20
エントランスを抜けたところには、わずかの照明だけが焚かれた広い空間が広がっていた。空間の中には、何十人もの人々がすし詰め状態になって詰め込まれている。これからなにかが始まるのを心待ちにしているような、極度の興奮がおこす人いきれに、僕は肺を焼かれるような思いだった。
人込みを押し分けて、僕らはなんとか前に進もうとする。
「ちょっと! 詠人、へんなとこ触らないでよ!」
「僕触ってないよ!」
「ソラ、大丈夫っ? どさくさにまぎれて詠人にへんなとこ触られてない?」
「……へんなとこって?」
「触ってないって! ていうか僕のお尻触ってるのだれだよ!」
騒ぎ立てる僕らのことなどお構いなしのように、空間に集まった人々は真剣な表情でみな同じ方向を見つめている。薄暗い空間に満たされる、嵐が来る直前のような物々しい空気。
しばらくすると、人々が見つめている奥の方に、いくつかの人影が現れた。暗くてよく見えないが、頭ふたつ分みなより高い位置に立っているように見える。あそこにあるのはステージだということだろうか。なんのためにステージがあるんだ? あの人影はなにをする気なんだ?
人影がなにかを担ぎ上げるのが見えた。空間の空気が一気に張り詰めたのがわかる。人々が固唾を飲む。全員が人影の挙動に注目している。僕も生唾を飲んで人影を注視する。彼が担いでいるもののシルエットが、僕の記憶の中のあるものと結びつこうとしている。あれは……まさか……。
すると突然、空気を切り裂くような大きな音が走った。
ギターだ。ギターの音だ。
僕が普段使っているようなアコースティックギターではなく、電気を使って音を増幅させることのできるエレキギターだ。バリバリと引き裂くような音は、電気で弦の振動をいじって音色を変換しているのだろう。やがて腹の底から揺さぶるような重低音が響く。この音はベースだ。続いてドラムの打撃音も聞こえてくる。ステージで行っていたリハーサルが終わると、会場にはふたたび観客の息づかいだけが聞こえるようになる。
僕は理解した。
ここはライブハウスだ。
世羽さんは僕たちに音楽を聴かせるためにここに来させたんだ。
スポットライトが閃き、ステージ上を明々と照らした。それと同時に、まるで心臓を直接ぶん殴られたかのような音響が轟く。地面が揺れ、空間が揺れ、天井に瞬く照明がぐらぐらと揺らいだ。とてつもない爆発力をもった音楽。揺らして回して、そしてぶっ壊す。これが世羽さんの言っていた、ロックンロールだ。
観客はみなビートに乗って暴れている。狭い会場のなかを輪になって走り回っているやつらもいるし、波に乗るみたいに観客の頭に乗って会場の前方に流されていくやつらもいる。そんな混沌の中で、僕らは押し潰されないようにするのが精いっぱいだった。僕は耐えかねて、怜未とソラの手を引いて会場の端まで避難した。後方の端っこならわずかに落ち着けるような空間がある。
僕は横目でソラを見た。彼女はわずかに息を荒げているようだが、その視線は会場の前方から離れない。色鮮やかな照明を受けて楽器を演奏する、ステージ上のバンドを見据えている。薄暗い会場照明では彼女がどんな表情をしているのかはわからないが、その眼光はステージからこぼれてくる照明を受け、夜の海底を照らす月光のように確かな輝きを放っている。「音楽を嫌いになるしかなかった」と言って、仄暗い海の底に沈んでいたあのときの彼女とはちがう。彼女の双眸の輝きは、深い海を貫いて照らしている。
僕は会場に視線を戻した。これだけの人々が、まだ音楽を忘れてなかったんだ。爆発するような音楽の振動に、自分の魂を共鳴させることのできる人々が、まだこんなにもいたんだ。彼らはみな、窮屈で退屈な世界の中で、押し潰されて止まってしまいそうな心臓を、こうやって震わせるために、奮い立たせるために、ここに集まっているんだ。音楽のビートに合わせて、メロディに重ねて。
まるで革命だ、と僕は思った。
武器も暴力もいらない、政治も権力もない、血も涙も流れない革命。
