十幕目
「という訳で、僕が遣わされてきました」
昼前の茶屋。にこやかに言う
「つまり貴方が『詳しい』人ってことかしら?」
「そう思ってもらえると話は早いです。
お妙はぽんと手を打ち鳴らした。
「貴方が噂の!」
「なになに? いい男って?」
弥吉は冗談交じりに聞いてくるが、お妙は返事に窮した。
確かにいい男だと噂されてはいる。茶屋に来る女性客も、柳井堂にはいい男が揃っていると話しているくらいだ。
だがお妙は胡乱な目を向ける。
「自分で自分をいい男なんて言っちゃうと、価値が下がっちゃいますよ」
お妙はなぜだか単純にいい男だとは思えなかった。誰にでもいい顔をするということは、誰のことも大事には思っていない証拠だ。
切り離すように言われて、弥吉は目をぱちくりとさせた。そしてははっと楽しそうに笑う。
「さすが水茶屋の看板娘。手厳しいなぁ」
堪えてなさそうな弥吉の様子に、お妙は眉根を寄せる。
「大丈夫なんですか? 頼んだ手前、こんなことを言うのもなんですけど、お店に迷惑は掛けたくないんです」
お妙は十四の時から四年間、この茶屋に世話になっている。看板娘ということで男性客から言い寄られることも多かったが、恩を感じている女将に迷惑を掛けるようなことだけはしたくなかった。
「僕もこの店は好きですからね。迷惑は掛けないようにしますよ」
お妙はそう言う顔を見上げる。うっすら笑ってはいるが、その目は真摯だ。
すっと頭を下げる。
「よろしくお願いいたします」
これまで沢山の客を見てきた。この目は信用できる。
そう思っての言葉だった。
その姿に弥吉は面食らう。
「おや、信用してもらったということでいいんですかい?」
「私もこの仕事長いですからね。信用できる人、できない人くらいの区別は付きますよ」
にっと笑う姿は、ただの人気者なだけの看板娘ではない。
酸いも甘いも知ったかのようなお妙に、弥吉は実に面白い娘だと笑みを深めたのだった。
弥吉は呉服屋の前に来ていた。お妙に恋文を出した手代の働く店である。
ばれないように、中の様子を伺う。着物を畳んでいる男がいる。外見の特徴を聞いてきたが、あの男だろう。
そうしていると、壮齢の男が出てきた。
「じゃあ届けに行ってくるから後は頼んだぞ」
「へい、お気を付けて行ってくださいやし」
どうやら店の主人が出かけたようだ。弥吉はそっと店に近付く。
「いらっしゃいまし。何をお探しで?」
店に入ってきた弥吉に、男はにこやかに声を掛けた。
店には男しかいないようだ。丁度いい。弥吉は笑みを携えたまま、男に近付く。
その様子を訝しく思ったのだろう、男は怪訝な表情に変わった。
「お客さん……?」
「お妙さんに言い寄ってるのはあんただね?」
ようやく事情が分かったらしい。男は眦を釣り上げた。
「だったらなんだい。おめぇさん、何者だよ」
男は弥吉をお妙に言われて来た人だと思ったようだ。恋人か、もしくは言い寄っている人か。どちらにしても、勘違いしているようなら話は早い。
弥吉はふっと嘲笑を零した。
『その文を書いた筆、今どこにある?』
問われた瞬間、男はまじないにでも掛かったように動きを止める。その目はどこかぼんやりとしていて、焦点が合っていない。
「これです……」
男は懐から矢立を出した。弥吉はおや、と片眉を上げた。
「矢立で恋文とは珍妙なことをするねぇ。もっと心を込めようとは思わないのかい?」
その言葉にも男は返事をしない。ぼんやりとしたその目は弥吉を向いてはいるが、映してはいないかのようだ。
『まぁいい、渡してもらおうか』
男は言われるままに、矢立を弥吉に渡した。弥吉はそれを懐紙に包むと、懐に仕舞い込んだ。
そして思い出したかのようにもう一度懐に手を突っ込む。
『貰いっぱなしじゃ悪いからね。お前さんは元々これを持っていた。いいね?』
弥吉は男の先程とは別の矢立を握らせる。弥吉が持っていたものだ。男はこくりと頷いた。
『十数えたら元通りだ。お前さんは主人を見送ってから、誰も客を迎えていない』
そう言うと弥吉は男を残し、店を出た。
ぼんやり立ち竦んでいる男の元に、奥から店の娘が出てきた。
「あれ? 誰かお客さんが来てなかったかい?」
「いんや誰も来てませんよ」
弥吉の去った店の中では、娘と男のそんな会話が交わされている。弥吉ははす向かいの店の影から、それを見届けていた。
「さ、終わりましたんでもう安心していいですよ」
ふいに弥吉が呟いた。背後でざっと足音がする。
そこに立っていたのは、お妙だった。
弥吉は苦笑を漏らす。
「付いてこなくとも良かったのに。むしろ付いてこない方が良かったんですが」
振り向いてにこやかに言う弥吉の表情とは反対に、お妙の表情は硬い。
「弥吉さん……貴方、今何をしたんです」
突き刺さるような視線に、気付いていはいた。ばれても後から何とかできるだろうと放っておいたのは、弥吉自身である。
だが実際にお妙を前にすると、どうしたものかと迷う。
弥吉の声には人を惑わせる力がある。物心付く頃には、周りの人が自分の言うことを何でも聞いてくれることに気付いてはいた。
