六幕目

「やき、ちさん……?」


 梅乃が見上げると、そこには弥吉やきちの顔があった。

 どうしてそんなに心配そうな目をしているのか。梅乃はそう尋ねようとしたけれど、痛みでうまく声を出すことができない。


「うわぁぁ! 助けてくれ!」


 泥棒の悲鳴が聞こえて、梅乃はそちらに目を向けた。見ると徳蔵が泥棒に跨って、拳を振るっている。泥棒はもう気を失っているようだ。


「徳蔵君、やめやめ」


 いつの間に現れたのか、総兵衛が徳蔵の腕を掴んだ。


「それ以上やったら死んでしまいますよ」


 ようやく我に返ったのか、徳蔵は息を切らして総兵衛を見上げる。意識を失った泥棒を見下ろして、そして立ち上がった。


「まったく、うちの物を盗んでも何もなりませんのにねぇ」


 総兵衛はそう言いながら泥棒を縛っていく。梅乃はぼんやりとそれを見ていた。

 ざっと目の前に徳蔵が立ち塞がる。


「徳蔵さん……」

「なぜ俺らを呼びに来なかった」


 その声にはどこか怒りが込められている。

 梅乃は返事をすることができない。


 自分でどうにかできると思った。腕には自信があった。

 それがこの結果だ。


「自分で対処できないなら引っ込んでろ馬鹿。迷惑だ」


 そう言い捨てると、徳蔵は去っていった。

 梅乃は顔を上げることができない。全くそのとおりだ。自分の力を過信しすぎていた。


「とりあえず手当てしよう。梅乃ちゃん、立てる?」


 梅乃は弥吉に支えながら、店の裏へと向かった。




 店の裏手で、弥吉に包帯を巻いてもらった。血は出なかったものの、鈍く痛む。青痣になるかもしれないが、髪に隠れて見えはしないだろう。

 同心に泥棒を引き渡しに行っていた総兵衛が戻ってきた。


「痛みますか?」

「冷やしてもらったので大丈夫です。……あの、すみませんでした」


 先程徳蔵に言われた言葉が頭の中を渦巻いていた。


 徳蔵たちが出てこなかったらと思うとぞっとする。泥棒を取り逃がし、自分も怪我をし、倒れるところだったのだ。打ち所が悪かったら死んでいた。勝手に動いたことに、後悔の念しかない。


「徳蔵くんに言われたこと、気にしてる?」


 俯く梅乃に弥吉が問い掛けた。

 気にしない訳がない。自分の腕を過信しなければ、こんなことにはならなかったのだ。


「僕らを呼んでほしかったのは事実だけどね、梅乃ちゃんが悪い訳じゃないよ。徳蔵くんは梅乃ちゃんに重ねてるだけだから」


 その言葉に梅乃は顔を上げた。どういう意味なのだろうか。

 梅乃の問い掛けるような視線に気付いたのか、総兵衛は口を開いた。


「徳蔵君が筆職人の家系だということは聞きましたか? 幼い頃から小刀を握っていたと聞いています。ただ、徳蔵君の筆が世に出回ることはなかったそうです」

「どうして、ですか……?」

「徳蔵君には言霊使いとしての力があります。彼の筆を使うと、物の怪に襲われると言われていたのです」


 思わぬ話に梅乃は目を見開かせた。


「でも! このお店には徳蔵さんの筆があります!」


 徳蔵の筆は店にいくつも並んでいる。梅乃がここで働き始めてから売れた筆は一つや二つじゃないはずだ。売った客からあやかしの話を聞いたことなどない。


「それは僕がいるからだよ。柳井やないさん曰く、僕の声の力と徳蔵くんの文字の力で相殺されるんだって。僕の声も魅惑的って言われてたんだけど、徳蔵くん程じゃあなかったよね。それはそれは大変だったみたいだよ」


 梅乃は何も言うことができなかった。二人にそんな過去があるとは想像も付かなかったのだ。


「徳蔵君はずっと、閉ざされた部屋で筆を作り続けていたそうです。家族の者も、徳蔵君を追い出すことも、筆作りを辞めさせることもできなかったそうです。あやかしを呼び寄せるものを作るといっても家族ですし、筆作りは徳蔵君の心の拠り所だったから。そんな時、言霊が徳蔵君の家を襲う事件があったのです」


 梅乃は息を呑んだ。


「私たちが徳蔵君の元に辿り着いたのはその時でした。ひどい光景でした……。黒い影が家全体を覆い、私たちが飛び込んだ時には家の人たちは皆倒れていました。奥で倒れていた徳蔵君も、危ないところだったんです」

