『1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編』ネタバレありレビュー その1

『1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編』いかがだったでしょうか。

 収録作品が23編にも及び、さらには一編一編が濃密な話でもあることから思いのほか字数が多くなってしまったため、ネタバレありレビューを二回に分けて掲載することとします。

 O・ヘンリーの作品は、いたるところで翻訳、掲載され、また、その完成度の高さから「物語の雛形」として亜流作品がいくつも作られているため、O・ヘンリーは初読でも、読んでいて「あ、この話、どこかで知ってた」と思った方もいらっしゃったかと思います。

 では、収録作品を振り返っていきましょう。


「多忙な株式仲買人のロマンス」

 いきなり冒頭作から、「何だこれは」という話を持って来ました。

 出所直後、レズリーがすぐに自分のデスクにつかず、ハーヴェイのそばに居残っていたこと。新しい速記者を雇うことになっているという話。物語が始まってから起きていた、いくつもの出来事の謎が最後に明かされるという、ミステリ的なオチに加えて展開もスピーディーで、O・ヘンリーは初読という方には「これがO・ヘンリーだ」と知らしめる名刺代わりのような一編といえるでしょう。


「献立表の春」

 主人公のセアラが使用していたタイプライターのスタンプの癖が決め手になるという、本格ミステリのような結末でした。現代でしたら、こういったメニュー書きはワープロソフトなどを使って製作されるはずのため、機種独自の癖というものが現れることはなく、そもそも携帯電話がこれだけ普及しており、恋人同士のような親密な間柄で連絡が不可能になる状況というのが現実的でないため、この時代ならではの切ないストーリーといえるでしょう。

 本筋以外のところでも、「小説を書こうというときに、こういう始め方はよろしくない」だとか、(物語を書くときに、このように話を逆戻りさせるのは断じてお勧めできない)などの語り手によるメタネタをいきなり投入したりと、遊び心溢れる一編でした。


「犠牲打」

 自分の小説を高評価してもらうため、読者(評価者)に盤外戦を仕掛けるという、ひとつ前の「献立表の春」とは打って変わり、妙に現代に通ずるところのある生々しい話に読めます(笑)。本作で面白いのは、主人公であるスレイトンの書いた小説が、実際に掲載に耐えうるクオリティだったのかが最後まで明かされないという、リドル・ストーリーの要素も持っているところです。間違って主人公の原稿を渡されてしまった守衛の男は、恐らくタイトルだけを目にして中身は一行も読むことはなかったのでしょう。彼の書いた短すぎる書評(?)からそれが伝わります。


赤い族長レッド・チーフの身代金」

 O・ヘンリーの作品集が編まれる場合、そのほとんどに収録されるほどの人気作ですが、正直、私は子供の頃に初めてこの話を読んだとき、あまり好きにはなれませんでした。本作は子供が大人をやり込める話で、ゆえに子供にとって痛快、という解説がされることが多い(本書の訳者あとがきでも同じようなことが触れられていました)のですが、子供の中にも、いえ、同じ子供だからこそ、同族嫌悪的に「粗暴で生意気なガキが嫌い」で、それゆえ本作を愉快に思わない子供の読者も一定数いるのではないかと思います。

 本邦にも子供が大人顔負けの活躍をする、江戸川乱歩の「少年探偵団シリーズ」というジュブナイルの名シリーズがありますが、あれに(私が)嫌悪感を憶えないのは、子供の出来ることにきちんと制限をかけて、本当に危険な場には明智探偵や浪越警部といった大人が立ち会うからです。少年探偵団の力だけでは、大人の犯罪者である怪人二十面相にかなうはずもなく、明智や浪越らの助力を得て初めて対等に戦えるようになっているのです。小林少年をはじめとした探偵団のメンバーたちも、「大人を出し抜いてやろう」などという、功名心や世間を舐めた言動を取ることはほとんどなく、自分たちが明智のバックアップなしでは戦えない、ただの子供だということをきちんと自覚しています。大人の知恵と子供の機転がうまく噛み合い、大人は子供を守りつつ彼らの意思や能動を尊重し、子供は大人を信頼しながら自力で出来るところまで頑張る。大人と子供、両者の理想的な関係が描かれているのが「少年探偵団シリーズ」なのです。

