29

 ステージ脇のドアを警備していた男は、僕が近付くと再び喰ってかかるそぶりを見せたが、僕の左肩のパスを見ると、飼い主に叱られた犬のようにおとなしく僕をドアの中に通した。

 客席とドアを一枚隔てたところにある控えスペースは、開演前の準備に追われるスタッフたちがあわただしく動き回っている。音響機材、照明機材などの最終チェックの最中のようで、場を取り仕切る立場らしき中年の男が、若いスタッフたちに向かって怒声を張り上げている。僕が室内を見回していると、スタッフの一人が横を通り抜け様に「邪魔だ! 突っ立ってねえで自分の持ち場つけっ!」と大声を浴びせてくる。すごい熱気だ。観客もスタッフも、今日のこのライブに全身全霊をかけて臨んでいるように見える。当然のことなんだろう。今日ステージ上でパフォーマンスするのは、世界を変えたあのバンドのメンバーの娘だ。音楽を忘れていないやつらが、一縷の望みをかけて臨むライブだ。彼らの心に灯っているのは、魂の渇きが閃かせる熱い狂気と殺気だ。

 そんななかで、僕の心に灯るのは冷たく燃える青白い炎。音楽に対する渇望や切望なんかではない、もっとどす黒い失望と絶望。

 部屋の奥の暗がりに、さらに奥へと続く通路を見つけた。僕は怒気を放つスタッフたちにぶつからないように注意しながら、その通路の方へと向かった。

 通路を進むと、いくつかのドアが見えてくる。そのうちのひとつを見たとき、僕は直観的にここだ、と思った。思わずドアに駆け寄る。脇に掲げられているプレートを見て、僕の心臓は炒ったポップコーンのようににわかに跳ね上がる。

『sola様』

 ソラの控室。

 間違いない。ここに彼女がいる。

 僕は早鐘のように鳴る心臓を、服の上からきつく押さえつけた。

 ドアを二回、ゆっくりノックする。しかし、中からはなんの反応もない。なんの物音も聞こえない。僕は焦った。もう控室を出てしまったのだろうか。開演間際の時間だ、その可能性は充分にありえた。だとすれば、彼女はもう舞台袖に行ってしまっているだろう。袖にはたくさんのスタッフが詰めているにちがいない。そうなると、もう僕には彼女を連れ戻すことはできないように思える。舞台袖で説得なんてできない。力づくで連れ戻そうにも、屈強なスタッフたちに引っぺがされて会場から追放されるのが目に見えている。どうすればいいんだ。というか、できることが果たして僕にあるのか? 勢い勇んで来たはいいが、僕にソラを連れ戻すことなんてできるのか?

「……えいと」

 そのとき、通路から繋がる暗がりの奥から声が聞こえた。まるで耳を春風が優しく撫でるみたいな声。心地よく鼓膜を震わせる声。聞き覚えのある声。

「詠人」

 僕を呼ぶ声。僕は声のした方を振り返った。そこには、一人の少女が立っていた。

「……ソラ」

 僕が少女の名前を呼ぶと、彼女は暗がりの中で静かに目を伏せた。

「どうしてここにいるの」

「そんなの――」決まってるじゃないか、君を連れ戻しに来たんだよ。僕は喉まで出かかった言葉を飲みこんだ。そんなことできるのか? たったひとりであのステージに立とうとしているソラを、僕の力で引き留めるなんてできるのか? どれだけの覚悟で彼女が今日ここに来たのか、僕にわかるのか?

「――僕の台詞だよ。どうしてこんなところにいるんだ」

「お手洗い」

「……え?」

「演る前に、行っておきたくて」

「………」

 そうじゃない。そうじゃないんだ。僕が訊いたのは、開演間際なのに君が控室前にいる理由じゃない。そのくらいわかってんだろ。わかってて言ってんだろ。いつもみたいに会話が噛み合っていない、でも今のはいつもとちがう。気持ちが噛み合っていないんだ。心が噛み合っていないんだ。僕たちの心は、もう噛み合わせることができないほどにちがう方向を向いている。すれ違うこともできないほどに遠く離れてしまっている。

