八幕目
近場の茶屋で横にならせてもらった。芝居小屋を出たことで多少楽にはなっていたのだが、徳蔵に無理矢理横にされてしまったのだ。
「具合はどうだ?」
濡らした手ぬぐいを手に、徳蔵が戻ってきた。額に宛がわれた冷たい手ぬぐいが心地良い。
「もう大丈夫です。ご心配お掛けしてすみませんでした」
起き上がろうとした梅乃だったが、徳蔵に額を推されそれは叶わなかった。
茶を啜る徳蔵を見上げる形になる。梅乃は大人しく横になっておくことにした。
「……徳蔵さんは、何か感じませんでしたか?」
「何か?」
「はい。芝居を見ていたとき、段々寒気がしてきたんです。始めは風邪かなと思ったんですけど、今は何ともないですし……。周りの人も平然としていたから」
外に出た瞬間、ふっと体が軽くなった感じがした。今までこんなに気分が悪くなったことはないが、もしかするとという気持ちが過ぎったのだ。
「もしかしたら、言霊なのかなって」
案じるような梅乃の目に、徳蔵はふむ、と顎に手を当てて考え込んだ。
「俺は特には気配を感じなかったが、念のために柳井さんに報告しておこう。あれだけの人だったから、見つけるのは難しいかもしれないが」
そういえばそうだと梅乃は思い至った。河原崎座は満席だったのだ。もっとちゃんとどこから気配がするか見ておけば良かった。梅乃は目を伏せる。
すると徳蔵の手が頭に触れた。
「余計なことは気にするな。今は具合を治すことだけ考えておけ」
そう言って優しく頭を撫でてくれる。
どうして気付かれてしまったのだろうか。そんなに顔に出ていただろうか。
内心焦りながらも、梅乃はその手の心地良さに大人しく甘えることにした。
「言霊の気配、ですか」
総兵衛はそう呟くと、腕を組んで黙り込んでしまった。
「気配と言ってしまっていいものかは分からないんですけど、何だか嫌な感じがして……」
難しい顔をして考え込む総兵衛に、梅乃はしどろもどろになる。やはり自分の勘違いだったかもしれない。そんな気持ちになってきた。
長年言霊使いをやっている徳蔵でも気付かなかったのだ。ただ言霊が見えるだけの自分が、そんな力を持っているはずがない。
「あのっ、やっぱり私の思い違いかも……」
「いえ、その可能性はあります。私には言霊使いとしての力はありませんが、言霊使いを見抜く力はあるんですよ。梅乃さんは言霊を引き寄せる体質ではありますが、何か別の力も持っているような気はしていました」
「そう、なんですか?」
「えぇ。その力がどのようなものかは未知数でしたが、案外気配を察知できるというものなのかもしれません」
その時、徳蔵の膝の上で撫でられていた柳さんがなーおと鳴いた。三人の視線が集まるが、柳さんはまた気持ち良さそうに目を瞑ってしまう。
総兵衛がくすりと笑った。
「柳さんみたいに」
確かに柳さんのようだ。言霊の気配を察知して、皆に教えてくれる。まるで同じだ。
「じゃあ! 私、言霊の居場所を知らせられるように頑張りますね!」
「そういうのは倒れなくなってから言え」
ずっと黙っていた背後の人物の言葉に、梅乃はうっと渋面になった。
「倒れてはないです。ちょっと気分が悪くなっただけで」
「無茶をするなと言っているんだ。倒れては元も子もないだろう」
「ちょっとくらいなら大丈夫ですっ」
そうやって言い争いを始めてしまった二人だったが、吹き出すような笑いに口を閉じた。
「……何笑ってんだよ、柳井さん」
「いえ、すみません。徳蔵村君がこんな風に、誰かと口喧嘩をする日が来るなんて」
そう言うとまた肩を振るわせ出してしまった。
「喧嘩じゃない。注意しているだけだ」
むすっとしてそう呟く徳蔵に、総兵衛は楽しそうだ。
総兵衛は梅乃に向き直る。
「とは言え徳蔵君の言うことはもっともです。梅乃さん、くれぐれも一人で何とかしようと思わないようにしてくださいね」
総兵衛は真剣なまなざしだ。梅乃は神妙に頷いた。
数日後、梅乃は
今日の公演はないので、表は閉じられている。梅乃は何とか覗き込めないかと思ったが、生憎隙間などない。
「どう? 変な感じする?」
「いいえ……。やっぱりここの人じゃなくて、お客さんだったのかもしれません」
あの日、言霊に取り憑かれた人が、ここにいたのかもしれない。それを確かめに河原崎座まで来た二人だったが、人がいないようでは確かめる術もなかった。
ましてや客の中にいたのなら、もうどうしようもない。江戸中を探して回るなど、到底無理な話だ。
「まぁ害が出ている訳ではないんだし、しばらくは様子見でもいいんじゃないかなぁ?」
弥吉はもう興味を失ったのか、辺りをきょろきょろ見渡している。その視線が茶屋で止まった。
