかげですね」
梅乃は短刀を引っこ抜くと、懐に手を入れた。
出てきたのは、真ん中で折れかけた筆である。
「これ……。俺がやったやつか?」
「はい。お守りがわりに持ち歩いてたんですけど、守ってくれました」
何気なしに徳蔵がくれた筆。使うのが勿体なくて、持ち歩いていた。それが梅乃の命を守ってくれた。
徳蔵は梅乃の肩を掴んで、うな垂れてしまった。深い深いため息が聞こえて、梅乃の顔に焦りが浮かぶ。
「あっ、でもごめんなさい! せっかくの筆が壊れてしまって……」
「そんなのはどうでもいい」
徳蔵ががばっと顔を上げた。まっすぐな視線が梅乃に突き刺さる。
「筆ぐらい、いくらでも作ってやる。だけどな、命は一つなんだ。簡単に投げ出そうしないでくれ。……寿命が縮んだ」
梅乃は徳蔵から目を離せずにいた。
「ごめん、なさい……」
徳蔵の熱っぽい視線に、梅乃の胸がとくとくと脈打つ。
「お二人さーん。いい雰囲気のとこ申し訳ないんだけど、紙用意してくんないかなー? 僕だけじゃ抑えとくことしかできないよー」
二人がはっと弥吉の方を見ると、竹彦に押さえ込まれたままの河竹氏が、苦しそうに呻いていた。弥吉の声で動きを制限しているが、言霊封じには徳蔵の文字もなければならない。徳蔵は慌てて道具箱を開けた。
『惑い迷いし言の霊 在るべき場所へと戻りたまえ』
弥吉がそう唱えると、河竹氏に憑いた言霊は徳蔵の持つ紙へと吸い込まれていった。
*
「どういうことだか説明してもらおうか」
言霊を封印すると、河竹氏は気を失ってしまった。氏を長屋まで運び、竹彦は勝手知ったる様子で寝かせると梅乃たちに向き直った。
「どう、と言うと……」
梅乃は隣の弥吉と徳蔵にちらりと視線をやった。言霊のことを話してしまってもいいのだろうか。
「お初にお目に掛かります。僕たちは
言葉に詰まっていると、弥吉が助け舟を出してくれた。梅乃は彼に説明を任せることにする。
「それは妹が大変お世話になりました。梅乃、心配掛けて悪かったな。便りがなくなって探しに来てくれたのだろう?」
竹彦の視線を受けて、梅乃はこくりと頷いた。申し訳なさそうな表情を浮かべていた竹彦だったが、きっと眦を吊り上げた。
「しかし一人で江戸に出てきて、何かあったらどうするつもりだったんだ。お前に何かあったら父上にも母上にも申し訳が付かぬ……。今日だって」
竹彦はそこで言葉を切った。弥吉と徳蔵を順番に見やる。
どうやら隠し通すことはできないようだ。梅乃がちらりと二人の方に視線をやると、二人は深く頷いた。
「兄さま、私が幼い頃から人ならざるものを見ていたのはお覚えですか?」
「あぁ」
「今回の河竹さまの騒ぎは、その異形ものの仕業だったのです」
竹彦の目が驚愕に見開かれた。簡単には信じられない話だろう。
梅乃は続けた。
「人の想いが強すぎると、言霊となって具現化します。河竹さまはそのせいで兄さまに破門を言い渡したのでしょう。徳蔵さんと弥吉さんは、その言霊を封じる言霊使いなのです」
二人に止められなかったので、梅乃は全部話してしまった。
信じてもらえるだろうか。竹彦は見えぬ人だ。幼い頃は誰もがお化けを怖がるものだとあやしてくれたが、もうそれはとうの昔の話だ。大きくなってまでそんなことを言って、と呆れられてしまうだろうか。
梅乃はごくりと喉を鳴らしながら竹彦の反応を待った。
竹彦は口を開く。
「……師匠を救ってくれてありがとう」
その言葉に梅乃はきょとんとした。まさか感謝の言葉が来るとは思わなかったのだ。
竹彦は続けた。
