二幕目
村でうつけと言われれば、成田の家の次男坊。
梅乃の兄、竹彦はそう言われていても気にも留めていないようだった。成田安斉流道場師範の子と言っても次男坊。跡取りではないから気楽だったのかもしれない。晴耕雨読、いや、晴読雨読を地で行くような男であった。彼の部屋には書物が積み上がり、いつ崩れるとも知れない。
剣の修行をするでもなく、かといって畑仕事をするわけでもなく、師範である父からとうの昔に匙を投げられてしまっていた。
梅乃はそんな兄から教えてもらう書物が好きだった。読み書きは竹彦から習ったと言っても過言ではない。
とにかく、父からも上の兄からも飽きられている竹彦を、慕っていたのは梅乃だけだったのである。
だからこそ、竹彦が「歌舞伎作者になる!」と家を飛び出したときも、誰も止める者はいなかった。梅乃だけが泣いて引き止めようとしたが、兄の決意は固かった。
涙の別れが三月前。
文の途絶えが一月前。
最愛の兄の安否を確かめに、梅乃は江戸に出てきたという訳であった。
*
梅乃ははっと目を覚ました。ぐるりと辺りを見回して、ここはどこだろうとぼんやり考える。六畳程の大きさだろうか。入り口の土間には竃があり、典型的な江戸の長屋作りだ。見知らぬ部屋に、すぐには置かれている状況を飲み込めなかった。
あやかし、なのだろう。異形のものに追い掛けられて、袋小路に入り込んだことまでは覚えている。倒れたのは黄昏時だったはずだ。しかし格子からは明るい光が差し込んでいる。どれほど眠っていたのだろうか。
ふわりと漂ってきた墨のにおいに、二人の男達の存在を思い出した。その時だった。
「おや、目が覚めましたか?」
襖が開いて、男が入ってきた。昨夜見た男ではない。眼鏡を掛けた、優しそうな雰囲気の人物だ。敵意は感じないが、見知らぬ顔に梅乃は顔を強張らせた。
それを感じ取ったのだろう。男は人の良い笑みを浮かべた。
「申し遅れました。ここは
総兵衛は膝を折りながら言った。梅乃に湯飲みを差し出してくる。梅乃は身を起こした。
「成田梅乃と申します。お世話になりました。あの、私は……」
訝しげな梅乃に総兵衛はにこりと笑った。
「貴女は、『見える』人ですね?」
その言葉に梅乃は固まってしまった。
幼い梅乃が竹彦に懐いたのは、『見える』ことを馬鹿にしないからでもあった。
恐らくあやかしと言われる類のものだったのだろう、梅乃は幼い頃からそれらが見えていた。
彼らは梅乃に危害を加えたりはしない。だがそれらが人ではないことを敏感に感じ取って、梅乃は泣いてばかりいた。
そんな梅乃を宥めてくれたのが、竹彦だった。竹彦は梅乃の話を馬鹿にせずに聞いてくれた。人には見えないものが見えると言っては嘘吐き扱いされる梅乃を、優しく宥めてくれた。
多分、古今東西あらゆる書物を読んできたからであろう。そういうこともあるのだと竹彦は分かってくれていた。だからこそ、故郷では心穏やかに過ごせていたのだ。
「故郷で見たあやかしは、襲ってくることなどありませんでした。柳井さん、あれはいったい何なのですか?」
江戸に着いて早々、目が合ったそのあやかしは梅乃を追い掛けてきた。故郷ではなかった事態だ。混乱する梅乃は逃げ惑い、ついぞ追い詰められてしまったのだ。
黙って梅乃の話を聞いていた総兵衛は、すっと視線を上げた。
「古来より、言葉には魂が宿ると言われてきました。優しき言葉には良き言霊が、凶暴な言葉には悪しき言霊が。力のある者にはそれが実体となって見えます。梅乃さんが見ていたのは良き言霊だったのでしょう」
