九幕目
真っ直ぐ
河竹氏の言ったことは事実なのだろうか。何か誤解が生じているのではないだろうか。
そんな考えがぐるぐると頭の中に浮かぶが、答えなど出てくるはずもない。あの兄が盗みなどするとは到底思えないのだ。
「お兄さんは、人のものを取ろうとするような人なの?」
すっかり落ち込んでしまった梅乃を放っておくでもなく、黙って隣にいてくれた。自分のことで精一杯になっていた梅乃は申し訳ない気持ちになる。
以前、徳蔵に弥吉は信用するなと言われたが、やっぱりいい人なのではないだろうか。
「違います。確かに兄は突拍子もないことを仕出かす人だったけど、誰かを傷付けるような真似はしませんでした」
だからこそ、河竹氏の話に半信半疑になるのだ。
兄は江戸に出てきて変わってしまったのだろうか。
「梅乃ちゃんのお兄さんだもんね。僕もそう思うよ」
梅乃は思わず顔を上げた。すると弥吉の視線と梅乃の視線がぶつかった。弥吉は頬杖をついて、優しい表情で梅乃を見ている。
――やっぱりいい人だ。
梅乃は何だか泣きそうになってしまった。
兄が疑われたことに、多少なりとも傷付いていたのだ。信じてくれる人がいて、胸に熱いものが込み上げてくる。
「言霊ってさ、本好きな人のところに憑きやすいんだ」
唐突に弥吉が話し出す。泣きそうになっているところを見られたくなくて、梅乃は顔を伏せたまま話の続きを待った。
「本が好きすぎて、想いが強すぎて具現化しちゃうんだって。この前の女の子も、義経に焦がれてってはなしだったでしょ?」
梅乃が初めて言霊退治に行ったときの話だ。あの家の娘は、義経千本桜を見て想いを募らせていた。
「つまり……?」
「お兄さんに言霊が憑いている可能性は多分にある。妹である君が信じなくてどうするんだい?」
梅乃ははっとした。
そうだ、自分は竹彦のたった一人の妹なのだ。自分が信じなくて誰が信じるというのだ。
「そう、ですよね。家族なんですもの。……兄の無実を証明しなきゃ」
そうと決まればすることは一つ。
「竹彦兄さまを見つけなくちゃ」
梅乃の瞳に光が宿る。
弥吉はそんな梅乃を、意味深な表情で見つめていた。
*
兄は歌舞伎作家になりたいと言って、家を出た。作家業界については詳しくないが、一人の師匠に破門にされたのなら別の師匠を探すのではないか。
梅乃はそう考えて、芝居小屋を当たってみることにした。河原崎座のある界隈へと足を向ける。
先日訪れた茶屋が目に入って、ふと思い付いた。あの女中がもしかしたらもう一度兄に会っているかもしれない。
梅乃はそう思って茶屋に足を踏み入れた。
「困りますお客さん!」
入った瞬間、梅乃の耳に飛び込んできたのはそんな言葉だった。
一瞬、自分に言われたのかと思ったが、声の方を見るとそうではなかった。先日の女中が、客の男から何かを押し付けられている。
「とにかく一度読んでおくれよ。読むだけでいいからさ」
「この間お断りしたはずです……。何だか気味の悪いものも付いてましたし……」
「はぁ? 人の恋文を気味悪いたぁどういうことだよ!」
男はなおも女中に詰め寄る。
「あんた! あんまりうちの子にちょっかい出すようなら出入り禁止にするよ!」
そこに割り入ったのは、店の女将だった。恰幅の良い女将だ。男は怯む。
「とっ、とにかく読まずに捨てるなんてことはしないでおくれよ! じゃあな!」
そう言って男は逃げるように店を出る。出る瞬間、肩が梅乃にぶつかった。よほど慌てていたのか、男は謝ることもなく走っていった。
「お客さん、大丈夫かい? 巻き込んじまって悪かったねぇ」
女将に促されながら梅乃は席に座った。
「いえ大丈夫です。あの、今の方は……?」
女将は盛大にため息を吐いた。
「お妙ちゃん……うちの女中を好いてるらしいんだが、ちょいと妙なんだよ」
どういうことか、梅乃が聞こうとした時、お妙がお茶を持ってきた。
梅乃の膝元に置き、盆を胸に抱え込む。
「文をもらうことは時折あったんです。そういうお客さん多いですし。でもあのお客さん、だんだん変な手紙をくれるようになったんです」
お妙は怯えるようにぶるりと身を振るわせた。
「文から黒いもやのようなものが出てくるんです」
梅乃はぴくりと反応した。そのもやに心当たりがある。
「一瞬、火が点いてるのかと思ったんですけど、すぐにもやも消えてしまうし……。あの方に聞いてみたんですけど、断る口実かと言われるばかりで……」
間違いない、これは言霊の仕業だ。
先程ぶつかった男からはそんな気配は感じなかったが、時間が経っていたせいだろうか。
ともかく、梅乃だけの判断では心許ない。
「あの……その手紙、見せていただけませんか?」
梅乃がそう言うと、お妙は困惑の表情を浮かべた。無理もない。ただの文ならいざ知らず、これは恋文だ。おいそれと人に見せられるものではないだろう。
