27

 下北沢の路地裏に着くと、世羽さんが出迎えてくれた。

「おう、どうした。ひとり足りないじゃないか」

 僕たちふたりを見て、開口一番彼女はそう言う。

「お姉ちゃん、ソラ来てないの?」

「はあ? なに言ってんだ。一緒に来るんじゃないのか」

 僕と怜未は顔を見合わせる。怜未の顔は困り果てたように悄然としている。

 ソラが来ていない。明らかにおかしい。

「彼女はちょっと遅れます。僕たちふたりでリハーサル始められますか」

「構わないけど……」

 世羽さんはなにか言いたそうだったが、それ以上は口にすることなく、僕たちふたりを地下のライブハウスまで案内してくれた。

 路地裏の地下にあるライブハウスは、学校の教室と同じくらいのスペースのある空間だった。これがライブハウスとして広いのか狭いのかはわからない。僕はこの生涯に一度しか、ライブハウスという空間を見たことがないからだ。しかもその一回は、真っ暗な照明と異世界に迷い込んだような不安とが相俟って、空間の広さなんかを目測している余裕なんてなかった。ただ実際にちゃんと目にしてみると、イメージよりもかなり広いような気がする。

 前方にあるステージの上には、ギターやベース、ドラムセット、そしていくつかのアンプが置かれていた。ステージ脇には大きなスピーカーが天井から吊り下げられている。何十本ものケーブルが床を這い壁を伝い、束ねられたりもつれたりしながら、ライブハウスの八方へと続いている。天井からは、除夜の鐘みたいな形をした小さな照明がいくつもぶら下がり、そこから落ちる光がステージ上の機材を色鮮やかに浮き立たせている。

 本当に別世界に迷い込んだみたいだ。誰にも見つからないように、カフェの足元に隠された空間。日常の世界から隔絶されて、息をひそめるようにひっそりと佇む空間。でもこの空間もやがては、生命の鼓動を奮わせに来た観客の熱気で溢れ返るようになるのだろう。その真ん中に僕らは立つのだ。その中心で僕たちの音楽を演るのだ。なんだか現実じゃないみたいだ。

 学校の片隅の薄暗い部屋の中で、ひとりきりでギターを弾くのではない。

 僕たち三人の音楽を奏でるのだ。

 僕たち、三人の……。

「……怜未」

 僕はステージ上のドラムの前に座ってセットを弄っている怜未に声をかけた。

「なに?」

「もういちど、電話してみる」

「……うん」

 怜未はゆっくりうなずく。僕はライブハウスを足早に飛び出し、長い階段を昇って店の外に出た。外はもう陽が傾き始めていて、降り続ける雨粒が路面に落ちては砕け散り、通りは冷たく霞んでいる。

 僕はスマートフォンをポケットから取り出し、ソラの番号を呼び出した。通話ボタンを押して端末を耳に押し当て、しばらく待ってからまた同じ番号にかける。それを何度も繰り返した。

 僕や怜未みたいに、今日のこの日に思いを巡らせて眠れない夜を過ごすようには思えない。休日のこんな時間まで惰眠をむさぼるようなやつだとは思えない。ましてや、僕と怜未との三人の約束を反故にするようなこと、ソラにはありえない。この一ヶ月、彼女のとなりでギターを弾いてきて、彼女と同じ部活に入って、彼女と一緒にバンドを組むようになって――彼女と多くの時間を過ごしてきて、そのことははっきりと言えるような気がした。彼女は僕らを裏切ったりはしない。なにかあったんだ。彼女の身になにかが。それが何なのか、知りたくても知る術がない。

 僕はもう何度目になるかわからないコール音のあと、発信中断ボタンを押してふと空を仰いだ。

 そのときだった。

 ソラの歌声が聞こえる。

 どこかでソラが歌っているのが聞こえる。

 僕は耳を澄ませ、かすかな歌声を精いっぱい聴きとろうとした。でも、耳に聞こえるのはアスファルトに雨が砕ける音と、夕闇に沈む街の喧騒ばかりだ。ソラの歌声は僕の魂に直接響いてくる。彼女が歌声に乗せた感情が、僕の心に流れ込んでくるのがわかる。

 彼女は泣いている。

 それでもやっぱり、涙は流さないのだろう。

 哀しみを歌声にのせて、心の中だけで泣いている。ソラはそういう子だ。どこまでも不器用で、泣き方もわからないような女の子なんだ。哀しいときにどうやって泣けばいいかわからないから、溢れ出てくる感情を音楽にぶつけるしかないんだろう。

 歌声はすぐに聞こえなくなった。魂を奮わせる彼女の歌声は、哀しく降り続ける冷たい雨にかき消されてしまう。僕は必死でソラの歌声を聞きとろうとした。それでもやはり、鉛色の空から降る雨音ばかりが聞こえる。まるでソラの代わりに泣いているかのように、空から透明な哀しみがぽたぽたとこぼれ落ちてくる。

 僕は走り出していた。

 どこかにソラはいる。そう遠くないどこかに。

 来た道を引き返して、駅へと辿り着く。下北沢の駅は変わらず人で溢れていて、いろいろな人たちが行き交っていく。僕はその中からソラの姿を探そうとした。でも見つからない。ソラ、君は今どこにいるんだ。なにをしているんだ。あんなに哀しそうな歌声でうたって、なにをしようとしているんだ。

 南口の商店街を駆け抜け、茶沢通りに出る。車に跳ね上げられた路面の水が細かい霧となって舞い、通りには青臭い雨の匂いが立ち込めている。右に折れると駅から離れることになる。しかし、ソラは僕らの近くにいたような気がする。なんの根拠もない頼りにならない直観だったが、僕の足は自然と左へ向いた。茶沢通りが北へと延びる方角だ。

 井の頭線の高架をくぐって間もないころ、通り沿いの歩道に人だかりができているのが見えた。一階に証券会社が入ったビルの入口付近に、たくさんの人たち――おおよそ五十人くらい――が、どこか浮ついたような熱をもってささやき合っている。なんだ? 世羽さんはなにも言ってなかったけど、今日は祭りかなにかか?

 僕は足早にそこへ近づいた。そうして僕は思った。これはただの祭りなんかではない。集まった群衆の渦巻く興奮のなかに、鈍く光る殺気が含まれているような気がしてならない。なんだか嫌な予感がする。

 人ごみをかき分けて、ビルの入口に向かっていく。人の肩にぶつかるたび、容赦ない舌打ちと睥睨を背中に受けたが、しかし僕は歩みを止めなかった。人々の熱気が高まっていくごとに、僕の心はどんどん冷え切っていった。嫌な予感がするんだ。僕の予感は当たってほしくないときにだけよく当たる。そして今まさに、当たってほしくない予感がどうしても頭から離れない。

 ソラに関係があるかもしれない。

 ソラがここにいるかもしれない。

 なんの根拠もないし、彼女がここにいるべき理由も思いつかない。だけど、どうしてかそんな気がした。

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