33

 しばらくして『路地裏』に戻ってきた三人は、大きくふくらんだビニール袋をいくつもぶら下げていた。彼女たちはそれらをソファの上に置くと、店内のいくつかのテーブルを中央に寄せ集め、簡易の大きなテーブルをつくった。そこに袋の中身をぶちまけると、その中にはお菓子やら飲みものやらがしこたま入っていた。

「なにしてるんですか」

 僕がおそるおそる訊いてみると、世羽さんの目がぎらりと輝きを増した。やばい。この人がこんな表情をするときは、たいていろくなことが起こらない。僕には止めることの叶わない暴走列車となり果てるのだ。そしてその燃料はだいたい酒である。

「お前らぁ! ライブの後は打ち上げだ!」

 世羽さんはそう言うと、テーブルの上に転がった缶ビールを拾い上げて勢いよく開けた。雑に扱ったせいで中身がぷしゅっと噴き出す。いのりさんも「きゃあー!」とか叫びながら缶チューハイのプルタブを引っぺがしている。いい大人ふたりがなにやってんだ、と僕は半ばあきれながらも、怜未が差し出してくれたグラスを受け取ってしまった。『路地裏』のロゴが彫られたグラスには、オレンジジュースがなみなみと注がれている。ソラも同じように、自分の手もとにあるオレンジ色の表面張力をじっと見つめている。

「よーし、詠人」

 世羽さんが言った。「我々を代表して、乾杯の発声を」

「え、僕がですか?」

「お前がやらなきゃ誰がやるんだ」

「そうだよ、詠人。私たちの部活の部長でしょ?」

「だから、こんなときに部長って――」

「こんなときだからだよ」怜未が僕の言葉をさえぎる。「こんなときだからこそ、詠人が仕切るの。だって、わたしたち文化研究部の部長は、詠人――あなたしかいないでしょ」

 怜未はあたたかな陽だまりのような笑顔で微笑む。

「ねえ、そうでしょ、ソラ」

 オレンジ色の表面張力を見つめていたソラが、名前を呼ばれて顔を上げる。しばらくの沈黙。僕は彼女の瞳を見つめる。天の川みたいにきれいな瞳だ。ライブの直後に見上げていた遠くの星々は、いまは彼女の瞳の中で輝いている。

「えいと」

 彼女は言った。「早くして。のどかわいた」

「……っ。はいはい、そうですかい」

 僕は思わず笑ってしまった。ほかの三人にも笑いが起こる。いかにもソラらしいな。なに考えてんのかわかんないような表情で、さらっとなんでもないようなこと言って、そうして僕の心を奮い立たせる。

「じゃあ、えーっと……」

 どうしよう、乾杯の合図なんてやったことがないから、こういうときになんて言えばいいかわからない……そんな僕の戸惑いは、目の前にいる人たちの顔を見るなりすぐに消し飛んだ。大丈夫、なんの根拠もないけれど、そう感じた。だって、ソラがいるじゃないか。怜未がいるじゃないか。世羽さんといのりさんがいるじゃないか。ここが僕の居場所なんだ。言葉なんていらない、心の共鳴だけで分かり合える人たちが、こんな近くにいるじゃないか。

「こほん」

 咳払いをひとつ。そして僕は言った。

「えー本日はお日柄も良く」「真面目にやって」「えいと、つまんない」「くたばれ」「あはは、詠人くん変なのー!」もう心がへし折れそうだよ?

「と、とにかく」

 気を取り直し、杯を持ち直す。

「今日この場所にみんなといることができて、僕は嬉しいです。僕たち三人であのステージに立てて、僕たちの音楽を鳴らすことができて。世羽さん、いのりさん……そして、ソラ、怜未。ほんとうにありがとう」

 なんだお前、死ぬのか? と世羽さんが冷やかす。なんだか今生の別れの挨拶みたいになってしまった。でも、世羽さんの言うとおり、死ぬのかもしれない。これまでの僕はここで死ぬのかもしれない。今日のこの夜を境にして、僕は生まれ変わるんだ。世界の片隅でひとりギターを弾いているだけの僕は死ぬ。取り返しのつかない人生の暗闇を恐れるだけの僕は死ぬ。ここにいるみんなで紡ぐ音楽とともに、光の中を歩むような未来に生きる――そんな僕に、生まれ変わるんだ。

 まるで奇跡みたいな夜だ、またそう思った。

 でもちがう、これは奇跡なんかじゃない。偶然なんかじゃない。この世に偶然なんて存在しないんだ。あるのは僕たちの「選択」の積み重ねと、それに導かれた「結果」だけだ。今日この日にライブをやるという選択。僕たち三人の音楽をやるという選択。そしてあの日、鍵の掛かっていない楽器室で、ソラの歌声を聴くという僕の選択。なにひとつ間違っていない、その選択の積み重ねが、今日のこの夜を導いたんだ。

 そんなこと言ったら、また怜未に怒られるかな。「運命みたいで気持ち悪い」って。

 でも、嬉しいんだ。僕のしてきたことが、間違いじゃなかったんだって思えて。みんなのこの笑顔を見るために、無駄にはならなかったんだってわかって。

 僕たちの音楽が、僕たちの想いが、僕たちの未来繋がっているって、信じることができて。

 僕は言った。

「僕たちの音楽に、僕たちの未来に――乾杯」



 その後の僕たちは、前後の見境もなく騒ぎに騒いだ。

 世羽さんはむちゃくちゃに振ってぱんぱんに膨らんだビールの缶を、「お前が優勝だー!」とかなんとかわけのわからないことを言いながら僕の目の前で開け、顔面から思い切りずぶ濡れになった僕を見てげらげら笑っている。それに悪ノリした怜未といのりさんも加わり、缶ビールを両手に三人が僕を追い回してくるせいで、僕は落ち着いてジュースを飲むこともできなかった。そんな僕らがぎゃあぎゃあ騒いでいるかたわらで、買ってきたハッピーターンをソラがぜんぶ食べ尽くしてしまい、それに気付いたいのりさんが「わ、私のしあわせが……」と言いながら倒れ込んでしまった。ハッピーターン喰われたくらいで消えてしまうしあわせってどうなんだろうと思いながら介抱していると、世羽さんがグラスに入った黄金色の泡立つ液体を僕にむりやり飲ませてくる。これがかの悪名高き「アルハラ」か、とこの世の不条理に嘆きながら液体を飲みこむと、なんのことは無い、ただの泡立ったむぎ茶だった。

「びっくりしたっ、ビールかと思ったじゃないですか!」

「お前に呑ませるビールは無え」

「だからって泡立てたむぎ茶飲ませないでくださいよ。どこで仕込んだんですかこれ、どうせペットボトルむちゃくちゃ振ったんでしょう……あーあ、まだこんなに入ってるのに」

「ごちゃごちゃうるせえな」

「立派なハラスメントですよこれは! むぎ茶ハラスメント! 略してむちゃハラ!」

 なんだそれ……むちゃくちゃ腹を殴ってくださいって意味か……?と世羽さんが凄んでくるので、僕はおとなしく彼女の注いでくれたむちゃくちゃ泡立ったむぎ茶を飲み干した。まずい。超まずい。特に泡の部分がむちゃくちゃまずい。

 それでもやっぱり、僕らはみんな騒ぎ合い、はしゃぎ合い、笑い合った。

 奇跡みたいだった僕らの夜は、こうして更けていった。

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