三幕目

 静かな朝の町並みに、雀が数羽駆け回る。


 梅乃は柳井やない堂の店先を掃いていた。

 柳井堂は大通りに面した店の一角にある。裏に長屋のある一般的な江戸の町並みの作りで、総兵衛たちはそこで暮らしていた。梅乃もその一室を間借りして、寝起きしている。


 ここで働き始めてから三日が経つ。梅乃の仕事は掃除をしたり、品物の補充をしたりといった、細々とした雑用だった。


 店主の総兵衛は店の全般的なことをしているようだ。買い付けから帳簿付け、それから店に立つこともある。


 主に店に立つのが弥吉やきちなのは頷ける。女性客が彼目当てにひっきりなしに訪れるのだ。顔の良い男は得だ、と梅乃は思う。きゃあきゃあ言う女性たちに囲まれながら、弥吉はいろんな品を薦めていた。

 かといって男性客に評判が悪いわけではない。弥吉の口のうまさは天下一品だ。ひやかしに訪れた客も、「ほう」と筆を買っていってしまう。顔だけではないことは、梅乃も認めざるを得ないところだった。


 そして徳蔵。彼を日中見かけることはない。どこにいるのだろうと弥吉に聞いてみたところ、「あいつは職人だから」と返されてしまった。


 不思議に思っていた梅乃が店の裏手に回ろうとした時だった。何やら奇怪な音が聞こえてくる。しゅっ、しゅっ、と何かを削る音のようだ。

 音のする方へ向かうと、どうやら裏にある小屋からその音は聞こえてくる。梅乃はそっと中を覗いてみた。


 そこにいたのは徳蔵だった。手には鋏と毛束が握られている。徳蔵は真剣な面持ちで、毛束を切り揃えていた。


「入ったらどうだ」


 梅乃は飛び退いた。徳蔵はこちらを見てはいなかったはずだ。どうして気付いたのだろうか。

 戸を開け、梅乃はおずおずと中に入った。徳蔵の前には様々な道具が並べられている。数種類の小刀、木片、それにいくつもの動物の毛。


「これは……筆?」

「あぁ。俺は筆職人だから」


 合点がいった。店先に並んでいる筆の類は、ここで徳蔵が作っているものだったのだ。

 徳蔵は梅乃の方を見ないまま、作業を続けている。梅乃は邪魔にならぬよう、少し離れた場所に座った。入れと言ったくらいだ、見ていてもいいのだろう。

 昼下がりの柳井堂。毛束を切る音だけが部屋に響く。


「……徳蔵さんは、このお仕事長いんですか?」


 徳蔵が手を止めた頃合いを見計らって、梅乃は尋ねた。徳蔵はちらりと梅乃を見やってから、また手元に視線を落とす。鋏を置き、今度は木軸を手にした。

 どの毛を使うかによって、書き味が違うのだろう。徳蔵はそれにするか木軸に当てつつ考えている。


「餓鬼の頃からだ。うちは代々筆職人の家系だったから」


 どうやら決まったようだ。手は止めないまま話し出す。


「代々……」

「あぁ。大和の出だと言えばお前も分かるだろう」


 なるほど、そのくらいなら梅乃も読み聞いたことで知っている。大和の筆は梅乃も一度は使ってみたいと思ったことがある。

 それきり徳蔵は黙り込み、また作業を始めた。


 筆は着々と出来上がっていく。その見事な手さばきに、思わず梅乃は見とれてしまった。

 つるりとした軸の質感、真っ直ぐな毛先。今まで意識したことはなかったが、こうして見ると筆というものは何と美しいのか。一つの芸術品のように見える。それとも徳蔵の作る筆だから美しく見えるのか。


「おや、ここにいたのかい」


 一本出来上がった頃だった。静寂を割って入ったのは、弥吉だった。二人の顔を見比べて、察したようだ。


「昼餉の支度ができたから、柳井さんが呼んでこいって」

「あっごめんなさい! 私、お手伝いもせずに……」

「大丈夫、大丈夫。柳井さん、分かってたみたいだから」


 弥吉に続いて小屋を出ようとした梅乃だったが、続く気配がないことに後ろを振り返る。徳蔵は座ったままだった。そうして二本目の木軸を手にしている。


「あの、徳蔵さんは?」

「いいのいいの。あいつは作業邪魔されると怒るから。あとでここに持ってくるから大丈夫だよ」


 そういえばこの三日間も、昼時に彼の姿を見ることはなかった。いつもここで食べていたのか。謎が解けた。

 それにしても、作業の邪魔をされると怒るとは、自分は良かったのだろうかと梅乃は心配になった。しかし徳蔵が顔を上げないので聞くこともできず、梅乃はそのまま小屋を後にした。




「え、弥吉さんって出雲の出なんですか」


 梅乃は囲炉裏を挟んで向かいに座る弥吉と昼を共にしていた。店は総兵衛が見ている。


「そうだよ。元は能楽師をやってたんだ。そこに柳井さんがたまたま通りかかってね」


 言霊使いとしての力を持たなかった総兵衛だが、その力を持つ者を見分けることはできた。各地の書画用具を見てこいとの名目で家を追い出された彼は、その先で弥吉らと出会ったのである。


