30

 馬鹿みたいに突っ立つ僕の脇を、まるで猫のようにすり抜けたソラは、黙って控室の中に入っていった。空いたドアの隙間から見える、整然とした室内の隅の方に、一本のギターが立てかけてあった。ベースじゃない、ギターだ。彼女はもう、僕らのバンドでベースを弾く気はないんだ。

 彼女はそれを掴み、静かに椅子に座る。

「なに、やってんだよ」

「……さいごの、練習」

 最後の……?

「私、もうすぐ行かなきゃ」

 ソラはそう言ってギターを爪弾く。そのコードにのせて、ひとつの旋律を歌声でなぞる。

 僕はそれを聴きながら、そういえば外は雨が降っていたなあ、などという馬鹿げたことを思い浮かべる。鈍色の空からぼたぼたと落ちてくる、大粒の雨。その透明な哀しみが地面で砕け散る音に、ソラの弾くギターはかき消えて行く。ひとつ、ひとつ、またひとつ。哀しみの粒が砕ける音は、ソラの弾くアルペジオと重なって、彼女の音楽を形づくっていく。

 声を漏らさず、天井を仰ぎ見た。

 僕は失敗したんだ。

 音楽が嫌いだっていうのに僕の音楽を聴かせて、バンドをやろうなんて提案して、世界に音楽を思い出させてやろうなんて発破かけて、ソラを取り返しのつかない人生へと導いてしまった。そして今も説得なんてできず、ただ彼女のそばで立ち尽くしているしかない。最初から間違ってたんだ。ソラが音楽を嫌いなままで、僕のことを知らないままでいてくれたら、こんなことにはならなかったんだ。僕のせいだ。

 ソラがふいに顔を上げ、呟いた。

「どうして泣いてるの?」

 そうして僕は気づく。ソラの顔が水面に映る満月のようにゆらゆらと揺れて見える。

「それは――」

 どうして僕は泣いているんだろう。なにを喪うのが哀しくて、僕は泣いているんだろう。

「――ソラが泣かないからだろ」

 彼女のギターからぼたぼたとこぼれ落ちる、大粒の透明な哀しみ。爪弾くギターの音色に乗せて、彼女は泣いている。ソラの泣き声が、今はっきりと聞こえる。僕は悔しさに歯嚙みした。哀しくないわけがないんだ。僕たち三人で音楽をやっているときはあんなに楽しそうな音を奏でていた彼女が、今はひとりで戦おうとしている。ひとりで矢面に立とうとしている。僕らの居場所を守るために、自分が犠牲になろうとしている。そして彼女はもう、自分が音楽をやれるこれからの日々を、諦めている。その決意を胸の内に秘めた彼女自身が、哀しくないわけがないんだ。

「なんで……なんでこんなことしたんだ」

「守りたかったの」

 ソラは言った。「私たちのバンドを」

 私たちのバンド。彼女はそう口にした。わかってる、三人で練習してたときの君は、あんなに楽しそうにしてたじゃないか。そんなことくらいわかってるんだ。それならどうして、よりにもよってこんな結末を選んだんだよ。どうして君だけが苦しむような道を選んだんだよ。

「この世界に音楽を思い出させたくて、でもバンドは無くなってほしくなくて……どうすればいいか、考えたの」ソラはゆっくりと言葉を吐き出していく。「たくさん考えたの。考えたけど、こうするしかなかった。誰にも邪魔されずにみんなが音楽をやっていけるには、こうするしかなかったのよ」

 なんだよそれ。こうするしかなかった? こんな最悪な結末を前にして、こうするしかなかったっていうのか? ふざけんなよ。勝手なこと言うなよ。君が言う『みんな』って誰なんだ?

 僕たち三人のことじゃないのかよ。

 僕と、怜未と、そしてソラ、君のことなんじゃないか。

「そうやって僕が音楽をやれる日々には、ソラがいないんだろ」

 彼女の肩がわずかに揺れる。「残された僕たちはどうなるんだ。後のことは知らないから、勝手にやってろっていうのか。君が言うそんな世界になったとしたら、このバンドのベースは誰が弾くんだよ」

 僕は心の底からソラに問いかけた。ソラのいないバンドなんて、もはや考えられなかった。ソラのベースの音が無いなんて考えられないし、他の誰かのベースに僕の音を重ねるなんて想像できなかった。ソラのとなりでギターを弾けない世界なんて、かけらも望んでいないんだ。

「どうすればいいの」

 震えた声で彼女が言う。

 どうすればいいんだろう。彼女を守るには、僕はどうすればいいんだろう。

「簡単なことだよ」

 後ろから声がした。僕はとっさに振り向いた。

 怜未だ。

「私たちでライブをやろう」彼女は言葉を繋いでいく。「私たち三人で。そのために今まで、練習してきたんでしょう」

「でも……それじゃあみんなが――」

「大丈夫だよ。私たちもソラとおなじ。自分たちの音楽で世界をどうにかしたくて、みんなでずっと音楽をやりたくて、たくさんたくさん考えて悩んで、ここまで来たんだよ。ソラだけじゃないの。だから、ひとりで抱え込んじゃだめ。誰かひとりでも欠けたら、私たちの曲は完成しない。私たちの音楽にはならないわ」

