32

 『路地裏』に帰って来て、くたくたになった身体を店のソファに沈め、僕は静かに目を閉じた。

 まるで奇跡みたいな夜だった。

 結局世界は変えられなかった。僕たち三人の力では、この世界を変えることはできなかった。僕らの音楽はしょせん、この広い世界の片隅で、ほんの数十人に過ぎない人間の拳を挙げさせることしかできなかった。でも、だからなんだって言うんだ。今はそれで充分じゃあないのか。僕ら一介の高校生の創り出す音楽が、ほんの一握りでもひとの心に突き刺さって、それがだんだんと大きくなって、世田谷区を覆い尽くして、東京中を巻き込んで、日本中に響き渡って、いずれは世界を変えて行くことになるんだ。今夜はその第一歩に過ぎない。僕たち三人に降ってきた、取るに足らないちっぽけな奇跡は、これからの僕らの進む道の標となる。縫い合わせた帆に当たる力強い追い風となる。くだらないクソみたいな世の中だけど、ほんの少しの奇跡や希望が、こうやって僕らをこの世界に縛り付ける。

「ちょっと待ってろ、今なにか飲むもの持ってきてやるから」

 世羽さんはそう言うと、店のカウンター奥に下がっていった。店のフロアには、ソファに沈んでいる僕と、同じように椅子にへたり込んでいる怜未、そして、相変わらずぼうっと虚空を見つめているソラがいる。世羽さんが『LIFT』に行く前に店を閉めてきたと言っていたとおり、店内に他の客はいない。

 しばらくしてから、液体をいっぱいに満たしたグラスを三つ、世羽さんが持ってきてくれた。それをひとつずつ僕らに手渡す。渡されたグラスに口をつけると、カフェオレのほのかな甘味と苦味が、口いっぱいに広がった。紛れもない、世羽さんの淹れる『路地裏』のカフェオレの味だ。

「ふう」

 怜未が小さな溜息を漏らす。「終わっちゃったね」

「ああ」僕はそれに応える。「終わった」

 ソラはカウンターの席にちんまりと座りながら、やはりなにも言葉を発しない。

「なあ、ソラ」

 そんなソラに、世羽さんがふと言葉をかける。

「おまえ、『MES CHERIS』のメンバーの娘なんだろ」

 手元のグラスの中で、カランと氷が音を立てた。怜未が息を飲むのがわかった。ソラの表情は、薄暗い店内の照明では、ここから窺い知ることはできない。

「お姉ちゃん……知ってたの?」

「なんとなくわかるさ。やつらのスタッフやってたのはもう十年近く前の話だが、それでも娘の名前とか、写真で見た娘の面影なんかは、まだ憶えてる」

「名前……でも、ソラの苗字は知らないはずじゃ――」

「これだよ」

 そう言って世羽さんは、店のカウンターの上から一枚のカードを拾い上げた。「ていうかソラ、これ忘れて行くなよ。ひどいやつだなあ」世羽さんは苦笑いしながら、カードをソラの手に握らせる。ソラは渡されたカードをまじまじと見ている。僕はソファから腰を上げ、ソラのもとに駆けよって、彼女の握ったカードに目を落とした。黒地に白文字で『路地裏』と店名が入ったカード。この店のポイントカードだ。彼女がカードを裏返すと、そこには小さく文字が書かれていた。

『宇田越ソラ』

 ソラの名前。

 世羽さんはあのとき、ソラがポイントカードに描いた名前を見て、僕たちにライブハウスへ行くための「試験」を渡した。つまり、ソラが『MES CHERIS』のメンバーの娘だと、そのときに気づいたということだ。

「……なんのために音楽やるのかって私が訊いたとき、ソラは『取り戻すため』だって言ったよな」

 世羽は手に持ったグラスに目を落としながら呟く。僕ら三人が世羽さんに、『路地裏』でライブをやりたいと頼みに行ったときの話だ。「どうして音楽をやるのか」という世羽さんの問いかけに、ソラは「取り戻したいから」と答えた。「なにを」ということを言わずに。

「今でも、そう思ってるんだろ?」

 こくり、とソラはゆっくり頷く。

「取り戻したい、って思ってるんだろ?」

 こくり、ふたたび彼女の頭が傾ぐ。

「それなら、もうあんなことすんな」

 世羽さんのその言葉に、ソラは動かなかった。世羽さんはもう手元のグラスを見てはいない。真っ直ぐに、目の前のソラを見つめている。

「もうひとりで勝手にライブやろうだなんて思うな。私たちの目の届かない場所で、手の届かない場所で、自分だけひとりで犠牲になろうだなんて考えるな」

 世羽さんの言葉は、静かな『路地裏』の店内に空しく響く。

「ひとりで抱え込もうとするな。こいつらがどれだけ心配したかわかってるのか。時間になっても待ち合わせの場所には来ないで、知らない間に別のライブ会場にいて、勝手にひとりでステージに立とうとして。お前ら三人でも危険だって言ってんのに、私のいるこの箱でもどうなるかわからないのに、ましてやひとりで、全然別の箱でライブやろうだなんて、お前、自分のしたことがどういうことかわかってんのか」