「柳井さん達も待っているだろうし、お団子でも食べて帰ろうよ」
梅乃は後ろ髪を引かれつつも、その言葉に頷いた。
前回はこの茶屋で寝ているだけだった梅乃だ。運ばれてきたみたらし団子に目を輝かせた。
「おいしいですね。前回食べられなかったから嬉しいです」
「徳蔵くんはそういうところ気が利かないからなぁ。お土産に買ってくれればいいのに」
弥吉が食べているのは草団子だ。そちらと悩んだ梅乃だったが、次に来るときはそれにしようとこっそり考えていた。
おいしい団子に舌鼓を打っていると、店の女中が近づいてきた。
「良かった、お客さんまた来てくれて。これを忘れていったでしょう?」
そう言って女中は一冊の本を差し出してくる。
梅乃は首を傾げた。そんなものを忘れた記憶はない。その本に見覚えはなかった。
「あの、人違いじゃないでしょうか? これ私のじゃないんですけど……」
「あらやだお妙ちゃん! その方じゃないよ。それを忘れていったのは男の人だったろう?」
奥から出てきた女将さんが、お妙と呼ばれた女中に声を掛ける。
「そうでしたっけ? ごめんなさい、お客さん。その方と雰囲気が似てたから間違えちゃいました」
梅乃と弥吉は顔を見合わせた。その人物に心当たりがあったのだ。
「あの、その人っていつ来られたんですか?」
「え? ええと、そうだ! そこの河原崎座で公演があった日です。役者さん達に紛れて来たので覚えてます」
やはり兄は芝居小屋に出入りしているのだ。しかもあの日にこの店に来たというのなら、河竹氏に師事している可能性が高い。
女中が去って、弥吉は口を開いた。
「でも河竹様は何も言わなかったんでしょ? 女中さんでさえ似てるっていうのに、毎日お兄さんに会ってるはずの河竹様が気づかないものかなぁ?」
「兄と私は似ているって言う人もいるし、似ていないって言う人もいるから。でも竹彦兄さま、どうして連絡をくださらないんだろう……」
目と鼻の先にいた兄だ。こんなに近くにいたのに、手紙の一つも寄こさなかったことに、梅乃はうな垂れる。
その頭に弥吉の手が乗せられた。そのままぽんぽんと撫でられる。
「何か事情があるんだろうよ、きっと。河竹様のところに行ってみるかい?」
茶屋を出た二人は、河竹氏の住まいへと向かった。
氏には弟子が何人かいるらしい。自宅で脚本の手ほどきを施しているということだ。
二人は長屋の入り口に立った。
ここに兄がいるのだろうか。梅乃はごくりと唾を飲み込んだ。
「ごめんくださーい」
何の前振りもなく弥吉が戸を叩く。
「ちょっ……弥吉さん!」
「なあに?」
「『なあに』じゃないですよ! まだ心の準備が……」
「こういうのは勢いでいった方がいいんだってー」
笑いながら言う弥吉に反論しようとした梅乃だったが、がらりと戸が開いてそれは叶わなかった。
「おう、誰かと思ったら柳井堂さんじゃねえか」
「突然押しかけてすみません、河竹様」
「まだ紙も墨も足りてるぞ。何か頼んでたかな?」
弥吉が梅乃を前に押し出した。まだ心の準備はできていなかったが、こうなっては仕方がない。意を決して顔を上げる。
「あの! こちらに成田竹彦はおりませんか? 私、成田梅乃といいます。妹なんです」
河竹氏の目が驚きに見開かれた。そして次第に苦々しげなものになる。
何かあるのだろうか。
「竹なら……破門にしたよ」
「え……?」
思いもしなかった言葉に、梅乃は頭が真っ白になってしまった。
河竹氏は続ける。
「あいつはな、俺の作品を横取りしようとしたんだ。作家業界じゃあそれだけはやっちゃなんねえ。最初は真面目な奴だと思ったんだがなあ」
梅乃は俄かにはその話を信じることができなかった。うつけと言われた兄だったが、盗みや悪行の類をする人物ではない。
しかし河竹氏の顔は嘘や冗談を言っているものではない。確かな証拠があって、兄を破門にしたのだろう。
「……兄が、ご迷惑をお掛けしました」
梅乃は頭を下げて、そう言うのが精一杯だった。
「いやいや嬢ちゃんが謝んなさんな。嬢ちゃんがやったことじゃあないだろう?」
梅乃は顔を上げるが、どんな表情をしたらいいのか分からない。結局泣きそうなものになってしまった。
「それで、重ね重ねお聞きして申し訳ないんですけど、兄がどこに行ったかご存じないですか……?」
「いんや、荷物まとめさせて追い出しちまったから……。力になれなくて悪いな」
梅乃は河竹氏に何度もお礼を言って、その場を去った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます