19

 書かれていた住所に着いたのは、時間の五分前だった。

 下北沢から新宿までなら小田急線で二十分もかからないのだが、スマートフォンで地図を見ながら書かれた住所を目指してもなかなか辿り着けない。自分たちが都会の中でいったいなにを目指して進んでいるのかわからない、ということほど恐ろしいことはめったにないだろう。まるで一度も見たことのない深海魚を、見聞きしたその特徴だけを頼りに海を泳いで探し出すみたいなものだ。新宿駅周辺の地理にはあまり明るくなく、住所があってもほとんど役に立たなかった。ようやく目的の雑居ビルを見つけたときには、僕らは歩き疲れてへとへとだった。まあ実際へとへとなのは僕、そして一緒に地図を睨んでいた怜未で、僕らの後ろを黙ってついてきていたソラは涼しい顔をしているのだが。

 世羽さんが渡してくれたメモに書かれていた住所は、新宿の東口からしばらく歩いたところにあるビルの地下二階だった。

 ビルの壁には、地下二階にある店舗(世羽さんの言う場所が店なのかどうかもわからないのだが)の看板は掲示されていない。小汚いラーメン屋やいかがわしいマッサージ屋が軒を連ねているが、まさか世羽さんは僕たちをそんなところへ行かせようとしているわけではないだろう。

 地下へ通じる階段が建物の外に設えられてあるのだが、かちかちと切れかけの蛍光灯が瞬いて羽虫が周りを舞っており、とても踏み込む勇気が持てるものではなかった。

「うす気味悪いわね……」

 怜未がぽつりとつぶやく。

「本当にここなの?」

「うん。住所は合ってる。ビルの名前も同じだし」

「地下になにもないじゃない」

 正確には「なにがあるのかわからず、なにがないのかもわからない」のである。なにもないのかどうかもわからない。

「詠人、様子見てきてよ」

「え、な、なんで僕が」

「詠人の試験だってお姉ちゃん言ってたでしょ」

「ちがうよ。僕ら三人のだろ」

「じゃあ私たち三人を代表して文化研究部部長の詠人が」

「こんなときにだけ部長って呼ぶな」

「こんなときにしか役に立たないんだからしょうがないでしょ」

「やめろ! ときに正論は人を傷つけるんだぞ!」

 僕と怜未がしょうもない押し問答をしていると、建物をソラがふらっと地下への階段の方へ歩み寄った。「ソ、ソラちょっと待って」怜未があわてて彼女の腕を掴んで止める。そのとき、ソラの身体が、歩道からビルの敷地に入ってきた男の肩に触れた。

「チッ」

「………」

 あからさまに舌打ちをした男は鋭い視線をソラに向け、僕と怜未を突き刺すように睨につけたあと、雑居ビルの地下に通じる階段を下っていった。彼の姿が見えなくなると、階段はふたたび薄暗い蛍光灯の光に沈む。

「びっくりした……ソラ、大丈夫?」

「………」

 ソラは無言のまま、男が消えた階段の方を見つめている。僕も仄暗い光に滲む階段を凝視した。いまの男、確かに階段で地下に降りて行った。階段の通じる先に、僕らの目的地があるはずなんだ。彼もそこに用があるのか? いったいなんの?

 僕がそう考えを巡らせていると、どこからともなく現れた何人もの人々が、押し黙って階段を降りて行く。何人、何十人もの人たちが、ビルの地下に吸い込まれていく。年齢層は幅広いが、二十代から三十代がいくらか多いように見える。僕らのような年代はまったくと言っていいほど見かけなかった。時計を見ると、世羽さんに渡されたメモに書かれていた時間ちょうどであった。彼らは僕らとおなじ場所を目指してこの街に来たんだろうか。その目指す先にはいったいなにがあるんだろうか。

「行ってみようか」

 怜未はゆっくりとうなずく。ソラは相変わらず無言で階段の方を見つめている。

 羽虫のはばたく薄気味悪い階段を地下まで降り、重厚なドアが嵌められた入口をくぐった先には、小さな部屋が繋がっていた。部屋の壁一面にはなにかが隙間なく貼り付けられている。お札か何かかと思ってびくびくしながらよく見ると、どうやらステッカーみたいなものだ。いろんなロゴがデザインされたステッカーが、壁を埋め尽くすほどびっしりと貼り付けられていたのだ。

