『1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編』ネタバレありレビュー その2

「心と手」

 心温まるいい話です。これ、叙述的にも瑕疵はなく、地の文で一度も「保安官」「犯人」などと明言せず、個人の属性について虚偽は書いていないのですよね。

 本作は裏の見方があって、最後に乗客が手錠のはめられ方から、どちらが保安官でどちらが犯人だったか見抜いていたことが分かるのですが、だったら、同じことが幼なじみの女性フェアチャイルドにも当てはまり、もしかしたら彼女は、二人のうちどちらが保安官で犯人か、分かったうえで受け答えをしていたという可能性もあります。もしそうであれば、気を利かせた保安官、落ちぶれた姿を見せたくなかったイーストン、そして、彼の現状を知りつつ話を合わせたフェアチャイルドと、三者三様の複雑な心情が想像されて物語に新たな深みが生まれます。


「水車のある教会」

 数奇な運命に翻弄された父と娘のストーリーで、もうすこし肉付けすれば感動系ミステリになりそうです。とはいえやっぱり、あまりに普通すぎて、私がO・ヘンリーに求めるものではないなと再認識しました。O・ヘンリーの描く感動とは、本作のようないかにもな舞台装置にはなく、「最後の一葉」や「賢者の贈り物」のような市井の人々が暮らす街角の一角にこそあると思っていますので。


「ミス・マーサのパン」

 絵を描く方の中には、このオチを予見できたという方もいらっしゃるのではないでしょうか。ブルムバーガーが描いていたのは新しい市庁舎の設計図面でしたが、今はこういった図面はすべてCAD(computer-aided designの略称、コンピューター支援設計)でパソコン上で作製するため、本作もこの時代ならではの話といえるでしょう。ブルムバーガーの見せた激高ぶり(気持ちは分かりますが)と、最後の場面でのミス・マーサの冷淡ぶりとのギャップも面白いです。


「二十年後」

 これほど短い物語の中に、二人の男の二十年もの歳月を詰め込んだ傑作です。

 ミステリ的に優れているのは、地の文で一度も登場人物のことを固有名詞で呼んでいないところです。登場人物の中でこの処置を該当させる必要があるのは、最後にジミーの振りをしてボブを逮捕しにきた警察官に対してだけなのですが、彼のことだけを「通りを渡ってきた男」や「背の高い男」と代名詞だけで呼んでは文章全体に違和感が生じてしまいます。それをカムフラージュするために、三人の登場人物全員に対して代名詞呼びを徹底させたということなのでしょう。

 二十年越しに旧友に会うため、約束の場所にやってきたというのに、かつての友が指名手配犯と化していたことを知ったジミーの心境をおもんぱかるとやるせないものがあります。それでも彼は、犯罪者に身を落としていようが、友が約束を忘れずにいてくれたことを嬉しく思ったに違いありません。真相を知ったボブの心境が語られないまま物語が終わるのも、いい余韻を残しています。


「最後の一葉」

 O・ヘンリー最大の有名作品にして、短編小説のマスターピースである本作。これも何度読んでも胸に響いてきますし、泣けます。考えさせられます。

 私が子供の頃に本作を初めて読んだとき、老画家ベアマンが「最後の一葉」を描く原動力となったのは、ジョンズィを救いたいという義侠心からだったのだろうと解釈していましたが、年齢を重ねるにつれ、それはどうも違うのではないか? という思いを抱くようになりました。嵐吹きすさぶ中で壁に葉を描くという暴挙にベアマンを駆り立てたもの、それは、まだ若いジョンズィが、何の根拠もない妄想に取り憑かれて(言い訳にして)病との戦いを諦めてしまっていることへの呆れ、あるいは怒りだったのだろうと私は思います。実際、スウからジョンズィの「愚にもつかない空想」を聞かされたとき、ベアマンは悲しむでもなく哀れむでもなく、まっさきに怒りを露わにしました。ですが、ベアマンはジョンズィに面と向かって「くだらない妄想に捕らわれるな」などと説教するのでなく、自らの行為でジョンズィの抱えている問題が「愚にもつかない空想」であることを証明しました。ここにも「甦った改心」のジミー同様、不言実行の精神が息づいています。