「……こんなところでなにやってんだよ」砂漠に打ち棄てられた魚みたいにざらざらに乾いた喉を、僕は必死の思いで振り絞った。「行こうよ。怜未が待ってるよ」

 しかし、ソラは俯いたままかぶりを振る。

「三人で……三人でライブやったら、私たち……捕まっちゃうんでしょ」

 そんなの、いやよ。

 ソラはそう言った。

 ソラと怜未との三人で観に行ったライブの光景がまざまざと蘇ってくる。会場内に警察が来たときの、まるで地獄のような景色を思い出す。もしライブをやれば、僕たちがあのときのバンドメンバーみたいになるんだ。容赦なく首根を押さえられ、禁忌を犯した犯罪者として連行されるんだ。人ごとじゃない、今度は僕らがそうなるんだ。

 彼女は僕とおなじだったんだ。怖かったんだ、僕らの居場所が奪われるのが。

 いや、と僕は自ら否定する。

 ソラは今なんて言った? 三人でライブをやったら、って言ったんじゃないか?

 三人でライブをやって、三人で捕まるのがいやだから……彼女は、ひとりでここに来たのか? ひとりで音楽をやって……ひとりで、捕えられようとしているのか? 僕と怜未が捕まらないように? 彼女がここでワンマンライブを演れば、否応にも周囲の注意を引くだろう。現に今、彼女のライブを観るためにたくさんの人々が押しかけ、たくさんのスタッフが走り回っている。僕と怜未、名も知られていない高校生二人のアマチュアバンドがいくら努力しても、これだけの動員数にまさるライブは開けないだろう。そうすればもちろん、警察の注目は僕らの演る『路地裏』よりも、『LIFT』に集中する。

 僕は愕然とした。彼女は僕とおなじなんかじゃない。むしろ正反対じゃないか。僕はこの日が来てほしくないと思っていた。平和に充ち満ちていたあの日に、ソラのとなりで音楽を弾いていた日々に戻りたいと思っていた。迫りくる抗いがたい現実から逃げたいと、心から願っていた。

 でも彼女は、いまひとりでステージに立とうとしている。僕たちの場所を守ってくれようとしている。彼女ひとりのライブに客を集めて、僕が世界の片隅で、誰にも聴かれない音楽をできるように。誰にも咎められず、誰にも謗られず、誰にも止められない、僕だけの永遠の音楽ができるように。

「ここ」

 僕らの間に漂う、湖面に張った薄氷のような危うい静寂を切り裂いて、ソラが口を開いた。ステージやフロアの方の熱気は、まるで何光年も遠く離れた惑星の大気みたいに、どこかよそよそしく感じられる。

「お父さんとお母さんが、ライブやったの」

「………」

「ここがさいご」

 ソラの両親が、ここでライブをやった。『MES CHERIS』が最後のライブをやった日、ここで世界を変えた。ここから世界を変えた。世界は音楽を忘れてしまったが、彼らは僕らに永遠に忘れられない繋がりをもたらした。

「今度は私の番。私が世界に音楽を思い出させるの」

 ソラは言った。「私の手で。――私の音楽で」

 僕は寒気がした。脳裡によぎったおぞましい予感に戦慄し、背筋に氷塊をあてがわれたように細かく身を震わせる。

 いやだ、やめてくれ。そんなことしなくていいんだよ。君が捕まったらどうするんだ。そんなことになったら、僕はどうすればいいんだ。

「あなたのせい」

「……僕の?」

「思い出させてやろうなんて言うから」

 目の前が真っ暗になった。横っ面をギターでぶん殴られたみたいに、耐えがたい衝撃が脳内に走った。僕のせいで、僕のしたことが、僕らを取り返しのつかないところまで引きずり込むかもしれない。そんなどす黒い予感が、いま現実のものになろうとしている。

 繰り返し脳裡に浮かぶ、あのライブの光景。警察に連行されるバンドメンバーが、ソラの姿になって再生される。僕はどこかで、三人なら大丈夫だと信じ込んでいたのかもしれない。三人でライブをやるなら、ソラの手を引いて逃げられるだろうと思っていた。あのときも実際にそうだったんだ。ソラの手を引いて、阿鼻叫喚のライブ会場から抜け出すことができた。僕がついていれば大丈夫だ、僕が手を引いて、彼女を守ってやれる、そう思っていた。でも今ソラは、ひとりでステージに立とうとしている。ライブが始まってしまえば、もう僕の手は届かない。僕はソラを守れない。

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