 翻って本作の子供は、自分が痛い目にも遭わせられずに生かされているのは貴重な人質だから、という事情を知る由もなく、わがまま意のままガルバトロン状態。大人二人が本気になったら、子供の自分など簡単にねじ伏せられてしまうということを想像もしません。さらには、子供の父親も「子供を引き取ってほしければ金を寄越せ」などと逆誘拐犯になる非道ぶり。この親にしてこの子ありです。それでも二人の誘拐犯が本当に極悪な犯罪者として描写されていたなら、まだ「痛快」さが感じられる話となったはずですが、本作の誘拐犯は何とも気弱で愛嬌さえある、まるで「タイムボカンシリーズ」の三悪人のような人物造形がされており、読者はどうしたってこの誘拐犯に感情移入して読んでしまうでしょう。O・ヘンリーもそういうふうに読んでもらうことを見越して本作を書いたはずで(大人の作家が大人向けの小説で「生意気な子供が大人をやり込めて痛快」なんていう話を本気で書くとは思えませんから)、「子供の暴力的なエネルギーは犯罪と同じかそれ以上」ということを言いたくて、これを書いたのではないかなと私は思ったりするのです。


「千ドル」

 O・ヘンリーの小説に多く出てくるテーマに「献身」がありますが、本作はまさにそれを前面に打ち出しています。本作の主人公ジリアンは「甦った改心」のジミー・ヴァレンタインに通ずるキャラクターを持つ粋な男です。「形のあるものを失って(手に入れずに)形のないものを得る」それも高潔な生き方だとジリアン青年は教えてくれます。彼は今回のことでミス・ヘイドンに恩を着せてどうこうしようという気はさらさらないため、彼が得た形のないものとは、「愛情」ではなく純粋な「名誉」だけです。さらに言えば、それは誰の目に触れることも、賞賛されることもないため「自己満足」と言い換えてもよいでしょう(「名誉」とは「世間から評価されること」という意味の言葉ですので、その行いが誰にも知られずにいる場合、それは「名誉」とはなりません)。

 これは単純に美談というわけではなく、見ようによっては「究極の打算」と捉えることも可能です。だって、形のあるものはいつかなくなったり壊れたりしますが、形のないものはなくなりも壊れようもなく、永遠に持っておけますから。


「伯爵と婚礼の客」

 ネタを分かってから読み直すと、アンジャッシュのコントみたいです。

 ドノヴァン青年がミス・コンウェイから、マッツィーニ伯爵の写真を見せられたときの、「多大なる関心を持って長いこと眺めた」という一文は、ネタを知ってから読むとまた別の味わいが出てくる名文です。続く「マッツィーニ伯爵は関心を持たれるに値する顔立ちをしていた」というのも絶妙な表現です。

 ちなみに、ここで本当はビッグ・マイクのものである写真を地の文で「マッツィーニ伯爵」と表記しており、これが「虚偽の表記」に当たる可能性があります。解釈によっては、写真はこの時点でミス・コンウェイが「マッツィーニ伯爵」として見せたものであり、ドノヴァンもこの瞬間においては写真の人物を「マッツィーニ伯爵」として紹介されたものであるため、微妙なところですがオーケーとする見方もあるでしょう。地の文の〈マッツィーニ伯爵〉を鉤括弧で囲っていれば全く問題なかったでしょうが、そこまですると読者に「変だぞ」と勘ぐられてしまう可能性があり、話の流れを阻害してしまいますし。本作は本格ミステリとして書かれたものではないため、それも忖度するとしても本当にギリギリの表記で、人によってはイエローカードには相当すると言えるのではないでしょうか。


「しみったれな恋人」

 作中のカーターの言い方だけから、もう「コニー・アイランド」に連れて行かれるとメイシーが決めつけてしまうというのは、いささか思考の飛躍が過ぎるように思いますが、恐らくメイシーは過去に似たような、もしくは同じ目に遭っており、その失敗体験からそういう思考に陥ってしまったという可能性があります。