「能楽師……。確かに弥吉さん、声はいいですもんね」

「声『は』って、他は駄目?」

「いえっ! そういう意味ではないんですけど……」


 揚げ足を取られて梅乃はしどろもどろになる。慌てる梅乃に、弥吉はおかしそうに笑った。からかわれたようだ。梅乃は頬を膨らませる。


「もう仕事は慣れた?」

「はい。って言ってもそんなに難しいことをしているわけではないんですけどね」


 梅乃が現在やっていることは、言ってしまえば雑用だ。故郷にいた頃に比べれば、なんら難しいことではない。


「でも飲み込み早いよね。お家で何かやってたの?」

「あぁ、うちは道場なんです。細々としたことは私も手伝ってたんですよ。剣の腕だってそこそこあります。用心棒は任せてください!」

「ははっ。言霊使いの力がある僕にそれを言う?」

「あ、そっか……」


 言われてみればそうだ。言霊を祓う力のある弥吉たちには不要だろう。そこまで考えが及ばなかったと梅乃は照れ笑いを浮かべる。


「まぁおいそれと人に対して使えるものではないからね。何かあったらよろしく頼むよ」

「はい!」


 確かに人智を超えた力だ。使い方を誤れば、大変なことになるだろう。例えばもし、泥棒が入ったとしても、その力は使えないだろう。使ったとしても、ごまかしが効かないかもしれない。

 もしそんなことがあれば自分が何とかせねば、と梅乃は心に決めた。


「そういえば、徳蔵さんは大和の出身だそうですね」

「そうそう。割りと名のある筆職人の家らしいよ。ちょいと愛想は足りないけど、俺は江戸一の筆職人だと思っている」


 梅乃は先程の徳蔵の手さばきを思い返していた。確かに惚れ惚れするような、見事な手さばきだった。筆のできる様を初めて見たけれど、いくらでも見ていられると思った。


「うちの筆は書き心地がいいって評判なんだよ。紙も柳井さんがいいものを仕入れているし。書家の先生や芝居作者も常連さんなんだよ」


 ほう、と梅乃は相槌を打つ。

 江戸の町に書画用品店はいくつかあるが、柳井堂は大店というわけではない。それでも客足が途絶えないのは、ひとえに総兵衛の手腕といえるだろう。


「兄は……歌舞伎作者になると言って家を出たんです。もしかしたらそのお師匠様が客として来ているかもしれません」

「なるほど。その可能性はあるね。先生が来たら聞いてみるとしよう」


 暗中に潜り込み掛けていた兄の行方に、一筋の光が差した。何が進展したわけでもないが、梅乃はそれだけでも力付けられるものだった。


「さ、そろそろ店に戻ろうか。柳井さんと交代しよう」


 梅乃は力強く頷くと、立ち上がった。


   *


「ごめんくださいまし」


 店番をしていると、一人の女性が店に入ってきた。梅乃は立ち上がる。総兵衛は休憩にいっており、弥吉は接客中だ。


「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」

「紙を買いに来たの。写本をしたくて」


 女性は梅乃の姿を認め、なぜだか声を潜める。


「それならこちらはいかがでしょうか? 丈夫で書き心地がいいですよ」


 梅乃が白い無地の和紙を勧めると、女性は少しむっとしたような顔をした。梅乃の方へ詰め寄る。


「こんなんじゃ駄目だわ!」


 女性は甲高い声を上げる。その勢いに梅乃はたじろいだ。女性の様子は尋常ではない。


「義経さまを書くのに、こんな武骨な紙でいいと思っているの?」


 梅乃は目を小瞬かせた。女性はいったい何を写本しようとしているのだろうか。

 勝手が分かっていない梅乃の様子に、女性は鼻息荒く言った。


「義経千本桜よ。貴女、そんなことも知らないの?」


 なるほど、歌舞伎か。梅乃はようやく合点がいった。

 どうやら女性は義経千本桜が相当好きらしい。わざわざ自分で写本するくらいだ。相当なものだろう。


「ええと、じゃあどれがいいかな……」


 女性はまだ怒った様子で梅乃を見ている。

 梅乃は書物は読む専門で、写本などしたことがない。どんなものがいいのだろうか。丈夫で裏写りしにくく、それでいて義経に相応しいもの。

 色々考えて、なかなか選ぶことができない。あまりお客さんを待たせてはいけないだろうと思って、ますます焦る。


「これなんかいいんじゃないかな」


 背後から手を伸ばされた。振り返ると、すぐ近くに弥吉の顔があった。弥吉は白地に薄く桜の模様が入った和紙を取り出す。


「先日入ったばかりのものなんですよ。貴女みたいな美しいお嬢さんなら、僕のことも書いてもらいたいものですな」


 そう言ってにこやかに弥吉は客に和紙を手渡す。


「あらやだ、聞こえていたの。ふふ、そんなこと言って惑わそうなんて、無理な話なんですからね」


 そう言いながらも女性は満更でもなさそうだ。その和紙を買って帰っていった。

 弥吉と共に客を見送って、梅乃は彼に向き直る。


「弥吉さん、やっぱりすごいですねぇ」

「うん?」

「女心を分かってるっていうか……。私も誰かのことを書く時には、参考にさせてもらおうかな、なんて思っちゃいました」


 梅乃の言葉に弥吉は楽しそうな笑みを浮かべる。


「おや、恋文を出したい相手がいるのかい?」

「なっ……! 違います! もしもの話です! それに恋文とは言ってません!」


 慌てふためく梅乃に弥吉はますます楽しそうだ。しかしふいに遠くに目を向けた。


「分かりすぎるのも困りもの……なんてね」


 何のことを言っているのだろうか。

 問うてみたかったが、弥吉のその様子に梅乃は尋ねることができなかった。

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