28
地下の入口へと続く階段の脇、ちょうど目の高さくらいの位置に、看板が掲げられている。看板にはこう書かれている。『下北沢LIFT』。名前を聞いたことがある。僕がその名を耳にしたことがあるほどの、有名なライブハウスだ。でもこのご時世、ライブハウスが看板なんて掲げていいのか? ここで音楽やってます、捕まえに来てくださいって宣言しているようなものだぞ? 僕のそんな疑念は、ライブハウス名の下に記された、今日のパフォーマーの名前を見て一瞬にして吹き飛ぶ。
『sola』
僕は息を飲んだ。
これは偶然じゃない。彼女と同じ名前がここに記されているというのは、決して偶然なんかじゃない。今日のこの日に、下北沢というこの街で、僕たち三人がライブをしようと誓ったから、この名前はここにあるんだ。僕はもう絶望するしかなかった。どうしてこうなるんだ。どうしてこんな結末を望むんだ。どうして、どうして……。
集まった人々が口々にささやき合う言葉が聞こえてくる。「このsolaって人」「例のあのバンドの、メンバーの娘らしいぜ」「世界を変えた、あのバンドの令嬢か」「両親をも凌ぐような相当な才能の持ち主だったって聞いたぞ」「噂だけど、歌声で鳥と会話できるって聞いた」「イルカとも話せるって聞いたぞ」「歳が二桁になる前にジミヘンの奏法ぜんぶマスターしたって噂、本当かよ」「レス・ポールが彼女にオリジナルギター献上したくらいだから当然だろ」
僕の心の奥底に、青白い炎が灯った。そんなことどうでもいいだろ。彼女にとって大切なことは、そんな本当かどうかもわからない噂なんかじゃない。両親を奪っていった音楽を嫌いになるしかなくて、取り戻すにはそれでも音楽に縋るしかなくて、一粒の涙も流さずに世界に立ち向かおうとしていた、ソラの気持ちがお前たちにわかるのか。流れ出す自分の血を蒸発させて、それを心臓の鼓動に共鳴させて響かせるような、そんな彼女の音楽を聴く資格が、お前たちにあるのか。
入口に続く階段を駆け下り、人を押し分けて会場内へ向かう。無理矢理入ろうとするとスタッフに止められ、僕はとっさに世羽さんから貰った名刺を取り出して見せた。僕を止めたスタッフは、それを見ると驚いたように目を見開き、やがて中に通してくれた。
扉に手をかけて会場内を覗くと、中はすでに外よりも多くの人で溢れ返っている。前回僕たち三人が行ったライブよりもはるかに多い人数だ。溢れ返る人々の頭が会場を埋め尽くし、クソ虫のように蠢いている。開演を待ちわびた客が切り裂くような大声をあげ、魂の渇きを叫んでいる。僕はぞっとした。こいつらどこから湧いてきたんだ。音楽を忘れていないやつらがまだこんなにいたのか?
入口からステージ前のフロアに繋がる通路にも、人がごった返している。僕は体を前へ前へと押し込めながら、快哉をあげる群衆を呪った。どけよ、通してくれよ。もうお前たち全員帰れ。帰ってくれよ。そうやってお前らが阿呆面揃えて集まって、そうやって熱い歓声をあげるたび、この場所は周囲に注目されるんだ。音楽を赦さない世間の目を、警察の気を引くんだぞ。わからないのか。そうしたら、お前らの大好きな音楽が、どうしようもなく損なわれて、喪われていくんだ。
僕らの音楽が。僕らの毎日が。
そして、ソラの歌声が。どうしようもなく壊されていくんだ。
ステージ脇にバックステージへと続くドアがあった。中に関係者が控えているのであろう、閉ざされた扉の前には巌みたいな男が立ちはだかり、一般客が中に入れないように警固している。僕が近づいていくと、訓練されたシェパード犬のように鋭い眼光を向けてくる。
「おい、そこのガキ。あまりうろちょろしないでくれるか」
僕は歩を止めずに男の目の前まで近寄る。ドアまであと少しの距離だ。あの中にソラがいるかもしれないと思うと、シェパードが突き刺してくる視線を怖いだなんて少しも思わなかった。
「通してください。僕はソラの友人です」
「solaの?」シェパードの双眸がいっそう鋭く光る。「パス持ってんのか。友人だからって通してたらキリがねえんだよ」
僕はポケットから世羽さんの名刺を取り出した。ポケットに入れたまま群衆の中で揉まれたせいで、名刺はよれよれになっている。
世羽さんの名刺を手からひったくったシェパード男は、それを見て面食らったような表情を浮かべ、「こんなガキが、なんで……」と独りごちた。しかし、すぐに今までの攻撃的な光を両眼に取り戻すと、名刺を僕の胸元に乱雑に突きかえす。
「お前がどこでこれを拾ったのか知らんが、セイさんの名刺だけじゃここは通せねえ。バックステージパスがないなら、今日のところは帰りな」
「拾ったんじゃないですってば!」シェパード男に必死に反駁するが、論点がそこじゃないことは充分にわかっていた。それでも僕は男に喰ってかかった。「ソラは! ソラは中にいるんでしょう!」
「……ここはお前みたいなガキの来るところじゃねえんだ」男はやや和らげた語調で言った。「特に今日はな。警察に目ェつけられるのも時間の問題だ。この様子じゃあ、やつらが来る前にライブ始められるかどうかもわかんねえ。でも、今日のこのライブだけは、絶対に成功させてえ。お前とsolaがどういう関係かは知らねえが、ただの友人ってだけで首突っ込んでんなら、ここでやめておけ。お前の人生取り返しのつかねえことになるぞ」