 ベアマンの行為は、それがたまたま嵐の中で行われたために結果的に彼の命を奪う原因となってしまいましたが、その行為自体(壁に葉の絵を描く)は英雄的なものでも犠牲的なものでもない、画家としてはごく当たり前に行える行為に過ぎません。ベアマンは、医者でもなく金持ちでもないため、医学的な治療を施すことも、金銭的に助けてやることも出来ません。ですが実際にジョンズィを救ったのは医術でも金でもなく、余命幾ばくもない売れない画家ベアマンが描いた「生涯の傑作」でした。ベアマンは天国で、「お前が勝手に抱いている妄想なんて、老いぼれ画家のわしが、ちょこちょっと筆を振るだけで消し飛ぶ程度のくだらないものだったじゃろ?」と笑っているかもしれません。


 本作には、ベアマンが壁に葉を描いている実際の場面描写が一度も出てこず、ベアマン自身が告白してもいません。それなのに、スウはどうしてそのことを知ったのでしょう。スウは、ベアマンが「着てるものも靴もびしょ濡れ」であったという状況と、「まだ火のついてるカンテラ」「梯子をいつもの置き場所から引きずっていった跡」「散らばったままにしてあった何本かの絵筆」「黄色と緑の絵の具を混ぜたパレット」などの物証に加えて、わざわざあの壁に(ジョンズィのベッドから見える、あの壁に)葉を描く「動機」のある人物など彼以外にあり得ないという心理的証拠を組み合わせて、壁に葉を描いたのがベアマンだと「推理」したわけです。手がかりをロジカルに組み立てていき真実にたどり着く。これは紛れもない本格ミステリの構造です。

 その「本格ミステリ的」という視点で読んでみると、ミステリに明るい方の中には、本作には「伯爵と婚礼の客」に共通する「ルール違反」があるのではないか? と思った方もいらっしゃったかもしれません。それが何かといいますと、「ベアマンが壁に描いた絵である葉のことを、地の文で〈葉〉と言い切っている」ことです。「絵の『葉』を、まるで『本物の葉』であるかのように記述している」つまり地の文に虚偽が書かれている。これは死んだふりをしている人物をして地の文で「死体」と言い切るようなもので、本格ミステリ的には一発レッドカードもののペナルティなのではないか? 何ということでしょうか、文学界の至宝である傑作「最後の一葉」が、ルール違反を犯したうえに成り立っている作品だったとは……。マラドーナの「神の手」は許されても、これは許されないのではないでしょうか?

 いや、ご安心下さい。この書き方はルール違反とはなりません。レッドどころかイエローカードも貰いません。なぜかというと、ここでいう「葉」とは、「(壁に描かれた)葉」もしくは「(絵の)葉」であり、括弧内を省略して表記しているに過ぎないからです。実際、これに似た表記を使って叙述トリックを仕掛けているミステリも存在します。「そんなもん、書き手の胸三寸でどうとでもなるやんけ」という突っ込みが聞こえてきそうです。「せやったら、『死体の振りをした人間』も、あるいは『女装した男』も同じことやないか」という二の句も耳に入ってきそうですが、違います。何が違うのか。感覚的に分かっていただけたのではないでしょうか。そうです、「省略してよいのは、実体以外の言葉に限られる」ということです。「壁に描かれた葉」の実体は言うまでもなく「葉」です。対して「死体の振りをした人間」の実体は、あくまで「人間」です。「壁に描かれた」も「死体の振りをした」も、それぞれ「葉」「人間」を修飾しているに過ぎません。と、ここまで書いて「せやかて、壁に描いてある『葉』はあくまで描かれたものであって『本物の葉』とちゃうやろ。一人称の語り手がそれを『本物の葉』と勘違いしたならええけど、三人称の地の文で絵の葉のことを『葉』と言い切っていいんかい?」という疑問を持った方もいらっしゃるでしょう。はい、いいんです。

 例えば、AとBの二人が同じ風景画を鑑賞していて、Aがそこに描かれた花の見事さをBに伝えようとしたとします。そのとき、Aは何と言ってそれを伝えるでしょうか。「この、見事だと思わない?」と言うと考えられますし、皆さんも恐らくこれと似たような表現をするのではないでしょうか。わざわざ「この花の絵、見事だと思わない?」とか、ましてや「この花に見えるように塗ってある絵の具、見事だと思わない?」とは言わないはずです。確かにそこにあるのは物質的には「絵の具」ですが、それを見る全員が全員「花」として認識するはずです。これはアナログで描かれた絵画だけでなく、デジタルイラストでも同じことです。「花に見えるピクセルの集合体」とは言いません。そこにある「実体」はあくまで「花」であって、絵の具もピクセルも、その「花」を実体化するための材料、手段、つまりは「修飾」に過ぎないからです。そしてこれは、Aの口から出てきた言葉ではありますが、AとB共通の理解下において発せられた言葉であるため、不特定多数(読者)の共通理解下において書かれる「地の文」と同じ性格を有するものとなります。これをAとB以外の、たまたまそばを通りがかった他人が耳にしたとしても同じはずです。「絵の具で描かれた花」をして「花」と言い切っても、誰も疑問には思わないでしょう。「いや、違うよ、それは『花』じゃないよ。『花に見えるように塗られた絵の具』だよ」と突っ込みを入れてくる人はいません(よね?)。