 現代日本に置き換えれば、「ドイツへ行こう」と言われて「東京ドイツ村」に連れて行かれる、みたいな感じでしょうか。違うか。 


「1ドルの価値」

 19世紀末のアメリカ西部テキサスにおいて、「がらがら蛇」と渾名された荒くれ者メキシコ・サムが、鳥撃ち猟から帰る途中の地方検事リトルフィールドを襲撃する事件があった。その際、メキシコ・サムが持っていたのはウインチェスター銃のライフル弾だったが、対するリトルフィールドは狩猟用の八号球弾ペレットしか持ち合わせておらず、武器の射程に勝るメキシコ・サムから一方的に銃撃を受け、一緒にいた婚約者のナンシーともども、がらがら蛇の毒牙にかかり撃ち殺されるのは時間の問題と思われた。しかし、硬貨偽造事件の証拠物件である、粗末な鉛で出来た1ドル硬貨を所持していたことを思い出したリトルフィールドは、咄嗟にナイフでその硬貨をライフル弾の形状に削りだし、射程を伸ばしたその弾丸を用いて辛くもメキシコ・サムを撃退した。これを外せば命はないという大勝負だった。

 今日においても、のるかそるかの勝負を仕掛けることを「一か八か」というが、これはこの事件の際にリトルフィールドが1ドル硬貨と八号球弾を持っていたことに由来する。

 民明書房刊『拳銃無頼―アメリカ西部決闘史―』より


「臆病な幽霊」

 これは私がまだ純真な子供の頃に一度読んで、中身を理解できなかった一編です(笑)。今はもちろん、「テレンス、何をやってんねや!」と突っ込みながら読めます。ベルモア婦人の「(幽霊が)二度目の好機をみすみす逃してしまうなんて」という言葉に対する「二度目の戦闘のことですか?」というテレンスの返しに特にいらいらさせられますね(笑)。本作は「臆病な幽霊」という邦題で長く親しまれていて本訳もそれに倣っています。これはこれで絶妙なネーミングですが(原題は「A Ghost of A Chance」)、テレンスは「臆病」というよりも、どちらかといえば恋愛ライトノベルの主人公的「難聴」のがあると思います。元祖難聴主人公といえるでしょう。


「甦った改心」

 何度読んでも惚れ惚れするかっこよさ。主人公のジミー・ヴァレンタインが最初からヒーローではなく、元は金庫破りだったという設定も人物造形に深みを与えています(金持ちの金庫しか狙わないという、アルセーヌ・ルパン的義賊要素が強いため、悪漢ピカレスクほど冷たく後ろ暗いものにまでならず、あくまでダークヒーローとして成立しています)。かつての金庫破りが、その技術をもって今度は子供を救うという展開は、「いいも悪いもリモコン次第」の「鉄人28号」や、元々悪の組織ショッカーの改造人間だった「仮面ライダー」などの日本のヒーロー像にも通じており、こういった「悪が転じて正義になる」というガジェットに親しみを憶える、我々日本人にも受け入れられやすいキャラクターだといえるでしょう。

 特に痺れるのは、幼いアガサが閉じ込められてしまった金庫を開ける「仕事」を遂行している最中ジミーは、いつものように軽く口笛を吹くだけで、ひと言の台詞も口にしないということです。べらべらと余計なことを喋らない。男は黙って金庫破り。不言実行なこんなところも日本人の気質に合致しているように思います。

 最後、自分の「仕事」の一部始終を見られていたジミーは観念してベンのもとに向かいますが、しかし、ベンはジミーを見逃します。ここで掛ける言葉も実に粋です。「お前が善行をしたから見逃してやるんだぞ」などの恩着せがましいことを言うでも、「これからはまっとうに生きろ」的な説教をたれるでもなく、自分はあなたのことなど知らないと、そっけなくあしらうだけです。これは別に「ベン・プライスはクールに去るぜ」と格好つけているわけではなく、銀行の柵越しに、まだ「ラルフ」の婚約者であるアナベルたちの目があるための配慮です。あんな常人離れした「大仕事」をやってのけた直後に、刑事である自分が何やら意味ありげに声を掛けているところを見られたら、ラルフが「金庫破りのジミー」であることを勘ぐられてしまいかねませんから。ベン・プライスは人の心が分かる刑事でした。