「無理を言っているのは承知です。でも、もしかしたらその原因を探れるかもしれません」
故郷にいた頃の梅乃なら、こんなことは到底言えなかっただろう。あやかしの類の話をすれば、奇怪な目で見られる。あやかしに怯えながらも、その捌け口がなかったのだ。
でも今は違う。
「まぁ……見せるだけなら」
そう言ってお妙は文を差し出した。
一見、何の変哲もないただの文だ。だが梅乃の目には、その文字にうっすらともやが掛かっているように見えていた。間違いない、これは言霊だ。
しかし先程の男からは、言霊の気配はしなかった。
「あの、何か分かりましたか?」
「こういうことに詳しい知人がいます。その方に話してみますね」
お妙はまだ不安そうにしている。
この文を持ち帰って皆に見てもらいたいが、曲がりなりにも恋文だ。そういう訳にはいかないだろう。
梅乃は文をお妙に返し、茶屋を後にした。
「なるほど」
柳井堂に戻った梅乃は、事の始終を総兵衛に話して聞かせた。総兵衛は難しい顔で考え込んでいる。
「あの……すみませんでした」
うな垂れる梅乃に総兵衛は首を傾げた。
「なぜ謝るんです?」
「勝手をしたから……。言霊使いのことは、あんまり大々的にしない方がいいんでしょう?」
役に立てるかもと思わず動いてしまったが、総兵衛の考えもあるだろう。言霊使いの事情に明るくない自分が勝手に行動すれば、迷惑が掛かるかもしれないということは考えるべきだった。
「信じる信じないは人それぞれですからね。少々明るみに出ても問題はないでしょう。まぁ江戸中に知れ渡るなんてことがあれば、混乱が起きるかもしれませんが」
やはり軽率な行動だった。梅乃はますますしょぼくれる。
「それよりも、梅乃さんが言霊のことを真摯に考えてくれたことの方が嬉しいですよ」
「え?」
「茶屋の娘さんに危害が出ないようにと思ったのでしょう? あそこの茶屋は私もお世話になっています。娘さんが安心して過ごせるように、探っていきましょうね」
そう言って総兵衛は優しい笑みを浮かべた。落ち込んでいた心が浮かんでくる。
総兵衛は言霊使いの力はないと言っていたが、梅乃にとっては充分すぎる程の力だ。さっきまでの落ち込みようが嘘のように、頑張ろうと思えた。
「はい!」
梅乃が勢いよく返事をすると、総兵衛は笑みを深めた。
「それで、その言霊はどんな感じだったんです?」
店仕舞いを終え、皆で囲炉裏を囲んでいる時に総兵衛は切り出した。柳さんも梅乃の傍でおこぼれをもらおうと待ち構えている。今日ここに姿を現したのは、きっと柳さんも言霊の気配を感じ取ったからだろう。
「差出人は呉服屋の手代だそうです。たまにあの茶屋に来ていたお客さんだそうで、普段の仕事振りは至って真面目なものだといいます」
店の女将は客の事情に詳しいようで、男についてそう話していた。
「私もあの人からは言霊の気配は感じませんでした。でもあの文には確かに言霊が憑いている……。どういうことなんでしょうか?」
「紙か墨、それか筆とか硯に憑いているのかもしれませんね。どれにしても厄介だな……」
総兵衛が顎に手を当てて言った。梅乃は小首を傾げる。
「どういうことですか?」
「恋文に毎回憑いているなら、筆か硯の可能性が高いですね。言霊は声か文字になって始めて具現化できるようになります。その書画用具が別の人の手に渡ってしまったら、今度はその人が言霊憑きになってしまうんです。ですから書画用具自体を回収しなければなりませんので、うまくやらないといけないんですよ。渡す渡さないで揉め事になったら大変ですし」
思わぬ事実に梅乃は眉根を寄せた。では自分が囮になることができないではないか。対人となると、言霊を引き寄せる体質は意味がない。
梅乃と総兵衛はうーんと唸る。
「それじゃあ僕があの子に付いててあげようか?」
ふいに弥吉が提案した。
「恋文を渡したなら、返事を聞きにまた来るだろうし。見張ってればうまいこと捕らえられるかもしれない」
梅乃はじろりと弥吉を睨め付ける。
「とか言って、お妙さんに手を出すつもりじゃないですか?」
「梅乃ちゃん、だんだん僕に遠慮しなくなってきたね? 大丈夫、ちゃんと言霊を見張るよ」
信用がない訳ではないが、弥吉に女の影が途切れることはない。修羅場になっている様子はないからうまくやってはいるようだが、そうなると梅乃がお妙に弥吉を紹介することになる。もし付き合うなんてことになったとして、別れたりしたら気を遣うではないか。
「手を出したりしないから」
その笑顔が胡散臭い。
しかし他に適役もいないので、梅乃はその提案を呑むしかなかった。
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