四幕目

 満月の晩だった。

 店仕舞いを終え、皆で囲炉裏を囲んでいた時だった。


「おや、柳さん」


 総兵衛の声に振り向くと、戸を器用に開けて柳さんが入ってくるところだった。柳さんが夜に姿を見せるのは珍しい。時折梅乃の布団に潜り込んでくることもあるが、こうして四人集まっているところに現れたのは初めてかもしれない。


「珍しいですね。ごはんのにおいに誘われましたか?」


 梅乃がそう言って手を伸ばそうとしたが、柳さんはするりとすり抜けてしまった。いつもは向こうから寄ってくるのに、と梅乃は衝撃を受けた。

 柳さんは総兵衛の隣まで行くと、じっと彼の顔を見上げた。それを受けて総兵衛は箸を置く。


弥吉やきち君、徳蔵君、よろしくお願いします」

「はーい」


 弥吉は軽い返事をし、徳蔵は無言のまま飯を掻き込んだ。そして立ち上がると部屋を出て行こうとする。付いていけないのは梅乃ばかりだ。


柳井やないさん……? いったい何が.……」


 問い掛ける梅乃の顔を、総兵衛はじっと見つめる。その隣で柳さんも梅乃を見ていた。


「梅乃さんにも行ってもらいましょうか」

「おい」


 踏み出そうとした足を止めて、徳蔵が低い声を出す。訳の分からないままの梅乃は、ただ二人の顔を交互に見ていた。


「言霊が出たんですよ。言霊が出たときはこうして柳さんが教えてくれます。梅乃さん、二人に付いていってみませんか?」


 みませんかと言われても、突然のことに梅乃はどうしたらいいのか分からない。困惑の表情を総兵衛に向ける梅乃だったが、それを遮る影があった。


「柳井さん、こいつを連れていっても足手纏いになるだけだ」


 徳蔵が総兵衛に言い募っていた。珍しく前のめりに口を開いている。梅乃は彼がこんな風に話す様を初めて見た。


「梅乃さんは言霊を引き寄せる力があります。足手纏いになんてならないでしょう」

「でも危ないだろ……!?」

「おや、徳蔵君なら梅乃さんを守るなど容易いことでしょう?」


 当たり前のように言われて徳蔵は言葉に詰まった。口を開けたと思ったら閉じ、視線が上に向いたと思ったらまた落とし、くるりと背を向けた。


「徳蔵さん……」

「遅れたら置いていくからな」


 分かりにくい了承に、総兵衛は小さくため息を吐いた。遅れて梅乃がその意味に気付き、勢いよく立ち上がる。


「はい!」

「梅乃さん、これを」


 徳蔵に続いて部屋を出ようとした梅乃の背に、総兵衛は声を掛けた。総兵衛は小袋を差し出してくる。


「お守りのようなものです。気休めですが、持っていてください」


 手にするとかさりとした感触がする。どうやら紙のようなものが入っているようだ。


「ありがとうございます」


 そうして梅乃たちは柳井堂を出た。




 柳さんを先頭に、三人は夜の江戸の町をひた走る。人っ子一人いない通りに提灯の灯りが揺れて、梅乃は何だかここがこの世ではないかのように感じていた。ちりんちりんと微かに響く柳さんの首の鈴が、余計にその雰囲気を助長させている。