梅乃はぽかんとした。あやかしだと思っていたものが実は言霊だと言うのだ。言葉が実体化するなど、いまいちぴんとこない。
それを察したのか、総兵衛はふっと笑みを零した。
「徳蔵君、
総兵衛が呼ぶと、すらりと襖が開いた。入ってきたのは昨夜の二人の男だった。手には何やら漆塗りの箱が握られている。彼らは総兵衛の隣に膝を付いた。
「紹介します。徳蔵君と弥吉君。うちの従業員で、腕の立つ言霊使いでもあります」
徳蔵と言われた体格の良い男は、仏頂面を浮かべている。硬派な雰囲気が近寄りがたさを増徴させていた。
線の細い二枚目の男の方が弥吉だろう。その整った顔に笑みを浮かべて軽く頭を下げた。
「ことだま……使い?」
梅乃は首を傾げる。
総兵衛はまぁ見てろと言わんばかりに頷いた。徳蔵と弥吉に向き直る。
徳蔵は箱の中から短冊と筆を取り出した。墨を付け、何やら短冊に書き出した。
『表し現せ
そこに弥吉の声が重なった。ふわりと風が起きる。
その様に梅乃は目を見張った。徳蔵の持つ短冊から白いもやのようなものが吹き出している。やがて白い塊が転がり落ちた。
「おや、随分と可愛らしいものを」
総兵衛は楽しそうな声を上げた。
それは白猫だった。真っ白な毛並みで、爛々とした瞳が梅乃を見上げている。
それだけ見れば、普通の猫といえるのかもしれない、だがその白猫はうっすら透き通っていた。大きさも手の平に乗るほどで、とても普通の猫とはいえまい。
「徳蔵くんにしては気を利かせたものだよねぇ。女の子相手だから?」
「うるせぇ」
茶化す弥吉に徳蔵は素気無く答えた。擦り寄ってくる白猫に、梅乃は思わず手を伸ばした。白猫は慣れた様子で梅乃の手の上で寛ぎ始める。
「梅乃さんが見ていたあやかし。その元が言葉だと思ってくれれば話は早いです」
なるほど、梅乃は得心した。無から有は生まれない。万物には種となるものがあるのだ。手の平の白猫を指先で撫でながら、梅乃はそう考えた。
「悪しき言霊はまれに人を襲うことがあります。襲うまでいかなくても、人の心を蝕むのです。そういった言霊を封じるのが、私たち言霊使いという訳です」
それで昨夜襲われかけたのか、と梅乃は納得した。
故郷で襲われることがなかったのは、優しい人たちに囲まれていたからだろう。良き言霊しか見ることはなかった。
「あ」
指先が空を切る。元より透き通っていた猫は、空気に溶けるように消えてしまった。
「消えちゃった……」
「深く想いを込めてはないからな。お前に見せれりゃそれで充分だろう」
徳蔵の言葉に梅乃は少々しょんぼりした。可愛らしい猫だったから、もう少し見ておきたかったのだ。
「まったく。気を遣った割りには詰めが甘いよね」
「ほっとけ」
やはり徳蔵は素っ気無い。二人はまるで正反対のようだ。弥吉は最初から笑みを浮かべているのに対して、徳蔵は口の端の一つも上がらない。
「どうしてこの二人が一緒に言霊使いをしているのか、不思議でしょう?」
総兵衛の問い掛けに梅乃はびくりとした。今まさに考えていたことを言い当てられて、目を丸くする。
「私に言霊使いの力はありません。柳井の跡継ぎとして情けないことですが……。その代わり、私には力を持つ者を見分ける力があるのです。この二人は性格の相性は最悪ですが、言霊使いとしての相性はばっちりなのですよ」
梅乃は合点がいった。
それにしても、柳井家は代々言霊使いだということが梅乃は気になった。あやかしの話は古今東西あるけれど、それらは彼らのような言霊使いが退治してきたのだろうか。
「時に梅乃さん。江戸には長期の滞在で?」
「あっ、はい。そのつもりです。いつまでになるか分かりませんが……」
