十四幕目

 そんな約束をしたものの、あまり浮かれてもいられない。

 今宵も梅乃は、徳蔵たちと言霊退治に出かけていた。


「きゃー!」


 相変わらずの囮役だ。言霊に襲われる前に弥吉やきちたちが助けてくれると分かってはいるが、怖いものは怖い。黒く大きな虎が飛び掛ってくるのだ。

 あまり大声を出すと近所の人に怪しまれてしまうので、梅乃は小声で叫ぶことがうまくなってしまった。何だかやるせない気持ちでいっぱいになる。


『惑い迷いし言の霊 在るべき場所へと戻りたまえ』


 弥吉の凛とした声が響き、徳蔵の美しい文字が綴られた紙へと言霊は吸い込まれていく。

 一人息を切らした梅乃が地面に手を付いた。


「毎度毎度、どうにかなりませんかね……」


 梅乃を囮に走らせて、二人が背後から隙を突く。その捕え方が定番化していた。


「うーんどうにかしようにも、何かする前に言霊が梅乃ちゃんを追い掛けだしちゃうんだもん。仕方ないよねぇ」


 内容に反して、弥吉のその言葉にはおおよそ申し訳なさは浮かんでいない。徳蔵が信じるなと言ったのは、こういうところがあるからだろうか。できることならもっと早くに知っておきたかった。

 言霊退治を何よりも優先するのは悪いことではない。ただ、巻き込まれる方はたまったものではない。


「ん?」


 疲れ切った梅乃の耳に、徳蔵の怪訝な声が聞こえてきた。


「どうしたの、徳蔵くん」

「いや、ここ……」


 弥吉は徳蔵に近づき、彼が指差した紙を覗き込む。


「これは……」


 表情を険しくする弥吉に、何事かと梅乃も近付き紙を覗き込んだ。そこには虎の絵が描かれている。


「これがどうかしたんですか?」

「ここ見て。この文字」


 弥吉が指差した先には、何やら名前のようなものが刻まれていた。


「これは?」

「この言霊の元になった作品を書いた人の、署名のようなものだよ」

「知ってる人なんですか?」


 そこで弥吉は口を噤んだ。徳蔵と顔を見合わせて、物言いたげな表情をした。


「これは……河竹様の署名だ」


 生ぬるい風が、一つ吹いた。


   *


 店番をしながら、梅乃はぼんやりと考え事をしていた。


 あの署名のことだ。兄のことでも手一杯なのに、今度は河竹氏ときている。

 彼の住まいで会ったときの河竹氏は、取り立てて変わった様子はなかった。取り乱している様子も、落ち込んでいる様子も見られない。

 だからこそ、河竹氏に言霊が憑いていると俄かには信じ難かった。


「梅乃ちゃん、休憩にいってきていいよ」


 ぼんやりと頬杖を付いていた梅乃に、弥吉が声を掛けた。


「弥吉さん……。柳さんは動いてないですか?」


 弥吉は困ったような笑みで頷く。

 戸惑いを覚えるのにはもう一つ理由がある。柳さんが動かないのだ。言霊の気配があれば、柳さんが教えてくれるはずである。その彼が今回に限っては動かないのである。

 勿論、口利かない猫であるから全ての言霊を教えてくれている訳ではないかもしれないが、梅乃たちでさえ気付いている言霊だ。教えてくれないことが不思議でならなかった。


「河竹様も取り立てて変わったところはないんですよね?」

「うん。まぁあの絵に河竹様の名前があったからって、河竹様に言霊が憑いてるって確定した訳じゃないんだけどね」

「そうなんですか?」

「河竹様の作品を読んだ誰かが、思いを募らせて言霊を生み出した可能性もある」


 その言葉に梅乃は目を伏せた。

 知らない人なら言霊が憑いてもいいという訳ではないが、見知った相手ならば動向を伺っておくことができる。

 兄のこともあるのだ。これ以上、探す範囲が広がるのは困りものだった。


「とはいえ、あの虎は一度は封じられた。しばらくは河竹様に言霊が憑くことはないだろうよ」


 弥吉が言うのならばそうなのだろう。彼は梅乃よりずっと言霊使いとしての経歴が長い。

 それでも梅乃は、胸の不安を収めることができずにいた。




「あらまぁお梅ちゃん、恋わずらい?」


 その日の午後、店にはお妙が来ていた。ちょうど店が空いた時間帯で、彼女以外に客の姿はない。総兵衛も弥吉も休憩に行っていた。徳蔵は相変わらず作業場である。

 乙女のため息を、恋の話が好きなお妙が見逃すはずもない。


「こっ……!? だから違うってば……」

「隠さなくてもいいんだよう。さっきからずっとため息ばかりついてる」


 お妙がにんまり笑って言ってくる。梅乃は言葉に詰まった。


 まぁ言霊のことばかり考えていた訳ではない。もうすぐ徳蔵と約束した日が来る。そのことを考えていたのも事実だ。

 もう誤魔化すこともできなくなっていた。梅乃は徳蔵に想いを寄せている。徳蔵が店に出てこないか待っている自分がいる。食事のときにはつい視線が吸い寄せられてしまう。これを恋わずらいと言わずに何と言うのか。


