Other Format Hero~ラプラスの魔(前編)

 ――マラソン大会を取材せよ。


 編集長の素っ気ないメールには大会名と地図と選手の名前が記されていた。


 *


 ふらふらになりながらもゴールに入ってくる一流と呼べる選手達を尻目にフラッシュは焚かれ続けている。フラッシュの中心で落ち着きなく目線を彷徨わせる青年は声でもかけられたのかふと眩しげに振り返った。

 ゴールテープが切られてから一〇分ほどが経過していた。青年は既に息も整っているようで、人垣の向こうで気弱そうではあるものの淡い笑みさえ浮かべている。四二.一九五キロメートルを走り抜けた後にはまるで見えない。

 これが勝者というものか。加世子はカメラのレンズ越し、二〇倍の彼方にアジア系の小柄な青年を眺めながら一人思う。時折シャッターを切ってみながら、文字通り彼方の人だと溜息をついた。

 前評判通りの走りをし、世界新に届くかという記録を出した時の人の周囲にいるのは現地(アメリカ)のテレビ局やら大手出版社の記者達だ。力もコネもないフリーライターでしかなく、身長も胸も尻もなく魅力にも自信の無い加世子に割って入れる隙間はなかった。結果、ゴール地点から離れたビルの屋上で望遠レンズを向けている。

 へくちっ。

 くしゃみをすると手元がぶれる。加世子は人類史に残る偉大な軍事発明の一つたる使い捨てカイロを両手で掴み鼻水を一度啜った後で、三脚の上のカメラへと向き直った。

 青年は会見場へ移動していた。正面からのバストショット撮り放題は拘って場所を探した成果である。向けられたマイクに答える声は聞こえない。読唇なんて高等技術は持ち合わせていない。

 加世子はピントを合わせていく。青年は左手を挙げている。こめかみを掻くのは癖だろうか。ベンチコートの袖からは細い腕と、妙に分厚いリストバンドが覗いている。

 何を言われたのだろう。ふと青年が笑顔を見せた。腕をおろし、膝の辺りを叩く仕草に見えた。

 怪我の跡か。加世子はカメラを僅かに動かしてみる。どうにか跡を撮れないものか。

 と、その指を止めた。

「あ」

 ファインダーから顔を上げる。肉眼ではとても人の顔など判別できない。瞬きしながら再びファインダーを覗き込む。


 記者達に邪魔にされながら、見覚えのある男の顔が苦笑いと共に人波から押し出されていく所だった。


 *


 アジア系は幼く見えると言われるが、加世子から見れば欧米系、アフリカ系は体格が良く大人びて見える。いや、大人にしか見えない。グラウンドで思い思いにウォーミングアップしたり流したり、準備を進める彼らは皆学生のはずだった。眺めている加世子は一応四年制大学を随分前に卒業している。

「君、学校見学? それとも、ハルを見に来たの?」

 そう声をかけられることもしばしばだった。

「え、あ、け、見学です!」

 大きな手が肩に乗っていた。頬に触れる化繊の感触は大ぶりのリストバンドか。距離が近い。見上げなければ顔が見えない。

 正直、身の危険を感じることも。

「トリス、遅い!」

 トリスと呼ばれた白肌の大男は大げさに肩をすくめる。マネージャーらしい女性の二度目の怒鳴り声で、ウィンクを残して去って行った。

 ハル……フルマラソンで世界記録に迫った青年、ハロルド・ヤングを見に来たらしい野次馬の視線を避けるように加世子は足早に移動する。ざわついた空気を感じて視線を戻せば、アジア系の小柄な姿がウォーミングアップを始めていた。長距離走の選手らしく引き締まった肢体は細すぎるくらいに見える。不似合いに大きなリストバンドを両腕にはめて、膝に手を置きたっぷりと足筋を伸ばす。手の下、膝に手術跡があるはずだが、この距離では解らなかった。

 大会から一週間経ち取材のカメラは落ち着いていた。落ち着いていたといっても、まだちらりほらりと見て取れた。だからと言うべきだろうか。インタビューのアポイントメントは加世子にまで回ってこない。加世子や野次馬が視線を向ける先で、スタイルの良い女性記者がカメラと共にトラックへと踏み込んでいく。大学発行の取材証が胸元で揺れていた。

 加世子はつい溜息をつく。取材証もなく、カメラも持ち合わせていない加世子は、ハイスクールの生徒だと言っても通ってしまいそうだった。噂話を集めるには、その方が都合が良いと言えなくもなかったが……プライドとか言うモノでは腹は膨れないことぐらいはもう知っていた。

