第四章 空の泣き声がきこえる
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僕が目を覚ますと、窓の外から見える空は、梅雨の雨で煙っていた。
本当はこの日が来てほしくなかった。
三人でライブを観に行ったときのことを思い出す。薄暗くて狭苦しい牢獄みたいな空間の中。たくさんの人たちが、お互いの尻と尻を擦り合わせながら、お互いの心と心をぶつかり合わせて、同じ音の振動に魂を共鳴させていたことを思い出す。音楽を忘れた世界に絶望し、それでもまだ自分自身を音楽に浸すことのできる場所を渇望して、ライブハウスに集まっていた人々を思い出す。バンドのヴォーカルの叫びを、ギターのディストーションの歪みを、ベースのスラッピングのうねりを、そしてドラムの心音の刻みを思い出す。音楽こそわが存在の証明、とでも言うような彼らの渾身のパフォーミングが鮮やかに脳裡に蘇り、僕の意識をあの日のライブハウスの中に引き戻していく。
観客のあげる熱に揺れる空気。鮮やかな照明のなかに浮かぶいくつもの拳。空間を満たす音楽の反響。
突然高らかに鳴り響く警報。避難を促すPAスタッフの切迫した叫び声。非常口に殺到する観客の足音。なだれ込んでくる警察の怒号。逃げ遅れて捕まった人たちの悲鳴。群がった野次馬を押し分けて警官に引きずられていくメンバーたちの姿。
僕は思う。
もし捕まったらどうなるんだ?
もう一生音楽はやれないんだろうか。それどころか、まっとうな高校生としての生活を送れないのかもしれない。怜未にも会えなくなる。世羽さんやいのりさんにも会えなくなる。鳥巣と黒渕にも会えなくなる。そして、ソラにも。
僕は怖いんだ。
今日は僕たち三人のライブの当日だ。
本当はこの日が来てほしくなかった。
それでも、行かなければならない。三人で世界を変えるって誓ったんだ。世界に音楽を思い出させてやるって、ソラの大切なものが大切なままでいられるような世界を取り戻してやるって約束したんだ。
だから行かなきゃ。
そんな僕の思いを吸い込むように、雨はしとしとと降り続いている。
吉祥寺駅の集合場所に着くと、もうすでに怜未が立っていた。僕が駆け寄ると、彼女も僕を見とめて手を振ってくれる。
「おはよう」
「……おはよう」
僕のあいさつに彼女が応える。心なしかいつもの元気がない。
「どうかしたの?」
「うーん……あんまり眠れなくて」
怜未は力なく笑う。彼女もきっと、今日のこの日に思いを馳せ、いくつもの感情を胸に夜を越えてきたのだろう。
「ソラは?」
「まだ来てないみたい」
吉祥寺駅前の交差点を行き交う人々を眺めながら、僕らはソラを待った。その間、僕と怜未が言葉を交わすことはなかった。目の前を通り過ぎる車の鳴らすクラクション、青に変わった信号機から響く無機質なブザー、足早に歩き去る人々の雑踏、そして霞渡る交差点のアスファルトに砕け散る雨の音。それらの雑音に掻き消されて、となりに立つ怜未の息づかいは、僕には聞こえない。
集合時間が過ぎても、ソラの姿は見えなかった。
「ソラ、遅いね」
「そうだね」
「どうしちゃったんだろ」
「さあ……道草食ってたら迷ったんじゃねえの」
「電話してみるね」
怜未はそう言って、スマートフォンを操作して耳に押し当てた。しばらく辛抱強く応答を待っていたが、三、四回発信操作を繰り返したあと、彼女は諦めたようにスマートフォンをかばんにしまった。
「だめ。繋がらない」
にわかに心がさざめきたつ。ソラになにかあったんだろうか。
「とりあえず行こうか。もう向こうで待ってるのかもしれない」
僕は怜未を目で促しながら、足を駅の改札口に向けた。怜未は駅前の方をちらちら振り返り、ソラの姿を探すそぶりを見せていたが、駅構内に入って外が見えなくなると、もう振り向くことはしなくなった。
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