 入口の横にはカウンターがあって、屈強ないかついお兄さんや死神みたいな恰好をしたお姉さんが立って僕ら三人を睨みつけている。お兄さんが着ている白いTシャツには、ニシキヘビがのたくったような字で「PIZZA OF DEATH」と書かれている。死のピザ? ここはピザ屋か? 僕らはこれから挽肉にされてピザの具になってコワイお兄さんたちにおいしく食べられてしまうんだろうか。

 僕らがカウンターの前に立つと、ピザ屋のいかついお兄さんが「ああん?」と野太い声を発した。

「なんだおまえら。なにしに来た」

「ええと……」

「なにしに来たって訊いてんだよ」

 強面が凄んでくるので僕はもうチビりそうだった。

 いかついお兄さんが気色ばんで僕らを圧倒している横から、死神みたいなお姉さんが声をかけてくる。

「ほら、おまえがその顔で吠えたら子どもたちがチビっちゃうだろ。あんたらなにしに来たの? もしかして迷子?」

 お姉さんは面倒くさそうな声で訊いてきた。僕らに僕だってここになにしに来たのかわからない。ここは絶対にただのピザ屋じゃないことくらいわかっている。

「そ、その……」

「ここはおまえらみてえなガキが来るところじゃねえ。とっととおうちへ帰りな」

 僕らを邪魔だと思ったのだろう、お兄さんは手のひらを振って僕らを払いのける仕草をした。処置なし、仕方ないから今日はおうちへ帰ろう、と僕が踵を返そうとしたとき、怜未が僕の脇腹をひじで小突いてきた。

「な、なに」

「詠人、名刺だよ名刺」

「名刺……?」

 ああそうか、世羽さんがフリーパスだとかなんとか言っていた、彼女の名刺か。

 あれをここで見せれば、あのいかついお兄さんは僕たちを中に通してくれるのだろうか。あんな紙切れ一枚が、しかもたかが世羽さんの名前が印刷してあるだけの紙片が、あのお兄さんの巌のような意志を曲げることができるんだろうか。甚だ疑問である。あんな紙切れなんかではなく、スタングレネードでも持ち出さないと突破できないような気がする。

 ともあれ、僕は怜未に言われた通り、財布から世羽さんに渡された彼女の名刺を取り出して、いかついお兄さんに見せた。彼は僕を睨みつけながら、僕の手から名刺をひったくった。しばらく僕を射竦めたあと、名刺に落ちた彼の目が、わずかに見開かれるのがわかった。

「こんなガキが……どういうことだ」

「どうした」となりから死神お姉さんが彼の手元を覗きこむ。「おい……セイさんの名刺じゃねえか。あんたらどこでこれを拾った」

 「セイさん」とは、おそらく世羽さんのことだろう。このふたり、世羽さんの知り合いなのだろうか。

 僕はぶんぶん首を横に振る。「拾ったんじゃないです、直接渡されたんです」

「直接? セイさんから?」

「はい。ここの住所と、今日のこの時間と一緒に」

 いかついお兄さんと死神のお姉さんは、しばらくこそこそと話し合いをした。「なにかの間違いじゃねえのか」「でもこれ、本物だぞ。セイさんの名刺だ」「じゃあなんでこんなガキどもが」「知るか。見せられたんだからしょうがねえだろ。通すしかねえ」「でもよ」

「あの……」

 怜未がふたりに声をかけると、ふたりの肩がぴくりと跳ねた。いかついお兄さんはしばらく鋭く光る眼光を僕らに向けたあと、諦めたように首を振った。

「わかったよ。入れ」

「え?」

「入れっつってんだ。早くしろ」

 お兄さんは世羽さんの名刺を僕に押し付けて返し、また手で追い払うような仕草をした。今度のは「とっとと帰れ」ではなく「とっとと入れ」という合図である。嬉しいんだか哀しいんだか、おかげで僕たち三人は道が拓かれたかわりに退路を断たれ、なんとも恐ろしげな雰囲気の漂うエントランスの奥に入っていかざるを得なくなった。

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