何百本もの銃と、何万個もの爆弾と、何十万もの命よりも、たった一本のギターとベース、一組のドラム、そしてひとつの歌声が、人々の心を突き動かしている。情動へと駆り立てている。これこそが革命だ。ただ知らぬうちに巻き込まれた僕にだって、その熱い情熱が伝わってくる。
僕は知ってしまった。これが音楽の力だ。人々を昂ぶらせ、酔わせ、狂わせるほどの、音楽の魔力だ。
十曲目くらいの曲が大サビに入るところで、それは突然起こった。
ステージを鮮やかに照らしていた照明がすべて落ち、バンドの音楽が途切れた。アンプやスピーカーの音が切られたのだ。
「逃げろ!」
会場のスタッフが叫ぶ。赤い警告灯が頭上で回転し、警報ブザーがけたたましく会場内に鳴り響く。
「やだ、なにっ!?」
突然の事態に、怜未が身をすくめる。状況を飲みこめない僕も、唖然と周囲を眺めるしかない。
「警察が来るぞ!」
「捕まったらおしまいだ」
「早く行って!」
「押すなよ!」
会場に詰めていた観客たちが怒号を上げながら会場の奥に押し寄せている。おそらく非常用の出口なのだろう、会場のスタッフが声を張り上げながら客をそちらに誘導しているのが見える。
逃げる観客のひとりの肩が、ただ突っ立っているだけの僕にぶつかる。
「おい、おまえら、なにボケっとしてんだッ! 捕まりてえのかッ!」
大声で怒鳴りつけられて、僕は正気を取り戻した。
「逃げないと」
小声でつぶやく。そうだ、逃げないと。こんなところで突っ立っていたら、警察に捕まってしまう。
遠くでガラスが割れる音がした。会場のメインの出入り口を見ると、ガラス瓶を持ったスタッフやら一部の観客やらが、走って外へ出て行くのが見えた。レジスタンスのように、警察の動きを食いとめてくれているのかもしれない。出入り口に向かうレジスタンスの中には、軍隊が暴徒鎮圧に使うような棍棒や盾などを、一回り小さくしたようなものを持ったものもいる。武装があるのか。僕は愕然とする。こちらが武装しているなら、それを鎮圧しようとしている警察も、万全の武装をして来ている可能性がある。レジスタンスが突破されたら、僕ら一般人はひとたまりもないだろう。抵抗する間もなく捕縛されてしまう。このままではまずい、一刻も早く逃げないと。
「行くよ、怜未」
「うん」
この混乱の状況から立ち直ったように、怜未は力強く頷いた。彼女は大丈夫みたいだ。今度はソラに声をかける。
「ソラ、行くよ?」
ソラは反応しない。まるで取り憑かれたように、逃げ惑う観客をじっと見つめている。
「ソラっ?」
怜未も心配そうに声をかける。しかし彼女は返事をしない。
「なんで……どうしてこんな……」
ソラはそうつぶやいている。そして、警察が来たというこの混乱のなかで、必死に逃げ惑う観客の様子を、なにかに深く絶望したみたいな表情で眺めている。その目の色は、一日の終わりの空のような、暗い青色に染められている。
会場に響く悲鳴がいちだんと大きさを増している。警察はすぐそこまで来ているんだ。もしかしたら、もう会場内にまで入って来ている可能性もある。そう思いながらステージを一瞥した僕の目に入ってきたのは、ステージ上で警棒を携えながら怒声を張り上げる警官と、凶器のように楽器を振り回すバンドメンバーだった。彼は一も二もなく青い制服の男たちに囲まれ、取り押さえられてしまった。
僕は歯嚙みして非常用出口を見据える。
幸い、会場スタッフが観客を誘導している非常用出口は、僕らが突っ立っている場所からそう遠くはないところにある。群衆が押し寄せてはいるが、流れに身体をねじ込めば、割とすぐに脱出できそうだ。
僕はソラの手を取った。それとは逆の手を、怜未の方に差し出す。
「怜未、僕の手を握って。絶対にはぐれないように」
「う、うん」
僕が差し出した手を、怜未はぎゅっと握り返す。
僕はふたりの手を握り締めながら、非常用出口へと向かう群衆の中に身を投じた。
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