「それで、どうなったんです……?」

「徳蔵君の文字と弥吉君の声で、無事、言霊を祓うことができました。家の人も回復に時間が掛かりましたが、何とか無事でした。ただ、その後の徳蔵君がですね……」


 総兵衛はそこで言葉を濁す。弥吉も物言いたげな表情を浮かべている。


「自分のせいで家族が傷付いたことに、徳蔵君はひどく落ち込みました。筆作りさえもやめようと思った程です。ですが私には徳蔵君の力が必要でした。江戸まで一緒に来てもらいましたが、今もあの時の後悔は消えていないようです」


 梅乃は目を伏せた。

 自分の行動は、徳蔵の傷を抉ってしまったのだ。頭の傷を作ったのは、徳蔵の筆ではない。だが徳蔵が働く店の物で梅乃が怪我をした。それだけで昔のことを思い出すには充分だったのだろう。


「それでも梅乃ちゃんに怒鳴るのはお門違いだよ。守れなかった自分自身を責めるべきだ」


 珍しく弥吉は冷たく言い放つ。彼とて梅乃が怪我したことで自分を責めているのは同じだ。梅乃に当たった徳蔵を許せないのだろう。


「弥吉君は梅乃さんには優しいですね」

「うん、可愛い子には優しくしなきゃ」


 軽口を叩いているようだが、自分を気遣ってくれているのだと梅乃には分かった。弥吉が女性に優しいのは事実ではあるが、包帯を巻いてくれた手は優しかった。


「私、どうしたらいいのでしょう……」


 徳蔵の傷を抉ってしまったことは後悔の念しか起きないが、悔いてばかりでは仕方がない。

 梅乃が俯くと、弥吉に頭をくしゃりと撫でられた。


「いつもどおりでいいと思うよ。あいつもきっと、後悔してる」


 見上げると総兵衛も頷いている。

 梅乃は徳蔵の部屋の方を見つめた。


   *


 柳井堂の二階。そこには総兵衛の自室がある。

 総兵衛はそこで文机に向かい、帳簿付けをしていた。開け放した窓から、春の柔らかい風が吹き込んでいる。


 総兵衛の後ろでは、徳蔵が横になっていた。足元には柳さんも丸くなっている。暖かい日差しが差し込むこの部屋は、まどろむには丁度良かった。

 ふいに徳蔵が目を開けた。その目が総兵衛の瀬を捉える。


「なぁ」

「はい?」


 総兵衛は文机に視線を向けたまま応えた。徳蔵は一瞬言いよどむ。目を見て言うよりは話しやすいかと思って、また口を開いた。


「どうしてあいつを入れたんだ」


 部屋にまた沈黙が落ちた。風の音と、柳さんの寝息だけが二人の耳に聞こえている。

 徳蔵は総兵衛の返事を待った。


「……私は、言霊使いにも見えぬ言霊があると思っています。生まれて紡いできた言葉が積み重なって、今ここに在る理由となる……。そんな風に、梅乃さんは来るべくしてここに来たのではないでしょうか」

「でもあいつには力がない」

「おや、力がないのは私も同じですよ?」


 徳蔵は渋面を作る。そうだけどそうじゃない。総兵衛がいなければ、徳蔵はここにはいないのだ。


「力がないなりにも何かできることはないか、探しているのですよ。私にできることは少ないですけど、多少なりとも梅乃さんの助けになるのなら、ここにいてもらいたいのです。徳蔵君が紡いできた言葉でも、梅乃さんと知り合うことに繋がっていたと思えば出会いは必然だったと思えませんか?」


 徳蔵は黙ってそれを聞いていた。

 店の主は総兵衛だ。彼がそう言うのなら従うしかない。


 だが梅乃のこととなると話は別だ。言霊を呼び寄せるだけなら、これまでどおり墨で充分だ。泥棒を相手にするとしても、女の力は高が知れている。


「心配なら、守ってあげてください。もっとも、梅乃さんは守られるだけじゃ嫌だと言いそうですけど。とりあえずはお兄さんが見つかるまでですし」


 総兵衛は振り返って笑みを見せた。徳蔵は面食らう。


 出て行ってほしい訳ではないのだ。だがそれをうまく言葉にできない。

 結局何も言わず、徳蔵は総兵衛に背中を向けて寝転がった。


 柳さんが「気にするな」とでも言うかのように、総兵衛に向かって尾を振った。

 総兵衛は笑みを深めて徳蔵の背中に目を向けた。

 それはまるで、子を見守る親の目のようであった。

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