五幕目

 柳井やない堂に戻ると、総兵衛がお茶を用意して待っていてくれた。四人で囲炉裏を囲みながら、それをいただく。


「鼓に狐……。義経千本桜ですか」


 言霊を封じた和紙には、鼓を抱えた小狐が描かれていた。それを見ての総兵衛の言葉である。梅乃は首を傾げた。


「分かるんですか?」

「はい。この言霊を生み出したのは、恐らく若いお嬢さんでしょう。大方、義経に憧れて、じゃないですか?」


 梅乃は目をぱちくりさせる。あの客のことは総兵衛に伝えていなかったのに、そこまで分かってしまうとは。伊達に柳井堂の店主をやっていないというものだ。


 総兵衛が和紙を宙に放つと、和紙はひらひらと外へ飛んでいってしまった。


「柳井さん! 紙が……」

「いいんですよ。封じた言霊は自分で元いた場所へ戻れるのです。今頃、この言霊を生み出した方の本の間に、挟まっていることでしょう」


 封じられた言霊は元の本へと戻り、人知れず紙も消えていくのだ。


「はぁ、本当に摩訶不思議ですね……」


 梅乃はまだ和紙が消えた窓の外を見つめていた。


「さて、初めての言霊退治はどうでしたか?」


 総兵衛に問われて、梅乃は苦笑いした。


「私はただ走っただけでした。誰かさんのせいで」


 じろりと隣を睨む。お茶を飲もうとしていた弥吉やきちは、心外だとでもいうかのような表情を浮かべた。


「えー? 僕のせい? ちゃんと集まる場所も伝えたし背中も押したよね?」


 説明が足りないのだ、と梅乃は頬を膨らませて顔を背けた。総兵衛はくすくす笑っている。

 そういえば、と梅乃は総兵衛の方を向いた。


「柳井さん、行く前にいただいたあのお守り。何だったんです? 言霊と対峙している間、こう、じんわり暖かかった気がするんですけど」

「あぁ、あれは徳蔵君の文字が書かれた紙が入っているんですよ」


 ぴくりと徳蔵が眉を動かした。


「ご覧のとおり、私には言霊を祓う力がありませんからねぇ。徳蔵君が心配して、身体能力が上がる言霊を込めてお守りにしてくれたんです」


 それでか、と梅乃は思い至った。言霊から逃げる間、いつもより軽やかに走れると思ったのは勘違いではなかったらしい。総兵衛のおかげで命拾いした。


「柳井さん、それを持ってない間に何かあったらどうしてたんだよ」

「大丈夫だったじゃないですか」

「そうじゃなくて!」


 徳蔵が声を荒げるが、総兵衛はくすくす笑うばかりでまさに暖簾に腕押し。その名のとおり柳のようで、徳蔵は二の句を続けることができない。


「心配しなくても店にいる間は大丈夫ですよ。柳井堂の品々が守ってくれます。……でも勝手に梅乃さんにあげたのは悪かったですね。すみません」


 言われてみれば、店の中で悪い言霊を見ることはない。店の品々には魔除けの効果もあるのか、と梅乃は今さらながらに気が付いた。

 すんなり謝られて、徳蔵はぐっと言葉に詰まる。謝ってほしい訳ではないのだ。だけどそれをうまく言葉にできない。


「良ければもう一つ、梅乃さんのためにお守りを作ってくれませんか?」


 優しく問われるが、徳蔵の想いはやはり口にできない。黙ったまま、道具箱を開けた。

 和紙にさらりさらりと文字が乗る。言霊を込めているのか、紙自体がぼんやりと光っている。

 徳蔵は筆を置くと、和紙を梅乃に突き付けた。


「乾いたら袋に入れておけ。袋くらいは自分で用意しろ」


 それだけ言うと、道具を片付けどたどたと出て行った。

 梅乃は勢いに押され、「あ、りがとうございます……」と小さく返事をしたが、聞こえただろうか。他の二人同様、ぽかんとそれを見送った。

 やがて総兵衛と弥吉の笑い声が重なる。


「ほんっとうに徳蔵くんは歪みないね」

「えぇ。不器用だけど、仲間思いな子ですから」


 二人の言葉に梅乃は目を瞬かせる。どういう意味なのだろうか。

 弥吉が眉を上げて梅乃を見た。


「徳蔵くんも徳蔵くんなりに梅乃ちゃんを心配してるってこと。万一僕らの手が届かないことがあっても、梅乃ちゃんの力になれるようにって」


 梅乃は和紙に視線を落とした。そこには美しい文字が並んでいる。書いた人の想いが流れ込んでくるようだ。何だかほんのり暖かく感じる。


「徳蔵さん……」


 和紙を見下ろす梅乃の瞳は、どこか熱がこもっていた。


   *


 それからしばらくは、平穏な日々が続いた。


 時折言霊を見かけることはあるが、あの晩の蛇のような凶暴さは持ち合わせていない。梅乃に反応してもらえて嬉しそうな言霊ばかりだった。

 こういう言霊がいるのは梅乃も喜ばしい。江戸に来てから忘れかけていたが、言霊は何も悪いものばかりではないのだ。小さな人の姿の言霊や犬の姿の言霊は、梅乃に撫でられて嬉しそうにしていた。