「師匠は新作を書けずに悩んでいた。私のような若い弟子の存在が負担になっていたんだな。ところ構わず当たり散らしていたよ。全部言霊のせいだったんだな」
きょとんとしたままだった梅乃は、その言葉でようやく安堵の表情を浮かべることができた。
ずっと嘘吐きだと言われ続けてきた。自分には見えているものが、他人には見えていない。それがどんなに心細いものであるか。
江戸に出てきて、徳蔵と、弥吉と、総兵衛と出会った。見える者の存在にどれだけ心強く思ったか。
そして今、見えぬ者が自分を信じてくれた。
梅乃は胸がいっぱいになって、涙が零れ落ちそうになった。泣くまいと天井を見上げる。
竹彦が梅乃の元へ近寄ってくる。
「守ってくれてありがとう、梅乃」
兄に抱き締められて、とうとう我慢ができなくなった。「うぅ……」と泣き出してしまった梅乃の背を、竹彦は優しく撫でた。
「お二人も、どうもありがとうございました」
梅乃が泣き止んで、竹彦は弥吉と徳蔵に向き直った。深々と頭を下げられて、弥吉が口を開く。
「いやいや、これも僕らの勤めですから。それより、これからどうするんです?」
弥吉は未だ眠ったままの河竹氏に視線を落とした。
竹彦は破門されたままである。河竹氏に憑いていた言霊は封じたが、それは弟子の存在によって生まれたものだ。若い才能が傍にある限り、またいつ憑かれるとも知れない。
竹彦も師匠を見下ろした。河竹氏は文字どおり、憑き物が落ちたように安らかに眠っている。
「……まずは、破門を解いてもらいます。言霊が憑いていたとはいえ、難しいかもしれませんけど」
そう言って竹彦は笑った。
「恐らくは大丈夫でしょう。河竹様はもともと温和なお人柄です。まぁ、口調はそうとも言い切れませんが」
弥吉の言葉に皆がきょとんとする。やがて場に笑いが起きた。
「して柳井堂さん」
なんだろうと梅乃は兄の方を向いて、ぎくりと動きを止めた。
竹彦は笑みを浮かべているが、この笑顔はまずい。竹彦の饅頭を勝手に食べてしまったり、本を破いてしまったりしたのがばれた時の笑顔をしている。
良からぬことを言い出すときの顔だ。
「た、竹彦兄さま……」
「お二人は梅乃と付き合っているということはないですよね?」
間に合わなかった。兄のとんでもない質問に、梅乃は頭を抱えた。
「兄さま……。何ということを聞くのです……」
「共に働いて? 共に寝起きして? よもやまさかそんなことがあるはずがないですよね? 万が一、いや億が一、そんなことがあったらただじゃ置かないのですがどうでしょう? これでも道場の倅。とうの昔に稽古はやめておりますが、それなりに腕は立ちます。で、どうでしょう?」
だめだこれは。梅乃は頭が痛くなってきた。
弥吉は肩を震わせて笑いを堪えているし、徳蔵に至っては固まってしまっている。
「くくっ……。僕は梅乃ちゃんに妹以上の感情は抱いていませんよ。まぁ徳蔵くんはどうか分からないけど」
「弥吉! てめぇ!」
あっさり裏切られ、徳蔵は弥吉に食い掛かる。それでも弥吉はおかしそうに笑い続けていた。
「いいでしょう。いい覚悟だ。僕も鬼ではありません。得物……。そうだな、貴方ならその言霊使いとやらの道具でいいでしょう。丸腰相手という訳にはいきませんからね。木刀を持ってまいりますのでしばしお待ちを」
「兄さま誤解だから! 徳蔵さん逃げてー!」
立ち上がりかけた竹彦を、梅乃は必死で止める。
とにかくまた今度落ち着いてから話をしようと言い置いて、梅乃たちは逃げるように河竹氏の長屋を後にした。
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