 ヤングは淡い笑顔のまま、記者の胸に圧されるようにマイクへ何事かを答えている。ヤングの声は聞こえない。聞こえてきたのは。

「怪我による挫折からの、不断の努力での才能開花……には見えないねぇ」

 耳を疑い、目を瞬いた。反射のように振り返る。

 少しばかり長めの揃わない黒髪、祖国で見慣れた黄色い肌。TPOに合わせたのか、やや野暮ったく見えるネルシャツにデニムパンツ。あの時と同じ、大きめのウエストポーチ。

「久瀬、さん!?」

「久しぶりー」

 加世子に負けず劣らず見学に見えてもおかしくない童顔がにこやかに手を振っている。

「なんで!?」

「加世子ちゃんはクビにならなかったみたいだね。良かった良かった」

「余計なお世話です! 私の事より、」

「あ、ほら、走るよー」

 久瀬はトラックを指し示した。口を動かしかけた加世子は、モゴモゴ余韻を残しつつトラックへと視線を回す。

 ヤングは古傷を気にすることなくフルマラソンを走ったままに、トラックを駆け抜けていく。

「きれい」

 小柄ながらも無理のないストライド走法だった。手足を伸ばし、飛ぶように駆け抜けていく。

 二年前、練習中の事故で膝靱帯を断裂した。若くして選手生命は終わりと言われながらも、半年の後、インターハイスクール競技会にて復帰した。リハビリ期間を鑑みれば、あり得ない回復だと世間を驚かせたという。そして驚かせたのは、回復の事実だけではなかった。

 それまでのヤングは、陸上選手としては恵まれているとは言えない体躯もあり、パッとしない選手だったと言われている。事実、公式の記録に彼の名は無く、名簿に子供市民ランナーとしての登録があるばかりだった。

 復帰戦の前評判は知れない。注目がなかった証拠でもある。それが、一夜にして一八〇度変わるのだ。

 ヤングはハーフマラソンの大会記録を大幅に更新し、二位以下に大差を付けて優勝した。世界記録にも迫る数字だったという。加世子の見た写真では、若いと言うより幼い二年前のヤングは、喜びよりも戸惑いが強い曖昧な笑みを浮かべていた。

 才能の開花。誰もがそう評した。厳しいリハビリに耐えた証。誰もがそう讃えた。注目されるままにヤングは有名大学への進学を決め、大会でも快進撃を続けている。インターカレッジ、全米選手権、アメリカ大会、そして、世界記録とオリンピック――。

「教科書通りの走り方だね」

 僅かに見上げた久瀬の眼差しは静かだった。あるかなしかの笑みを口元に佩き、じっとトラックを見つめている。

 と、ヤングの名が大声で呼ばれた。監督だろうか。年かさの男性がカメラを引き連れ近寄っていく。足を止めたヤングは息を乱すこともなく。マネージャーの差し出したタオルをただ冷えないようにと肩にかけた。