「伯爵と婚礼の客」のときのマッツィーニ伯爵の写真は、ミス・コンウェイにとってはマッツィーニ伯爵でも、ドノヴァンからして見ればそれは紛れもないビッグ・マイクです。さらにこの写真は、ミス・コンウェイが写真屋から買ってきて、勝手にマッツィーニ伯爵だと称しているもので、そもそも「マッツィーニ伯爵」なる人物自体が彼女の想像上の産物だったわけですから、この写真の「実体」が「マッツィーニ伯爵」でないことは明白です。したがって地の文でこの写真を指して「マッツィーニ伯爵」と表記するのは非常に微妙な問題で、「伯爵と婚礼の客」の解説で「イエローカード」と書いたのはこれが理由です。


 考えるに「実体」とは、「見方によって変化しないもの」と定義することが出来るでしょう。絵画の花をあくまで「絵の具の集合体」としてしか見ないのであれば、それをスキャナーで取り込んでディスプレイで鑑賞したら「絵の具の集合体」ではなく、「ピクセルの集合体」に変化してしまいます。本物でも絵でも写真でも、「花の姿形をしたものは『花』なんだ」と私たちは暗黙に共通理解をしています。その実体は変化しません。ただ、ここには「外力が加わって状態が変化させられない限り」という条件が加わります。「外力が加わる」とはどういうことかというと、例えば、花の絵を細かく切り裂いてしまったという場合、こうなるともう、それを「花」と表記することは出来なります。「絵の具(とカンバスの破片)の集合体」に実体が変化してしまいます(死体の振りをしている人を殺せば、本物の死体になってしまうように)。こう考えれば、「壁に描かれた葉」を「葉」と表記するのはよくて、「死体の振りをした人間」を「死体」と表記するのはいけないということが分かってきます。前者は「花」、後者は「人間」がそれぞれの実体だからです。


 長くなりましたが最後にもう少しだけおつきあい下さい。

 若者というのは、とかく悩みがちなものです。大人からしてみれば「どうしてそんなことで」と大人が呆れるようなことでも、まるで世界の終わりのごとく受け止めてしまうものですし、「常識的に考えてみれば何の根拠もないこと」を本気で気にしたりもします(どちらも私も経験がありますから)。ですがそれもやむないことで、若者はまだ人生経験が少なく、結果大人と比較して世界が狭いものですから、同じ悩みでも相対的に大人よりも大きく、深刻に捉えてしまうのです。ある悩みを数値化して、それが「8」だったとした場合、大人の経験、世界の許容が「100」あるとしたら、それはたかだか8%の悩みでしかありませんが、まだ「10」しか世界の許容がない若者にしてみれば、それは主観的に人生の80%という膨大な量を占める、巨大すぎる悩みとなってしまいます。「根拠のないことに深刻になる」も同じです。若者は経験が少ないため、「それが自分にとってどんな意味を持つか」「その考え方は果たして正解か」を正確に計る尺度が曖昧なのです。ですので、世の中の大人はどうか、若者、子供のことを自分と同じ世界許容量、尺度で計らないでいただきたいと思います。たとえ若者が信じる思い込みが「愚にもつかない空想」だったとしても、「それは違うぞ」と頭ごなしに否定したり、怒ったりしないでいただきたいのです。それこそベアマンのように行動で示すべきです。言葉ではいくらでも不可能事、嘘を言えますが、行動は違います。ベアマンはジョンズィに「お前の考えていることはくだらない妄想だ」と一喝などせず、逆に彼女の妄想を利用した、機転を利かせた見事な方法を編み出して問題を解決しました。これこそ大人の知恵、余裕というものではないでしょうか。世の中の大人たちは、かつて自分にも世界の許容量が「10」しかなかった時代があったことを、時折思い出すべきだと私は常々思っています。