「お姉ちゃん!」

 堪りかねた怜未が、世羽さんの言葉を遮った。でも僕はなにも言えなかった。まるで責め立てているような口ぶりの世羽さんだが、彼女の表情に浮かんでいるのは憤怒や叱責の色ではない。どこか哀願するような、懇願するような必死さが滲み出ている。

「わ、私、は……」

 ソラがかすかに声を漏らす。しかしそれは、『路地裏』の冷たい闇に呑み込まれてしまった。彼女の次の言葉は、僕らの間にたゆたう静寂の中に消えてしまう。

「守りたかった、だろ?」

 世羽さんが彼女の言葉を繋ぎとめる。

 こくり、とソラは前髪を揺らした。

「それはこいつらも同じなんだよ」世羽さんは怜未、そして僕に順番に微笑みかける。「こいつらだって、このバンドが大切で、どうしたらバンドを壊さずにすむのか、どうしたら今までどおり音楽をやっていけるのか、考えながらここまで来たんだ。なにも考えてなかったわけじゃない。詠人なんてなにも考えずに道端の雑草ばっかり喰って生きてそうだが、こいつだって考えてることは、ソラ、おまえとおんなじなんだよ」

 余計なお世話だ、と思わず突っ込みそうになるが、僕は出かかった言葉を飲みこんだ。世羽さんの表情は、あたたかな陽だまりのように優しくソラを包み込んでいる。

 僕らと、おなじ。

 そうだ、僕らが考えてたことは、みんなおなじだったんだ。僕らのバンドを守りたくて、僕らの音楽を守りたくて、ただやろうとしたことがちがうだけだったんだ。ちょっとだけ、ソラは不器用なだけだったんだ。

 着信音が鳴り、世羽さんがポケットから携帯を取り出して耳に当てた。おう、だとか、わかった、だとか、いくつかの相槌を打って通話を切った。

「依乃里からだ。無事らしいから拾いに行く」

 世羽さんは手早く身支度をし、ソファに座っている怜未に声をかけた。「お前も行くぞ、怜未」

「わ、私もっ?」

「そうだよ」

「で、でも……」

「いいから早く。姉命令だ」

 そう言って世羽さんはさっさと出口から出て行ってしまう。突然駆り出されることになった怜未は、やや戸惑い気味に僕とソラに目を向けた。しかしやがて、僕に微笑みを向けたまま頷いたあと、姉のあとについて行ってしまった。『路地裏』の店内には僕とソラだけが残された。

 僕は心中で溜息をついた。まったく、世羽さんは相変わらずめちゃくちゃなひとだ。僕が立ち止まっているときは背中を押してくれて、僕の両脚を動かしてくれる。僕が迷っているときでも強引に話を進めて、僕らの物語を動かしてしまう。ああいうひとが「大人」っていうんだろうか。世羽さんは「大人は黙って子どもの背中を押す」って言ってたっけ。世羽さんは背中を押すどころが思い切りぶっ叩いてるような気がするけど。でも、背中に感じるその痛みが清々しくて、僕は笑って前へ進んで行けるんだ。

 怜未だってそうだ。真面目で、面倒見がよくて、正義感が強くて、困ってる人がいたら嫌な顔ひとつせず手を差し出そうとする。こんな僕にだって、世話役とか言いながら一緒にいてくれるのは彼女だ(文句のひとつやふたつを言いながらだけど)。彼女は僕につねに答えを与えてくれる。姉に似てちょっと強引なところもあるけど、彼女は僕のとなりで、僕に行く道標を示してくれる。

 じゃあ、ソラは?

 僕は、目の前のソラに目を向ける。

 僕はソラのなにを知っているんだろう。この数カ月間彼女とともに時間を過ごして、僕は彼女のなにを知ることができたんだろう。彼女の小さな身体の中に閃く喜びや悲しみを、いったい僕はどれだけ感じることができていたんだろう。

「ソラ」

 仄暗い店内に、僕の声が空しく響く。

「取り戻したいものって、ソラの両親のことなんだろ」

 ソラの髪が揺れる。

「両親に捨てられた、って言ってたよな」

「………」

「僕はそうは思わないんだ」

 僕のその言葉に、ソラは真っ向から僕を見据えてくる。吸い込まれそうな瑠璃色の目にたじろぎそうになった僕はぐっとこらえた。いま視線を逸らしたらだめだ。ソラの本当の気持ちを、この目で見届けなければならないんだ。

「『MES CHERIS』ってバンド名、どういう意味か知ってる?」

 ソラはふるふるとかぶりを振った。

「”chéri”はフランス語で『たいせつな人』って意味なんだって。恋人とか夫婦とか、そういう関係の人に向けて呼び掛けるときに使うみたい。”mes”は英語で"my”だから、『私のたいせつな人』って意味になる――ええと、バンド名だと最後にsがつくからちょっとちがうな。sが付くと英語みたいに複数形になるんだ。そうすると少し意味が変わってくる」