「マラソンで強くなる要素って知ってる?」

 久瀬は踵を返した。加世子は一度トラックを見る。

 取材している側のカメラに入ったロゴに見覚えがあった。誇らしげに邪魔そうに風に揺れる取材証を押さえながら、マイクをヤングへと向けている。

 加世子はつい、溜息をこぼす。加世子にはあの場へ割って入る資格がまだない。

「スタミナですか?」

 小走りで久瀬の後を追う。久瀬は歩みの速度を変えない。

「疲れないこと。乳酸を溜めないこと。乳酸を出す糖質を極力使わないこと」

「糖質制限とか聞きますね」

 それが? 並び見上げる加世子の視線に久瀬は答えを返さない。

 ふと、加世子へ視線が投げられた。

「加世子ちゃん、取材許可っていつ?」

「一週間後、ですけど」

 反射的に答えて、しまったと思った時には遅かった。

「じゃぁ、一週間後に」

 久瀬は軽く片手を挙げると、あっという間に人混みの中へと去って行く。

「久瀬さん!」

 呼び止めようとした加世子の声が、無意味に校舎に響き渡る。


 *


 外国というのはそんなにも……心くすぐるようなものだろうか。

「ずばり、ヤング氏の強さの秘訣は何でしょうか」

 ウォールストリートジャーナルやらCNNやら、メジャーどころであれば解らないでもない。

 加世子はマイクの録音音量を調節する。耳で聞きながら、くぐもらない最適な位置を探す。

「疲労蓄積が少ないことだね」

 しかし、加世子の差し出した名刺の誌名はNHKでも日経××でもなんでもない。三流とかゴシップとか、そんな単語を冠する雑誌だ。

 だからこそ、見くびられた、なら話はわからないでもない。

「彼はまさしく天才だよ。糖代謝より脂質代謝に優れ、結果、乳酸を排出しない。成長によりスタミナを付ければもっと強くなるだろう」

 毎日毎日、幾度も同じ質問をされているだろうに、監督は飽きることもなくそう語る。

「この大学への進学は監督のラブコールがあったからと窺っていますが」

「あぁそうさ。是非にと誘ったんだ。リハビリが順調に進んでいると聞いてね。インハイは決め手だったよ。彼の才能は見えづらいが、私はもちろん気付いていた」

 加世子はふと監督を見る。自信に満ち溢れ悦に入ったように話し続ける監督は、加世子の視線を気にも留めない。

「……慧眼なんですね」

「私は医学も少し囓っていてね。医学的に見ても彼の身体的特徴は持久力に富み長距離に向いている。事実、」

 そんなものかな、と加世子は思う。思うだけで顔には出さないように努めて笑顔を保つ。モンゴロイドは遅筋が発達していると言われる。昔からマラソン競技では十分に世界と戦ってきた。

 監督は己を誇示するように語り続ける。マイクはONのまま。自動書き起こしアプリにかけてから要点を抜き出そう。そんなことをぼんやり思う。

「彼は長距離界を担う存在になるだろう」

「そろそろ写真を撮らせていただいてもよろしいですか」

 切れたと思ったところで加世子はにこやかに促した。まだしゃべり足りなそうな監督は、しかし、否とも言わない。

 面会に使用する応接室から移動する。移動しながらも監督は監督としての矜持……自慢話にしか聞こえなかったが……を蕩々と語る。曰く、選手は未成年も多く、食事から生活習慣から全て監督自ら管理している。選手の健康管理にももちろん気を配っている。病院と契約し、定期的な健康診断、メンテナンスはもちろんのこと、ベストを生み出すための研究にも協力し……。

 はぁ。えぇ。凄いですね。大変ですね。選手の皆さんは幸せですね……。加世子は適当な相槌を適当に挟みつつ足を運ぶ。

 廊下を折れ、エントランスを並んで出る。ようやく入手した取材証が風に揺れる。トラックへと並んで向きを変えたとき、加世子は口元ばかりに笑みを浮かべた野暮ったい童顔を視界に収めた。

 やあ。野暮ったい手が軽く上がる。もちろん取材証など付けていない。

「練習のメニューは皆さん一緒なんですか」

 もちろん、無視する。

 通り過ぎれば幽かについてくるような足音が聞こえる。

「ハルが特別だからと言って特別扱いはしていない」

 土手を上りフェンスを潜る。ウォーミングアップを始めていた選手達は一瞥すると、関係ないとばかりに自身の動作の続きを行う。

「ただ、彼には古傷があるからね。メンテナンスは少しばかり密にやっているよ」

 ハル!

 ただ一人、ハロルド・ヤングは屈伸を中断し小走りに近付いてくる。遠くから何度も目にした小柄な体躯、思ったよりも小さな手術痕が左膝に確かにあった。

 正面で数枚。走っているところを数枚。

 監督の指示にヤングは言葉少なく応えていく。主導権を握られたまま、加世子は慌ててシャッターを切る。

 教科書通り。久瀬の言葉の通りヤングは癖のないフォームで駆け抜けていく。何度も見たとおり、古傷などないかのように。

「彼は素直な走りをしますね」

「君は」

「大村の連れです」

 カメラを支える手がブレかけて、呼吸を一つ整えた。――否定したらそれはそれでややこしくなりそうで。

 ヤングを撮ることに集中する。加世子の腕では、とにかく数を撮ってアタリの一枚を引き当てるしかない。

 走って行く後ろ姿を追いながら、ふと、ファインダーから視線を上げた。

「リハビリの時に走り方から指導したんだ。変な癖がつくよりずっといいだろう?」

 グラマラスなバスト、くっきりとくぼんだウエスト、ジャージに隠された足は長く引き締まっているのだろう。そのままチアリーディングの中にいてもおかしくなさそうなマネージャーはヤングをじっと見つめていた。抱えたファイルに記録を取るでもなく、順調な練習風景にはそぐわない表情で。……どこか傷ましげな。

 何故?