「弥吉さん」


 梅乃は前を走る弥吉に声を掛けた。


「柳さんは言霊のいる場所を知っているんですか?」

「あぁ、梅乃ちゃんには教えてなかったね。柳さんは言霊のにおいが分かるんだ。言霊が実体化したらさっきみたいに知らせに来てくれる」


 だからさっきはみんなの空気が一瞬で変わったのか、と梅乃は納得する。夜半に柳さんが現れるのは珍しいことだと思った。

 柳さんがちりんと鈴を鳴らして止まった。


「ここ……?」


 そこは一軒の民家だった。小さな灯りが漏れ出ており、家人が居ることを知らせている。

 家の中から聞こえてきた声に、梅乃ははたとした。


「この声、先日お店に来ていたお客さんじゃないですか?」


 梅乃の言葉に弥吉は耳を澄ました。その場にいなかった徳蔵は、ただそれを眺めている。


「そうかも」


 やはりそうだった。写本のための紙を買いに来た客だ。甲高い声には聞き覚えがある。

 焦りを覚えたのは梅乃である。家人がいては、あまり勝手はできないだろう。

 加えてあの客だ。不審なことをしたら騒ぎになるかもしれない。


「弥吉さん、どうするんですか?」

「うん? いつもなら柳井堂の墨で言霊を誘き出すんだけどねぇ」


 そう言って弥吉は何か言いたげに梅乃を見やった。

 何だか嫌な予感がする。梅乃は一歩後ずさった。

 しかし弥吉は距離を詰めてくる。がしりと肩を掴まれた。そして耳に触れんばかりの距離に口を近づける。


「通り三つ先、左に折れて真っ直ぐだよ」


 意味を問い返そうとしたその時、家の灯りがゆらりと揺れた。よく見ると、揺れたのは灯りではない。真っ黒な影が戸の隙間から滲み出ていた。


「ひっ……」


 間違いない、これは江戸に来たばかりのときに見た影と同じものだ。


 これこそが言霊。人の強すぎる想いが、文字を歪ませ狂わせる。

 滲み出てきた影は、巨大な狐の形になりつつあった。その頭が梅乃を向く。梅乃の口元が引きつった。


 梅乃は弥吉にくるりと反転させられた。


「うまく誘導してね。さぁ走れ!」


 弥吉に背を押された梅乃は、転がるように走り出した。その背を影が追う。やがて暗闇に二人は消えていった。

 梅乃たちを見送って、弥吉は大袈裟にため息を吐いた。背中に突き刺さる視線が痛い。


「そんな睨まないでよー。準備はできてるんでしょ?」


 くるりと振り返った先、徳蔵が鋭い眼差しで弥吉を睨み付けている。提灯の薄明かりでも、射抜かんとする瞳が見て取れた。


「いつも通り、墨で誘き寄せても良かっただろう」

「言霊の方が先に梅乃ちゃんに反応しちゃったんだもん。しょうがないでしょ?」


 いけしゃあしゃあと弥吉は抜かすが、徳蔵にはそれが最初から分かっていたように思えてならない。二人は睨み合いを続けた。


「それより早く行かないと梅乃ちゃんが危ないと思うんだけど、いいの? もう準備はできたでしょ?」


 話している間にも徳蔵の手は動いていた。筆と紙の準備は万端だ。


「後ろから攻める方が楽だしねぇ。彼女が無事なうちに仕留めちゃおう」


 その声に梅乃を心配する色はない。徳蔵は弥吉に不信感を覚えながらも、その背を追って走り出した。




 一方、通り三つ先、左に折れて真っ直ぐ行った先。開けた土地で、梅乃は言霊と対峙していた。

 開けてはいるが、袋小路だ。なぜだかいつもより軽やかに走れたものの、逃げ場はない。影はいまや梅乃の二倍以上の大きさと化していた。その目はしっかりと梅乃を捉えている。


 食われるのだろうか?


 梅乃は肩で息をしていた。必死に考えを巡らすが、逃げる算段が思いつかない。


 のこのこ付いて来たのが間違いだったのだろうか。それとも柳井堂を頼ったところから? いや、そもそも江戸に来るべきではなかったのだろうか。故郷で大人しくしていれば、こんな目に遭うこともなかった。


 均衡を破ったのは狐だった。大きく開けた口からは鋭い牙が覗き、無防備な梅乃を狙う。梅乃は思わずぎゅっと目を瞑った。


 これまでか。


 梅乃が覚悟を決めようとしたときだった。


「惑い迷いし言の霊 在るべき場所へと戻りたまえ」


 低い声が響いた。

 梅乃のよく知る声。これは――


「徳蔵さん……」


 目を開けた梅乃の先、そこには息を切らせた徳蔵がいた。

 目の前の狐は動きを止めている。徳蔵が手にしている和紙に引っ張られているようだ。やがて耐え切れなくなり、狐は和紙へと吸い込まれていった。

 梅乃は動くことができなかった。徳蔵が固い表情のまま近づいてくる。


「怪我はねぇか」


 そう言って手を差し伸べてくる。梅乃はしばらくその手を見つめて、そしてぷっと吹き出してしまった。

 眉を顰めたのは徳蔵である。


「何がおかしい」

「だって、初めて会ったときとまるで同じなんですもん」


 あの時もそうだった。言霊に追い掛けられて、もう駄目だと思った瞬間、徳蔵たちが現れた。


「本当は今日も駄目かと思ったんです。でも、目を瞑った瞬間、徳蔵さんの顔が浮かんだんです」


 あの時とは違う、言霊使いの存在。彼らがいるから、きっと大丈夫だと思えた。

 徳蔵はそんな梅乃の表情を見て、目を反らすとぽりぽり頭を掻いた。そして梅乃の手を掴むと無理矢理引っ張り起こした。


「わっ!」


 梅乃はたたらを踏んで何とか体勢を整える。見上げると、思いのほか近い場所に徳蔵の顔があった。


「徳蔵さん……?」

「お前、あんまり弥吉を信用するな」


 は、と梅乃は問い返そうとした。


「やっと追いついたー。徳蔵君、道具置いていかないでよー」


 しかし弥吉の言葉に遮られてしまった。声の方を見やると、道具箱を抱えた弥吉が立っている。徳蔵の手が離れていった。


「あれ? もう終わっちゃった?」

「来るのが遅い。俺一人で充分だった」


 いつも通り無表情で言う徳蔵に、弥吉は笑い声を上げる。


「徳蔵くん、文字担当なのに無茶するよねぇ。よっぽど心配だったのかな?」

「うるさい」


 からかい声に、徳蔵はつれない。弥吉はまだ笑いながらも、徳蔵の肩を叩きながら労りの言葉を掛けている。

 梅乃は徳蔵に言われたことを考えて、ただぼんやりと二人を見ていることしかできなかった。

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