兄はどこにいるのだろうか。
梅乃が持つ銭はそう多くはない。兄探しにあまり長く掛かるようなら、働き口も探さなければならないだろう。
「お前、なんで江戸に来たんだ」
声の方へ視線を向けると、徳蔵がまっすぐに梅乃を見ていた。二人の視線が重なる。全てを見透かしてしまうかのような瞳に、梅乃は目を反らすことができない。
梅乃はごくりと唾を飲み込んだ。
「……兄が、行方知れずになったんです。兄が江戸へ行ってから三ヶ月。これまで便りが途絶えたことはなかったんです。そりゃあ昔っから無鉄砲なことをする兄でした。でも家族を心底心配させるような人ではありませんでした。きっと何かあったんです! だから私は、ここまで兄を探しに来ました……」
そう言うと梅乃は俯いてしまった。当てがある訳でもない。こちらに知り合いもいない。まだ十六の梅乃には、困難が過ぎる人探しだった。
「梅乃さん、うちで働きませんか?」
「え?」
「おい!」
思いもよらない言葉に聞き返そうとした梅乃だったが、そこに徳蔵の声が重なった。なぜ彼が抗議の声を上げるのだろう、と梅乃は徳蔵を見やる。徳蔵は苦々しげな顔をしていた。
「柳井さん、ちゃんと説明しないと駄目だよ?」
弥吉までもが非難の声を上げる。総兵衛は苦笑を浮かべた。
「勿論、これからするつもりでしたよ。梅乃さん、恐らくあなたには言霊を引き付ける力があるのだと思います。言霊封じはなかなかに骨の折れる仕事です。言霊を見つけられるのが、現状一人しかいないもので……。梅乃さんが手伝ってくれるのなら、助かるのです。私どもも、お兄さんを探すのを手伝いましょう。梅乃さんの目的が果たされる時までで構いません。どうか、うちの店で働いてくれませんか?」
正直、迷うところがあった。働かせてもらえるのはありがたい。しかし昨夜追い掛けてきたような言霊と対峙するのは不安がある。どうしたものか、と梅乃は視線を落とした。
「梅乃ちゃんは僕らが守るよ」
顔を上げると、弥吉が笑みを浮かべていた。なるほど、色男だと思ったのは違いないらしい。この笑みを見せ付けられて、落ちない女はいないだろう。
その隣では、徳蔵が仏頂面でそっぽを向いている。『僕ら』と言った言葉に異論はないのだろう、もう反対の声は上げずにいた。
「自分で言うのもなんだけど、僕らはなかなか腕の立つ言霊使いなんだよ。梅乃ちゃんは必ず守る」
守ってくれる兄はいない。自分一人の力では心許ない。
彼らを信じてみてもいいのだろうか――。
「ひゃっ!」
考え込む梅乃の手に、何かが触れた。
「おや、柳さん。いつの間に」
見るとそこには一匹の三毛猫がいた。今度の猫は透けていない、本物の猫のようだ。
猫はひらりと梅乃の布団の上に飛び乗った。
「紹介します。柳井堂の看板猫、柳さんです」
柳さんは名乗るかのように、なーおと一つ鳴いた。
「先程申していた、言霊を見つけられる者というのがこの柳さんです。……珍しいですね、柳さんが初対面の人に懐くのは滅多にないのですが」
「梅乃ちゃんが言霊を引き付けやすいからじゃない?」
寛ぐ柳さんの顎に、梅乃はそっと触れた。もっと撫でろと言わんばかりに柳さんは顎を上げてくる。
故郷にいた頃は、猫がそこかしこにいた、梅乃は猫が好きなのだ。構い倒しすぎて父から『猫禁止令』が出る程だったのだ。
この状況が嬉しくないはずがない。
「梅乃さん、いかがでしょう?」
総兵衛に輝く目を向ける。
返事は一つだった。
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