 とはいえ、最新金庫を何の問題もなく手玉に取る、あれだけの技術を見せられては(特に銀行経営をしているアナベルの父親には)、ラルフの正体がジミーだとばれてしまうことは避けられないはずです。アガサの命を救った功績はあるとしても、はたしてジミーは、再びラルフとしてアナベルの家族に迎え入れてもらえるのでしょうか? なにせ「ジミー・ヴァレンタイン」は、アナベルの父をはじめとする富裕層にとっての天敵です。アナベルが「ラルフ」を想う気持ちにまったく揺るぎはないでしょうが、彼女の周囲がそれを許すのか? ハッピーエンドを保証しない余韻を残したこの終わり方も、O・ヘンリーの抜群のセンスのなせる技といえるでしょう。ここから先の物語は私たち読者の心の中にあります。


「十月と六月」

 まさかの叙述トリック炸裂です。しかも現代ミステリにおいてもバリバリ現役トリックとして使用されている「年齢誤認叙述トリック」です。このトリックは最後に一撃必殺の効果を期待して仕掛けるものですから、むしろこれくらいの短編(ショート・ショートといってよいほどの分量)に凝縮したほうが持ち味を発揮できるのかもしれません。


「幻の混合酒ブレンド

 ライリーとマッカークがなぜこんなことをしているのか? という「ホワイダニット」が話の軸になっている、これもミステリ的な味わいのある話でした。試行錯誤の末に生み出された混合酒ブレンドが思わぬ効果を発揮して、というオチも決まっています。


「楽園の短期滞在客」

 滞在客の正体、という意味でミステリ的な要素があったでしょうか。派手さはない話ですが、訳者あとがきにもあったように、とても愛おしい作品です。


「サボテン」

 分かる人にだけ分かるようにメッセージを残すというのが、ミステリの〈ダイイング・メッセージ〉を彷彿をさせました。ミステリにおいてのダイイング・メッセージは、最終的に分かってもらわないと話が成立しないのですが、本作は分からなかったことで皮肉なストーリーが成立してしまうという、同じようなガジェットを使っていても効果的な使い方、決着のさせ方というのはジャンルによって違うのだなと勉強になった一編です。


「意中の人」

 本作は読者を騙すミス・ディレクションが仕掛けてありました。一見、妻帯者が妻と離婚をして愛人をめとろうとする話に思われましたが、実は腕のいい料理人をスカウトしていただけというオチでした。実際、ハートリーがヴィヴィアンに対して、「あの夕食のことを、ぼくは一生忘れない」という台詞を吐く場面があります。言葉どおりの意味だったというわけですね(笑)。それにしても「あいつと出会ったのが運の尽きだ。以来平穏に過ぎた日は一日もない」とまでいわせる料理人エロイーズにむしろ興味が湧きます。


「靴」

 靴を履かない文化圏の土地に靴を売りに行った際、ダメなビジネスマンは「ここの住人には靴を履く習慣がありません」と嘆きますが、できるビジネスマンは「ここの住人は誰も靴を履いていません!」と巨大市場を見つけたことを喜ぶ、というビジネス書などによく載っている定番話がありますが、あれはこの短編が元ネタなのでしょうか? 真っ先にそれを思い浮かべてしまいました(個人的にはこの話は「できるビジネスマン」というよりは、ただの文化侵略なのではないかと思うのですけれど。現地に履き物を履く文化がすでにあり、しかし、粗末なわらじのようなものを作る技術しかなく、そのため住人がしょっちゅう怪我をしているという状況の中に、頑丈な靴を持ち込んで歓迎された、とかなら分かるのですが)。

 この話の主人公ジョニーは「靴を履く需要」を作り出したわけで、「できるビジネスマン」ではあったでしょうが、現地人に余計な出費をさせるという意味では悪人ですね(笑)。実際にこんなことをしたとしても、住人は靴を買うよりも先に掃除をするだけでしょうけれどね。


「ネタバレありレビュー その2」に続きます。

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