僕は歯嚙みした。取り返しのつかないことになる、だって? だからここに来てるんじゃないか。いままで僕らのやってきたことが、まさに取り返しのつかない結果になろうとしているから、こうやって這いつくばってでも来ているんじゃないか。ここで諦めて家に帰って、ソラのいない色褪せた日常をのうのうと明日から過ごしていくだなんて、考えたくもなかった。取り返しのつかない人生をそうやって取り返すことができたとしても、その人生は取り返したいと思うような人生ではない。それなら僕は、諦めずにソラを連れ戻す人生を選ぶ。
ステージ上に何人かの人影が現れる。観客の熱気がさらに一段高まる。開演前の機材リハーサルが始まるんだ。このリハが終わったら、もうソラを連れ戻せなくなるかもしれない。
「通してください」
僕は声の震えを必死で押し殺し、シェパード男に言った。
「……聞き分けのねえガキだな」
そう言って男は、無線でなにかを喋った。ややもすると、どこからか数人のスタッフが僕に詰め寄り、僕の身体を押さえつけ、場外へと連行しようとする。
「ちょ、待って! 放せ、放せよ!」
渾身の力で振り切ろうとするが、後ろから羽交い絞めにされてまったくなす術がない。騒ぎに驚いた観客が、暴れながら引きずられていく僕を冷めた目で見送っている。僕は呪った。この世界のすべてを呪った。僕をソラから引き離そうとするシェパード男もスタッフも、阿呆面ばっかり揃えてぎゃあぎゃあ騒ぎ立てている無知蒙昧な群集も、ソラを連れ戻すこともできないくせに一丁前に吠えてばかりの無力な自分も、ぜんぶ呪ってやりたかった。
「詠人くんっ?」
ふいに僕を呼ぶ声が聞こえた。声のした方を向くと、群衆をかき分けて一人の女性がこちらに歩み寄ってきていた。その女性を見て僕は思わず声をあげる。
「いのりさんっ!」
世羽さんと一緒に路地裏を切り盛りしている、いのりさんの姿があった。首から下げられたカードホルダーには、LIFTのスタッフ証が入っているのが見える。彼女は僕を羽交い絞めにして引きずっている男たちに向けて、「私の友人よ。放してあげて」と声をかけた。男たちは渋々ながらも、彼女の言に従った。
「いのりさん……手伝いにいくライブハウスって、ここだったんですか」
「……そうなの。大きなライブになるから、なるべく人手が欲しいって頼まれて……。詠人くんはなにしに来たの、って、訊いても無駄よね」
「いのりさんは知ってたんですか。今日ソラがここでライブ演るってこと」
僕がそう訊くと、いのりさんはかすかに目を伏せる。
「こう言っても信じてもらえないかもしれないけど、私も今日ここに来るまで、全然知らなかったのよ」いのりさんの声はぴんと張った糸みたいにわずかに震えているように聞こえる。「今日ここへ来たら彼女がいて、本当に驚いたわ。どうして詠人くんたちと一緒にいないのか、どうしてひとりでここのステージに立とうとしているのか、私がしつこく訊いても……ソラちゃん、全然答えてくれなくて」
「ソラは……ソラは、どこにいるんですかっ?」
僕は縋るようにいのりさんに言い募った。ややあって、彼女はポケットの中から一枚の紙切れを取り出した。受け取って検めると、どうやらステッカーのようなものらしい。表面には「LIFT」というライブハウスのロゴと、「Back Stage Pass」と装飾のついた英字が描かれている。バックステージパス。演奏者が控えるステージ裏への、通行許可証。
「私じゃ全然だめだったけど……詠人くんなら、ソラちゃんを説得できるかもしれない。ねえ詠人くん、お願い。ソラちゃんを止めてあげて。今日のこのライブは、彼女にとって良いものにはならないわ。成功しても失敗しても、きっとソラちゃんはどうしようもなく傷ついてしまうような気がする」
いのりさんは、今度ははっきりと目を伏せた。友人の負った傷口から流れ出る血を止める術を持たなくて、ただ黙ってそれを見届けるしかない無力感に苛まれているみたいな、そんな眼差しだった。
「だってソラちゃん、今日会ったときからずっと……すごく、すごく哀しそうなんだもの」
路地裏を出てきたときに聴いた、ソラの魂の歌声が、心の奥底から蘇ってくる。あのときソラは泣いていた。しとしとと降り続ける雨のように、ただ静かに透明な哀しみを歌声に滲ませていた。
「……わかりました」
だから僕はここに来たんだ。
ソラの泣き声が聞こえたから。
彼女をその深い哀しみの魔手から取り戻すために、僕はここに来たんだ。
バックステージパスを台紙から引っぺがし、左肩に貼り付けた。いのりさんに告げる。
「そのために、僕はこの場所に来たんです」
ステージ上のリハーサルは終了している。ほんのわずかな客電の光に当てられ、輪郭を鈍く光らせる楽器たちが、開戦を待ちわびて熱い狂気を放つ観客たちを睥睨している。僕は足を踏み出し、その狂気の中を突き進んでいった。
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