 だからなに、とでも言うような表情で、ソラは僕を見つめる。僕は生唾を飲み込む。僕の伝えたいことは、ちゃんと彼女に届くのだろうか。

「『私のたいせつな人たち』――つまり、『家族』って意味だよ」

 ソラの肩がわずかに震えた気がした。そして彼女は俯いてしまう。

「……わからないでしょ」

 彼女は力なく呟く。「ほんとうにそうなの?」

 確かに、本当かどうかなんて僕にはわからない。「CHERIS」という複数形の単語がただそのまま家族を意味しているわけじゃない。それを家族の意味に取るのは、単なる意訳、拡大解釈、あくまで推測にすぎない。僕は彼女の両親が、自分たちの名前にソラの影を感じ取れるような意味を残したのだという、なんの根拠もない希望に縋っただけだ。

「でも、それだけじゃない」

 それだけじゃないんだ。

 僕にはある。

 ソラの両親がどれだけ彼女を思っていたのかを、証明できる自負がある。

「ソラがいちばん好きな曲ってなに?」

 僕はソラにそう問いかける。顔をあげた彼女の表情に、わずかな戸惑いの色が差す。

「どうして――」

「いいから」僕は彼女の言葉を遮って答えを促した。「『MES CHERIS』の曲のなかで、いちばんたいせつな曲はどれ?」

 やや逡巡したあと、彼女は短く答えた。

「……『ルシエル』」

 僕は溜息をついた。

 よかった。ソラには届いているんだ、彼女の両親の気持ちが。ソラはちゃんと、両親の思いをその手で受け取っている。

「ソラは『ルシエル』がどういう意味かわかる?」

「わからないわ」

 少し苛立ったような反応。「ねえ、どうして――」

「ソラ」

「……なに?」

「ソラだよ」

 僕は言った。「『ルシエル』っていう曲名の意味。『空』って意味なんだ」

 彼女の眼の光が揺れる。たったいま、彼女は自分が両親から受け取っていたものの重みを知ったんだ。

『ルシエル』という曲名の意味。同じくフランス語で”Le Ciel”という言葉。英語にすると”The Sky”――つまり、『空』。

 これも本当かどうかなんてわからない。『ルシエル』がそもそもフランス語の”Le Ciel”から来ているということだって、あくまで僕の希望的観測にすぎない。もしかしたらぜんぜん関係ない言葉が由来なのかもしれない。欧州かどこかに古くから伝わる神話に出てくる天使の名前からかもしれないし、バンドメンバーが気まぐれに名付けたペットの名前から取ったのかもしれない。そんなの僕には知る術がない。ただの僕の直観だ。だけど、僕は自分の直観が間違いじゃない気がしていた。自信があった。確信があった。この『ルシエル』という曲が、彼らのたったひとりの愛娘へ向けられたのだという強い思いがあった。

 だって、こんなにもいい曲じゃないか。

 英語もフランス語も混ざってなに言ってんのかぜんぜんわかんないけど、心の底から沁み渡ってくるような繊細なメロディは、まさにソラにぴったりの曲じゃないか。きみの両親は世界を変えるその曲をきみの名に託したんだ。言うなれば、きみの両親はきみと一緒に世界を変えたんだ。これがどういうことか、ソラ、きみにだってわかるだろう?

 僕は立ちあがって、店内の片隅にある書棚に歩み寄り、一冊の書籍を手に取って来た。ソラの目の前でそのページを開く。何度もなんども読み返したみたいに、ページの端には折れ目が目立ち、ページはしわくちゃになっている。

「これ、『MES CHERIS』のメンバーが使ってた、フランス語の辞典なんだって。作詞するときにいつも開いて、気に入る単語を探してたみたい。世羽さんが自慢気に話してくれたよ」

 ソラはそのページの、空色の蛍光ペンが引かれた単語を、ゆっくり指でなぞった。

「きみの名前、書いてあるだろ」

 彼女は自分の指先に目を落としている。そこに書いてある、ひとつの単語。ひとつの名前。

『空』。

 彼女の唇がかすかに顫えだした。いやちがう、一定のリズムで、なにかに祈りを捧げるように動いている。歌っているんだ。僕はギターをケースから出し、彼女のメロディに合わせて弦をつまびく。彼女の歌声には、哀しみや、歓びや、いろいろな感情がうず巻いている。いままで彼女が背負い込んできた気持ちがたくさん溢れている。

 それでいいんだ、と僕は思う。

 僕らには音楽があるじゃないか。いろんな感情を言葉で表すことができないから、それを歌に託すんだ。

 ふいに彼女の目から涙がこぼれる。「ありがと」と彼女はつぶやく。誰に向けた言葉かはわからない。でも僕は嬉しかった。彼女の代わりに涙するものは、いまここにはいない。彼女の哀しみを洗い流す冷たい雨も降らない。ソラはいま、自分自身のためだけに、自分の涙を流しているんだ。

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