 梅乃は背後にちらりと視線をやった。みんなはまだ休憩しているようで、出てくる気配はない。店にもお妙一人だし、梅乃はちゃんと向き合うことにした。


「確かに……恋わずらいかもしれません」

「どっちにだい?」

「……徳蔵さん」


 ようやく認めた梅乃に、お妙はどこか嬉しそうだ。


「やっぱりそっちかい。いいんじゃないか? 徳蔵さんも人気だけど、近寄り難いって遠巻きにされてるしね。お梅ちゃんといると、徳蔵さんもちょっと雰囲気柔らかいし。いい雰囲気だよ」

「そう、でしょうか……?」

「そうともそうとも」


 お妙は満面の笑みだ。梅乃は嬉しい反面、素直に喜べずにいた。


「お梅ちゃん?」

「邪険にされていないっていうのは嬉しいんですけど、私、目的を持って江戸に来たんです。その目的が果たされるまでは、あんまり恋だの何だの言ってられなくて……」


 未だ兄は見つかっていない。河竹氏の問題も解決していない。

 そんな状況で、自分の想いを優先などしていられなかった。

 お妙が小さくため息を吐く。


「目的のために頑張るお梅ちゃんは偉いけど、あんまり自分の気持ちを抑えなさんなよ?」


 そう言ってお妙は梅乃の頭をぽんぽん撫でてくる。小さい頃、兄から同じように頭を撫でてもらったことを思い出して、梅乃は自然と顔が綻んでしまった。


「そうそう、今週から出すって言ってた新作のお菓子だけどね」


 客が数人入ってきて、お妙はそろそろお暇しようと腰を上げた。


「延期することになっちまったんだよ」

「えっ、どうしてですか!?」


 お妙は忌々しげな顔をする。


「うちの近くの河原崎座、あるだろう? そこで最近、物の怪が出るって言われてんだよ。そのせいであの辺の客足が減っちゃってねぇ。落ち着くまで縮小営業でいこうかって話なんだよ」


 梅乃は顔を強張らせた。約束の件もあるが、その話に心当たりがあったのだ。


「楽しみにしておいてって言ったのにすまないねぇ。いつになるか決まったら、また教えるね」


 そう言い置いてお妙は帰っていった。

 突破口が見えた。

 梅乃は拳を握ると、裏へと向かった。




「で、結局こうなるんですね……」


 日も落ちた戌の刻。一行は河原崎座の前にいた。


 お妙の話を総兵衛に伝えると、彼は難しい表情で黙り込んでしまった。

 柳さんも動いていない。まだ言霊の仕業と決まった訳ではないが、河原崎座を見張ることになったのだ。


 そして今宵も梅乃は囮役だ。言霊かどうか分からないから、徳蔵の文字が認められた紙を持って、完全囮武装である。

 河原崎座はしんと静まり返っていた。


「弥吉さん、本当にこれで言霊が釣られるんでしょうか?」

「うーんどうだろうね。言霊って決まった訳じゃないから何とも言えないけど、言霊だったら間違いなく釣られるよ。なにせ徳蔵くんの文字に梅乃ちゃんだもん。ごちそうだよね」


 弥吉は誉め言葉のつもりだろうが、梅乃は全然嬉しくない。本当に弥吉は言霊馬鹿だ。

 肩を落とした梅乃の頭に、ふわりと何かが乗った。


「何かあっても絶対に守る。安心しろ」


 見上げると、徳蔵が梅乃の頭をぽんぽん撫でていた。以前、兄やお妙にされたときとは違う。触れられたところが熱を持ったように感じる。

 梅乃は頬が熱くなって、俯いてしまった。


「徳蔵くーん、調子が狂うようなことしないでよー」

「何がだ?」


 徳蔵は本気で意味が分かっていないようだ。首を傾げている。

 徳蔵にとっては取り立てて特別な行動ではないらしい。梅乃は再び肩を落としつつ、小さくため息を吐いた。


 そのときだった。河原崎座の中から、何やら物が倒れるような大きな音がした。


「行こう!」


 弥吉の言葉を合図に、三人は中への入り口を探した。




 裏に回ると、裏口が不自然に開いていた。三人はそっと忍び込む。

 舞台には灯りが灯されていた。飾りが無残に倒されている。そこにいたのは――


「竹彦兄さま……」


 梅乃の兄、本人だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る