「私たちの……音楽……」

 僕たちの、音楽。

 そうだ。僕がやりたいのは、僕たちだけの音楽なんだ。

 怜未は春の日の陽だまりのような眼差しで、ソラを静かに見つめている。

「私は、この三人の音楽をやりたいの。ねえソラ、一緒にやろう?」

 僕は気づく。僕の守るべきもの、それは、彼女がとなりにいるということ。彼女のとなりにいるということ。彼女と一緒に音を奏でる日々、彼女と一緒に音楽を聴く日々。彼女のつくる音楽。彼女のいる世界。

 そして彼女自身、つまりソラだ。

「怖かったの」

 ソラは言った。「こうするしかなくって、でもこれからみんなと会えなくなるかもしれないって思ったら、とても怖かった」

 ソラの目には大粒の哀しみが溜まって、深い夜の淵でかすかに星が瞬いているみたいに見える。

「大丈夫だよ、みんなが一緒にいる。僕がとなりにいる」

 僕は彼女の手を取る。「僕が守る」

 ふいに控室前の廊下の奥から、夕陽の光が差し込んできた。仄暗い闇のなかにぽかりと空いた空間に、人間のシルエットが浮かび上がっている。

「お前ら早く準備しろ! ライブ始めるぞ」

 力強い怒声が廊下に響き渡る。僕はその声の主を認めて、思わず大声を出した。

「世羽さんっ!」「お姉ちゃんっ」「っ……」

 『路地裏』を取り仕切っているはずの世羽さんが、『LIFT』の裏口ドアをかっ開いて仁王立ちしている。なんであの人がいるんだ。『路地裏』はどうしたんだ?

「世羽さん、なんで――『路地裏』は、どうしたんですか」

「そんなもん閉めて来たに決まってんだろ。扉にここの宣伝ポスター貼ってな」世羽さんはまるで、1+1は2だろ?とでも言うような口調で言い放つ。「大丈夫、客なんてロクに来やしないんだから」

 呆気にとられている僕に、もうひとつの声が浴びせられる。

「あなたたちの機材を持って来たわ。ステージに運び込むわよ」

 いのりさんだ。華奢な体で大きな機材を抱えている。

「二人とも……」

 普段ろくすっぽ働かない世羽さんと、おっとりぽわぽわしたいのりさんからは想像だにできないほど、俊敏な動きで機材を運び込んでいる。奥の扉から顔を出してみると、『LIFT』の裏口に世羽さんの車が付けられていた。『LIFT』の中からわらわらとスタッフたちが出てきて、みるみるうちに車に積載してあった機材を会場内へ運び込んでいく。すでに会場スタッフたちと話が済んでいたらしい。パフォーマーの増員というあまりの唐突な変更にもひとつも混乱が起きることなく、僕が呆気にとられているあいだ、瞬く間に機材の搬入は完了してしまった。世羽さんといのりさんが『MES CHERIS』の元スタッフだから、こんな無理が利くんだろうか。

「世羽さん、どうしてこんな」

「言っただろ」僕の質問を遮るかたちで、世羽さんは言う。「ガキが行こうとしてる道が間違ってたなら正しい方に導いてやる、それでもそっちへ行きたいって言うなら、黙って背中を押ししてやる。つまずいて転ばないように見守ってやる。それが私たち大人だ」

 世羽さんの言葉は、地を固める雨みたいに僕の心に沁み入ってくる。

「お前たちは間違ってる。お前らが選んだのは決して正しい道じゃない。だけど、これがお前らにとって進むべき道なんだろ? 目指したいって思う行き先なんだろ? だったらあとは大人に任せろ。後ろから見守ってやるから、振り返らずに歩き続けろ。信じる道を進み続けろ」

 世羽さんは、車の荷台からひょうたんみたいな形をした黒いケースを担ぎ上げた。

 僕のギターだ。

「ほらよ」

 世羽さんはギターケースを僕の胸元に押し付けた。

 その瞬間、僕の鼓動はいっぺんに早まる。押し当てられたギターケースから、その中で僕のギターの弦が振動しているのを感じる。心臓の鼓動に共鳴しているのを感じる。

 僕はそれを静かに受け取る。軽いような重いような不思議な感覚が、僕の両腕に圧し掛かってくる。

「セイさん、準備できました! いつでもOKっす!」

 ひとりのスタッフが声を上げた。世羽さんは深く頷きを返すと、僕たち三人の方へ向き直った。

「さあ、お前らの番だ」

 世羽さんは言った。「連中に思い知らせてやれ、音楽はまだ死んでないってことを。お前らの音楽が、ここにあるってことを」

 僕らの、音楽。僕と怜未と、そしてソラ、僕たち三人だけの音楽。

「えいと」

 ソラが僕の名を呼ぶ。

「詠人」

 怜未がゆっくりと頷く。

 僕は深呼吸をし、空を仰ぎ見た。もう雨は止み、遠い雲の切れ目から、光の梯子が架かっている。

 僕は言った。

「始めよう」

 そう、ここから始めるんだ。

 僕たちの音楽を。

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