「柳井さん、この紙を頂いてもいいですか?」


 ある日のこと、梅乃は故郷の両親に手紙を書くため、柳井堂の売り物を手にしていた。兄探しの進展はない。ただの近況報告になってしまってはいるが、梅乃は暇を見ては両親と手紙のやり取りを続けていた。


「あぁ、ご両親にお手紙ですか? それでしたら私の部屋に余りがあったような……」

「いえそんな! ちゃんと買います!」

「いいんですよ。余り物で良ければ、ですけど」


 その笑顔に押し切られてしまった。総兵衛の言葉に甘えることにする。

 梅乃はその場でしばらく待っていた。


「おい」


 現れたのは徳蔵だった。相変わらずの仏頂面だ。

 もう少し愛想良くしたら言い寄る女の人もいるだろうに。と考えて、梅乃はちくりとした胸に気付く。

 胸の違和感について考えようとしたところに、徳蔵から細長い物を差し出されて、それは叶わなかった。


 滑らかな竹の筆である。徳蔵は無言で筆を差し出している。何事か、と梅乃が思い始めた頃だった。


「やる」

「え!?」

 梅乃は勢いよく徳蔵の顔を見上げた。そこにはいつも通りの仏頂面があるだけだ。どういうつもりで筆をくれるのか、皆目見当が付かない。


「あの、これ徳蔵さんが作ったものですよね……? お店にも出してる」


 徳蔵は頷いた。梅乃は慌てふためく。


「なら尚更いただくわけにはいきません! 結構なお値段しますよね!?」


 徳蔵の筆の価値を知らぬ梅乃ではない。梅乃が今までここで働いて得た給金で買える代物ではないことは百も承知だ。


「余った材料で作ったからそれは気にするな。魔除けにもなる。持っておけ」


 そう言って徳蔵は梅乃に筆を押し付けると、背を向けて去っていった。

 つるりとした竹の筆は、梅乃の手によく馴染んだ。大きさも丁度良い、梅乃に合わせて作ってくれたのだろう。


「梅乃さん、お待たせしました。ってあれ? 徳蔵君の筆ですか?」


 そういえばお礼を言いそびれてしまった。

 梅乃はぎゅっと筆を握り締め、誰もいなくなった廊下の先を見つめていた。


   *


 その日、何事もなく仕事を終えた。相変わらず兄の情報は集まらず、焦りばかりが募る。

 梅乃の部屋は、店から一番離れたところにある。夕食も終えて、あとは寝るだけという頃だった。


「あれ、どこにやったかな……?」


 いつも懐に入れておいたはずのお守りがない。徳蔵にもらった大切なものだ。ぱたぱたと自分の体を触ってみるが、その感触はない。


「そうだ、戸棚を整理した時だ」


 物置の整理をする時に、踏み台を上り下りしてお守りを落とさないように出したのだ。その時に棚に置いたのだった。

 梅乃は物音で皆を起こさないよう、そっと部屋を出た。


「良かった、あった」


 お守りは確かに棚の上にあった。ほっと息を吐いて、懐に入れる。


 梅乃は物置を見回した。ここには店に出し切れない分の商品や、包み紙などが仕舞われている。墨のにおいを胸いっぱいに吸い込んで、そして吐き出した。

 このにおいが好きだ。初めて徳蔵たちに会ったとき、このにおいが漂ってきたことを覚えている。墨のにおいはもう梅乃の心を落ち着かせるものになっていた。


 感慨深く思っていた時だった。店の方でかたんと物音がした。梅乃の心臓がどくんと脈打つ。

 総兵衛たちの部屋の戸が開く音はしなかったはずだ。それとも足音を忍ばせて来たのだろうか。

 梅乃は立て掛けられていた木刀を手に取った。総兵衛か弥吉か徳蔵ならいい。もしかしたら梅乃が探し物をしていることに気付いて、見に来ただけかもしれない。

 もし、そうでなかったら。


 梅乃は店の中をそっと覗き込んだ。暗闇を動く影がある。ぼさぼさの頭、大柄な体型。間違いない。柳井堂の面々ではない。

 梅乃は勢いよく飛び出した。


「貴方! 何をしているの!」


 突然現れた人影に、男はびくりと身を竦ませた。

 やはり柳井堂の者ではない。手には何やら硯のような物が握られている。

 梅乃はそれを見て、一瞬で判断した。


「泥棒!」


 梅乃は叫ぶと同時に床を蹴った。木刀を振り被る。

 男は慌てて逃げ出そうとしたが、襲い来る木刀に避け切れないと悟ったのか、硯でそれを受けた。乾いた木の音が店内に響く。


「ちっ」


 梅乃は木刀を引くと、下段に構え直した。その間も男は逃げる算段をしているのか、視線をあちこちに漂わせている。

 気が散っているなら好機。梅乃は再び床を蹴った。


「やぁぁぁ!!」


 しかしその後の男の動きは完全に不意打ちだった。突っ込んでくる梅乃に、男は硯を投げ付けてきたのだ。

 木刀を振り抜こうとしていた梅乃は受け切れない。鈍い音を立ててそれは額に当たった。


「殺しちゃ駄目だよ」


 倒れ込もうとした梅乃の耳に、凜とした声が届いた。そしてふわりと抱き止められる。この声は――

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