聡い子であったから、それがおかしいということにはすぐに分かった。
気付かれないように、おかしいと思われないように。幼い弥吉はそう思ってうまくやってきた。
うまくその力を使えるようになってからは、能楽師として一部の者には評判になっていた。歌に乗せて、人々の心を惑わせる旋律を奏でるのだ。いい舞台だと言われないはずがない。
人の気持ちなんて簡単に変わるものだと思っていた。だって自分には変えられる。その力がある。
そうして人の心を軽んじていた弥吉の元に現れたのは、総兵衛だった。
総兵衛は言った。
『誰しも、譲れない想いがあるのですよ』
と。
その言葉で弥吉は目が覚めたのだ。人の気持ちを弄ぶようなことをしてはならない。自分の力はこの人のために使おうと思った。言霊使いとして一生を捧げようと決めたのである。
「弥吉さん?」
お妙の声にはっとする。
昔の記憶に引き摺られていたが、今はそんな場合ではない。お妙に見られたことをどうにかせねば。
「あの、言いたくないならいいです」
ふいにお妙は言った。弥吉は目を瞬かせる。
お妙はふっと笑った。
「あのもやを何とかしてくれたんでしょう? それだけで充分です。ありがとうございました」
そう言って頭を下げるお妙を、弥吉は何か珍妙なものでも見るかのような目で見ていた。
ばれそうになったことがない訳ではない。力を使うところを見られたこともあった。
この力を知った者は言うのだ。『気持ち悪い』と。
記憶を消すのが最良の方法だと思ってこれまでやってきた。
「……僕が何をしたか、気にならないのかい?」
弥吉はそう呟くのがやっとだった。この力を知って、それでも怯えずにいるというのか。
お妙は頭を上げる。そして困ったように笑った。
「気にならない訳じゃないんですけど、あまり深く聞いたら私も忘れさせられちゃうんでしょう? 私、助けてくれたのが弥吉さんだってことは覚えておきたいです」
今度こそ弥吉は面食らった。
記憶を消せば、全てが丸く収まると思っていた。それが面倒の起こらない最良の方法だと思っていた。
総兵衛の言ったことを忘れるところだった。譲れない想いを、お妙だって持っているのだ。
「じゃあ、二人だけの秘密ってことにしてもらおうかな」
弥吉はくすくす笑いながら言う。それを目にし、お妙もくすりと笑った。
「まぁ、人に言っても信じてもらえなさそうですし」
「それもそうだ」
こうして弥吉は秘密を共有する者を持ったのだった。
柳井堂に戻った弥吉は、主人の部屋で総兵衛と向き合っていた。
「どうやら、この矢立に言霊が憑いていたようです」
弥吉は懐から懐紙を取り出すと、総兵衛の前に置いた。総兵衛はふむ、とおもむろに手を伸ばす。
総兵衛が矢立に触れると、一瞬、黒いもやが出た。だがそれはすぐに薄れ、総兵衛はいろんな角度からまじまじと矢立を見つめる。
「言霊憑きの書画用具、まだありましたか」
弥吉は神妙な顔で頷いた。
悪しき言霊を呼び寄せる書画用具を生み出すのは、なにも徳蔵だけではない。言霊使いの力を持つ者は、日本中にごまんといる。
そうと知らずに作り出している者、そうと知って作り出している者、両方いるが、そんなものが世に出回るのは困る。
そういった書画用具を収集するのも、柳井堂の役目である。
総兵衛は、傍らに置いていた硯箱の蓋を開けた。そして弥吉が回収した矢立を仕舞う。
それは総兵衛の両親が遺した物だった。強い力を持っていた両親は、言霊憑きの書画用品の収集も行っていた。この硯箱は中に入れて柳井堂で休ませることで、悪しき力が薄れていくという代物だ。
「新たに生まれていないとも言い切れませんからね。少しでも見つけられればいいのですが……」
日本中に散らばる言霊憑きを全て集めるのは、到底無理な話だ。だが総兵衛は少しでもそれを減らせるように、これまで探し続けてきた。
「全部、というのはやっぱり難しいかもしれませんが、僕も気を付けておきますよ」
そう話す弥吉に、総兵衛は深く頷いた。
その顔がおや、というものになる。
「弥吉君、何かいいことがありましたか?」
「え」
矢立を回収した時のことを思い出した。あの茶屋の娘は、話していて実に安心できた。まるで総兵衛と話している時のようだった。
「楽しいことがあった時の表情をしています」
あまり感情を悟らせにくい方だと思っていた。楽しくなくとも笑うのは苦痛ではない。
それなのに、この主に分かってしまう程の違いが出ていたのだろうか。
「弥吉君はここに来てから言霊漬けでしたからね。そう思えるような出来事があったのなら、良いことです」
いい傾向なのだろうか。一時はどうなることかと思ったが、そう言われるのならば、お妙にばれたことも悪いことではなかったのかもしれない。
まったく、総兵衛には適わない。
弥吉は苦笑を漏らしながらも、そんな自分が嫌いじゃないと思えた。
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