「手術跡をみせて頂いても?」

 頷くと監督はヤングを大きく手招きする。きょとんと振り返ったヤングは素直に指示に従った。マネージャーは視線を逸らすと自身の仕事へ戻っていく。

 膝の両脇に点のような。膝の少し下、横に一本。加世子はお付き合いでシャッターを切る。

「靱帯断裂だ。ただ闇雲に走れば良いと言う非科学的な練習の結果だな」

 間近で見た足はやはり細く、手術痕以外に傷はなく。筋肉も足りていないかのようで。

 成長途中と言えば、聞こえは良いが。

 ――Command Voltage UP

「え?」

 パチン――。

 音がした。確かにした。けれどなにもない。何が変わった訳でもない。首を捻りつつ覗き込んだファインダーの。視界は真っ暗だった。

 顔を上げた。何事か。監督の、ヤングの視線が音を求めて彷徨っている。

 久瀬を見る。彷徨った視線が、加世子に止まる。誤魔化すような笑みを連れて。

 カメラを覗く。Powerスイッチ、フォーカス操作、ピント操作。外部モニタへの表示操作。うんともすんとも、言うことなく。

「カメラ……」

「おや、故障かい?」

 やれやれ不運だね。そんな言葉を落とされながら、加世子はメモリカードを引き抜いた。電源は入らない。電池を抜き差ししてもダメ。充電済みの換えの電池でも反応無し。

「そういえば監督は、不正の噂をご存じですか?」

「神聖なスポーツに不正とは、穏やかじゃないね」

 押しても引いてもねじっても。開けても閉じても入れ替えても。

「ですよねー」

「で、どんな噂かな」

 反応はなく、電流が流れた気配もなく。

「特別な装具を纏っているって噂です。検査の目をすり抜ける、特別な」

「装具か。不正はいかんが、興味はあるね――」

 願い届かずソフトウェアではなく、回路が焼き切れでもしてしまったか。だとしたら、メンテナンスへ行かないと……。

「そうそう、ハロルド・ヤング君。ジャパニーズ『お守り』 次の大会も頑張ってね」

 久瀬が何かを渡している。お守り。懐かしい響きだ。そう、こんな時に縋りたいと願う神様の。

「今日は、ありがとうございました!」

 勝手に久瀬は頭を下げる。加世子の腕を引き、問答無用で歩き出した。


 *


 過電流による素子の焼き付き。メンテナンスの窓口で担当者は首を捻った。

「これ、どうされたんですか? いえね、あまり見かけない故障なんで」

 そして影響はメモリカードにも及んでいた。


 *


 レコーダーは問題なく再インタビューは必要なかった。写真のみ撮り直しで取材を再度申請する。社への連絡は当然不調。『不注意故障なんだろう?』返せる言葉はなかった。

 機材を揃えて再び大学まで足を運ぶ。バスを降り、そこで背後の気配に初めて気付いた。

「久瀬さん」

「こんにちは。加世子ちゃん」

 にこり、と加世子は笑んでみせた。にこり、と久瀬は笑顔を返す。

「カメラが壊れちゃいまして」

「それはご愁傷様」

 遠い校舎へ向けて歩き出す。さも当然と、久瀬は後からついてくる。

「メモリカードもお釈迦でして」

「あら、残念だったね」

 スピードを上げる。カツカツカツ。踵がリズミカルに音を立てる。

 きゅ、たす、きゅ。久瀬のスニーカーの足音も、全く遅れずついてくる。

「カメラを買って取材を再申請したんですよ!」

「良いカメラあった? ニューモデルが出たばかりだから型落ちが安く買えたんじゃない!?」

 走り出す。何事かと学生達が振り返る。

 足音は、ぴたりと余裕でついてくる。

 角を曲がって五〇メートル。事務棟のエントランスのその前まで。

 窓口前に着く頃には、加世子の息はすっかり上がりヒールで不安定な足元は拍車をかけてフラフラだった。

「な……で、つ……て、くる……すか」

「また一緒させて欲しいなーって」

 にこ。息一つ乱すことなく汗一つかくことなく、久瀬は白々しい笑顔を浮かべる。

 はっきり言って可愛くない。加世子は柱に縋り顔を背ける。

 誰のせいだと思っている。心の中で繰り返す。言葉には出さない。言葉に出す意味は無い。白々しい態度は認めている証拠だろうが、問い詰めてもしらばくれるだけだろう。

「何が、目的、ですか」

 振り返る。久瀬は深い笑みを浮かべている。

 しばらく睨む。困った色を浮かべながら、久瀬は徐に手を伸ばした。

 加世子の頭に。小さい子供をあやすように、ぽん、ぽん。

 ――世間知らずなお嬢様が立ち入る世界じゃないぜ?