「警官と賛美歌」

 人生はままならない、というひと言では表現しきれないほど皮肉な結末の話です。ソーピーは当初の念願どおり、きっちり禁固三カ月を言い渡されたのですから、自暴自棄にならず、出所後は賛美歌を聞いたときのような気持ちで娑婆に戻ってきてくれることを期待します。

「枯れ葉が一枚、ソーピーの膝のうえに落ちてきた。それは冬将軍ジャック・フロストの名刺だった」という、冬の到来を知らせる比喩表現も美しいです。原文にもあると思われる、西洋の雪の妖精「ジャック・フロスト」を「冬将軍」のルビに使ったセンスも素晴らしいです(新潮文庫の『O・ヘンリ短編集(一)』では、当該箇所は「ジャック・フロスト氏(訳注 霜の意)」とあります)。


「賢者の贈り物」

 ため息が漏れるくらい美しい話です。「贈り物というものは、それ自体にではなく送り主の想いにこそ意味がある」と杓子定規に結論づけてしまえないほど、この話からは美しさがほとばしっています。特に素晴らしいのは、亭主であるジムの言動です。先祖伝来の金時計を売り払ってまで手に入れた櫛。帰宅して、その櫛が飾られるべき(いえ、櫛によってより美しさを引き立てられるべき)妻であるデラの髪がなくなっていることを目にしたとき、ジムは「怒りではなかった。驚きでも、非難でも、恐怖でもな」い眼でデラを見て、ただひと言「髪を切っちゃったんだね?」と口にするだけでした。そして、デラを抱きしめてから、帰宅したときに「ぼくがどうして呆然としてしまったのか」それを開けてみればわかる、と小さな包みをテーブルに置きます。プレゼントが櫛だと分かったときにデラが口にした「わたしの髪は伸びるのがとっても速いの」という台詞も泣かせます。そして、デラからの自分へのプレゼントもまた、すでに失ってしまった金時計に付ける鎖であったことを知ったジムは、事も無げに「ぼくたちのクリスマスの贈り物は片付けて、しばらくそのまましまっとこう。(中略)さて、そろそろ肉を焼いてもらおうかな」と、まるで問題にもしません。この大物感。

 もし、自分の(あるいは互いの)プレゼントが無駄に終わってしまったことに対して、ジムが「もったいないことをした」と嘆き、あるいは「どうして髪を切ったりしたんだ」とデラを非難していたら、このプレゼントはさしずめ「愚者の贈り物」とでも言うべき後味の悪い、どう頑張っても喜劇にしかならない終わり方をしてしまっていたことでしょう。ジムがこの「事件」を面白がり、何も気にせず終わらせたからこそ、夫婦間の奇妙なプレゼント交換は「賢者の贈り物」として輝きを放ち、読者の心を揺さぶることとなったのです。期せずして起きてしまったプレゼントのすれ違い。これを美しい「賢者の贈り物」に昇華させたのは、ジムの寛容であったと言えるのではないでしょうか。同じ事象、結果でも、捉え方、心の持ちようによって美しくも醜くもなる。そんなテーマも本作には込められているのだと思います。

 最後に余談になりますが、私は本作に感化されて、密かに愛し合う二人が示し合わせることないままに互いの仇敵を殺害してしまい、さらに偶然にも双方の仇敵の死亡時刻にお互いの完全なアリバイが成立してしまうことで、予期せぬ交換殺人が成立してしまう「賢者の交換殺人」というミステリを考案したことがあるのですが、元ネタである本作の美しさを汚してしまい、さらには殺人を美化するような内容になってしまうかなとも思い封印しました。そもそもタイトルで盛大にネタバレしていますしね(笑)。もしかしたら誰かがすでに書いているかもしれませんが。



 さて、今回は変則的に、ミステリとして世に出ていないO・ヘンリーの作品をミステリ的に読み解いていくという作業をしてみたわけですが、結果、当初思っていた以上にミステリの味がブレンドされていることに驚き、また、同じ作品でも、以前に読んだときとは違った感想、違った見方も出来ることにも気付かされました。そういった小説の捉え方や解釈などの読書論のような難しいことを持ち出すまでもなく、純粋に各ストーリーは完成度が高く面白いですし、O・ヘンリーの魅力を再確認することも出来ました。

 それでは、次回の本格ミステリ作品でまたお会いしましょう。

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