「やめて下さい!」

 鳩が豆鉄砲を喰らった顔。きょとんと見返す久瀬を加世子は目一杯睨みつける。手が離れたことを幸いに、髪を整え衣服を直す。

 久瀬など構ってはいられない。ここへは取材証を受け取りに来たのである。


 少しばかり距離をとりつつも付いてくる久瀬に、もう何も言わなかった。久瀬には久瀬の理由があるのだろうし、加世子には加世子の目的がある。

 土手への階段へ足をかけ、フェンスを潜る。ヤングを探そうと視線を巡らし、おかしいと足を止める。

 選手は一カ所に集まっていた。その中にもヤングらしき姿はなく、中心に美人マネージャーが座り込んでいるのが見て取れた。

 何かあったのだろうか。あっちを向きこっちでしゃべり、ヒステリックにまくし立てる者もいる。欧米系の長身の選手がマネージャーを立たせて椅子へと座らせた。

「あの」

 選手の一人が振り向いた。訝しげな視線の後、取材証に舌打ちする。

「あの……」

「取り込み中なんで!」

 視線が交わされる。長身の選手がおざなりに頷いて返す。溜息のような声があちらこちらから漏れ始めると、面倒くさそうに三々五々と選手達は散っていく。

「取り込み中、ですか……?」

 選手達が散って空いた場所へと入っていく。マネージャーは顔を上げない。長身の選手は加世子へ肩をすくめてみせた。聞こえ続けた草を踏む音が少し離れた位置で止まる。

「ちょっとね。取材?」

 取材証を選手に示す。ちらりと視線を投げかけただけで、興味なさげに加世子へ戻す。

「撮影のみの許可を頂きました。他の方の練習の邪魔はしませんから……」

「ハルも監督もいないよ」

「準備中ですか?」

 やれやれ、再び肩を大げさな仕草ですくめてみせる。

「今日は戻ってこないんじゃないかな」

「え?」

「ハル……ハロルド・ヤングは、不調で。今日の練習は欠席、です」

 マネージャーだった。パイプ椅子に腰掛けたまま、袖口を目元を拭い顔を上げる。目が赤い。

「撮影だったら、ヤングがいないと意味が無いでしょう?」

 風向きがふいと変わった。マネージャーの長い金髪が煽られて舞い上がる。ばたつく取材証を慌てて押さえ、加世子はふと違和を覚える。

「不調って何があったの」

 久瀬だった。さらりさらりと草を踏む音が近付いてきて。濡れた土の音を響かせ、そこでとまった。

「さてね。よくあることだからな」

「病院に行ったってことですか?」

 マネージャーの視線が揺れる。不安げな色が差す。一度目を閉じ再び開くと、気の強そうな光がその目に戻っていた。

「そうです。ですから今日はお引き取り下さい。こちらも忙しいので」

 選手の袖を引く、トラックへと声をかける。話は終わり用もなかろう。伸びた背筋が言っている。

「病院って、中央総合病院? 大学病院じゃないわよね?」

 That's right!(そのとおり) 長身の選手だった。リストバンドをはめた手をひらりひらりと振ってみせ。マネージャーについて風のように走って行った。

「中央総合?」

 二人を見送った加世子は踵を返した。確かに、取材の意味はなかった。

 すれ違いざまちらりと見る。どこからどう見ても日本人の横顔が真剣な目をして何所でもない場所を睨んでいる。

 小さく息が漏れる。子供扱いはかなりムカつく。けれど。――何事かを考えているらしい横顔は、嫌いじゃない。そう思う。

「そうよ。ヤングが怪我の時に入院した病院」

 ヤングの経歴は他誌で概ね暴かれている。加世子はヤングを追うと指示された時、あらかたの情報を押さえている。陸上部が契約し共同研究を行っているのは中央総合病院だった。ヤングの主治医と考えれば不思議ではないのかもしれないが、陸上部全体と考えると不自然な気もする。

「大学病院じゃないんだ……」

 事務局へと向かう。取材証を返し、その足でバスを調べる。

 久瀬は何も言わずに付いてくる。バス停に並ぶ。バスに乗る。揺られる車内で今度はタブレットを弄っている。加世子の事など気にもせずに。

 加世子は一度目を伏せ、バスの前方を睨むように姿勢を変える。渋滞に捕まるでもなく軽快に、バスは街中を抜けていく。

 どうでもいい。加世子は刻むように思う。久瀬が何を考えていても、関係ない。

 やがて病院の文字が見え始める。バスは交差点をゆっくり曲がる。長く塀が続いていく。

 加世子は停車ボタンに手をかけ深呼吸する。

 空気に混じる病院の匂い。風に漂う消毒液の匂い。周囲に植えられた草木の、剥き出しの土の匂い。トラックで感じた違和のもと……青臭い中に混じった血の臭い。そして。


 スクープの匂いが確かにする。

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